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Scene 01-3

 階段を上りきると、信乃がふと足を止めた。 「どうした?」 「いや、さすがに少し目立つからね」  信乃は首にかけていたシルクストールを外しながら、自分の口元あたりを指先でトントンと叩いてみせた。  一歩外に出れば繫華街の中心部である。すぐに車が来るとはいえ、タキシード姿の男が口枷つきの青年を連れ歩いている様子はたいそう衆目を集めるだろうし、悪意ある噂を流布されないとも限らない。椿生はなるほどと頷き、手渡されたストールを青年の口元から首のあたりへ巻き付けた。 「息苦しいかもしれないが、少しの間辛抱してくれ」  青年はなんでもないことだというように軽く両手を挙げ、頷いた。ストールにすっぽり埋もれた顔は、ますます小さく見える。  外へ出ると、雨は止んでいたがその分ひどく冷え込んでいた。鈍色の空からは今にも雪が落ちてきそうだ。薄着の青年がふるりと身を震わせる。黒塗りの大型セダンが目の前で停車したかと思えば運転手が降りてきて、素早く後部席の扉を開いた。 「うちのを使ってくれ。そのほうが気が楽だろう?」  言われてみれば信乃の言うとおりだった。彼専属の運転手は椿生とも顔見知りであるうえ、青年を連れ帰ることについてあれこれ弁解をする必要もない。礼を述べて青年とともに車に乗り込むと、信乃は窓の外からひらりと手を上げた。 「それじゃ、俺はここで」 「なんだ、乗らないのか?」 「少し寄りたいところがあってね」 「そうか、すまないな。ではまた」 「ああ。また連絡するよ」  信乃を路上に残し、車は滑るように発進した。街並みが珍しいのか、青年は窓に張り付くようにして外を眺めている。立ち並ぶ高層ビル群と、それらを縫うように走る首都高速。夜闇をものともせず光り輝く街はここを仕事場とする椿生にとっては当たり前の光景だが、彼にとってはそうではないらしい。  青年が突然椿生を振り返り、窓の外を指さした。金色の瞳を丸くし、ストールからのぞく頬は桃色に上気している。 「どうした?」  細い指が示す先にあったのは、観光名所にもなっている巨大なタワーだった。天を衝くような長身はこの都市のランドマークとして長年親しまれている。オレンジ色にライトアップされたすぐそばを、航空機がチカチカと明滅しながら横切っていくのが見えた。 「飛行機が好きなのか?」  違う、と青年は首を振る。 「ああ、タワーのほうか。見るのは初めてか?」  青年は大きく頷く。奴隷市場にいたという説明の真偽は定かでないが、少なくとも世間一般の若者のようにレジャーを楽しめるような生活ではなかっただろうから、観光施設など知らなくても無理はないのかもしれない。 「そのうち連れて行ってあげよう。高いところは平気かな?」  青年はよくわからないというふうに首を傾げる。その拍子にストールが緩んで解け、はらりと落ちた。口枷があらわになり、青年は慌てたように両手で口元を覆った。 「ここなら大丈夫だよ。見せてみなさい」  運転席と後部座席の間にはパーテーションがある上、後部席の窓はスモークガラスで外からは見えない。椿生は青年の顎に手をかけ、窮屈そうな口枷を検分した。首の後ろで固定されたバックルには、ご丁寧にも錠前がかけられている。 「ずいぶんと厳重なことだ。鍵は持っているか?」  青年は困ったように眉を寄せ、首を振った。競売人は何も言わなかったし、もちろん椿生も鍵など受け取っていない。あの場で確認しておくのだったと後悔したが、今となってはどうしようもない。 「まあいい、帰ったら切ってしまおう」  どうせもう使うことなどないのだから。そう言うと青年は頷き、再び窓の外に興味を戻した。椿生はきょろきょろとせわしなく動く小さな頭を眺めた。背格好は立派な青年だが、仕草は幼い子供のようだ。ようやく檻から解放されてはしゃいでいるのかもしれない。だとすれば喜ばしいことだと椿生は思った。  車は次第に都心部を離れ、郊外へと差し掛かる。巨大タワーも高層ビルも遠く背景と化し、白い街灯が照らす閑静な街並みへと変わった。通りには瀟洒な邸宅が立ち並び、その中でもひときわ広大な敷地が椿生の私邸である。まもなく到着だと告げてやると青年は窓から離れ、膝に手を置いて姿勢を正した。 「そう緊張することはない。私と数名の使用人だけの家だ」  車は車寄せに滑り込み、静かに停車する。青年は運転手にぺこりと頭を下げ、車を降りた。スーツ姿の男が駆け寄ってきて、椿生に一礼した。 「若、お帰りなさい」 「東眞(あずま)、着替えと食事を用意してくれ。今日から彼を住まわせる」 「……こちらの方は?」 「詳しい説明は明日だ」  立ち話として済ませるにはいささか事情が複雑すぎる。東眞は人差し指でウェリントンフレームを軽く持ち上げたが、それ以上何も言わなかった。  ビジネスの場では秘書として、また私生活では執事として長年椿生に仕えている東眞である。主人が招いた客に疑念を抱く理由はなかった。両者の間にはそれだけの揺るぎない信頼関係があったし、勘の良い東眞なら少なくともこの青年が警戒すべき人物ではないとすぐに理解できるはずだ。 「(みどり)に頼んで、何か食べやすいものを作らせましょう。着替えは──サイズの合うものがあるかどうか。探してみます」 「ああ、頼む」  多くを語らずとも、東眞は青年の外見からある程度の事情を察したようだった。去り際に「風呂は沸いています」と言い残すと、厨房のある方向へ足早に去っていった。  東眞に言われ、椿生はあらためて傍らの青年を見やる。彼は美しいが、決して清潔とは言い難かった。着せられている洋服は新品ではなかったし、粗悪な環境に長期間置かれていたのだろう、白い肌は全体的に薄汚れ、長い髪はそこかしこでくしゃくしゃに絡まっている。 「おいで、こっちだ」  椿生は青年を風呂場へ連れて行った。まずは口枷を外してやらなければ。鋏を持ってきて、じっとしているようにと告げた。分厚い革は切るのにいささか苦労したが、ベルトを二か所ほど切り離すとゴトンと重い音を立てて床に落ちた。  ぷは、と青年が大きく息を吐いた。 「よし、これで──」 「あー! スッキリしたぁ! おおきになぁニイちゃん!」 「は……?」  青年は堰を切ったように喋り出した。それはもう流暢な、西の訛りだった。 「聞いてたでー。俺んこと間違って買うたんやって? アルファのくせしてどんくさいニイちゃんやなぁ」 「喋れない、のでは……」  やっとのことでそれだけ言うと、青年は長い睫毛をぱちぱちと瞬かせた。 「いやー、俺こんなんやからさ、お上品なアルファ様には嫌われるんよ。せやから絶対に口きくな言われて、こんなもん付けられててん。気の毒に思うて買うてくれる物好きも中にはおるからって。そんな間抜けなヤツおるわけないやろ思たけど、ここにおったんやなぁ」  青年はつま先で口枷を蹴飛ばし、愉快そうにけらけらと笑う。まるっきり己のことを嘲笑されているわけだが、事実であるから返す言葉もなかった。 「あ、言うとくけど返品は利かへんで? 一生黙ってろとは言われんかったし、俺が騙したわけやないもん。悪いけどカネは諦めてや」  ずけずけと言い放つ青年だが後ろめたい気持ちはあるのだろう、椿生の目を見ようとしない。口枷の痕が残る頬にこわばった笑みを乗せ、きょろきょろと落ち着きなく視線を泳がせている。だが椿生は彼を責めるつもりなどなかった。悪いのは青年ではない。彼を都合の良い商品として取り繕い、金さえ手に入ればあとは知らぬとばかり汚い商売をした連中だ。第一、ひとたび引き受けたものをやはりいらないと突き返すような行儀の悪い真似はできない。 「返品するつもりはない。勘違いをしたのは確かだが、買い取った以上は責任をもって面倒を見る」 「いやいや、どーせ明日になったらやっぱ出てけとか言い出すんちゃうの?」 「君がそれを望むなら話は別だが、私から申し出ることはないよ」 「……ほんまに?」 「嘘などつくものか」  ことさら力を込めてそう言い切ると、青年はきつく握りしめていたシャツの裾からゆっくりと手を離した。 「そういえば自己紹介がまだだったな。私は宗方椿生、この家の主だ。君は?」 「……ユウヒ」 「いい名だ。よろしく、ユウヒ」  思ったままを告げただけで特におかしなことを言ったつもりはなかったが、青年──ユウヒは不思議そうな顔で椿生を見つめたあとぺこりと頭を下げ、「ヨロシクオネガイシマス」と妙にたどたどしい、小さな声で言った。  図々しいくせに不安げで、とびきり美しいくせに口が悪くて騒々しい。こんな不思議な青年に会ったのは初めてで、椿生の鼓動もまた不思議なほどに高鳴るのだった。

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