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Scene 02-1
時代劇みたい、というのが第一印象。
見る者を威圧するような重々しい外観の純和風屋敷が椿生の私邸であり、ユウヒが暮らす新しい家だった。
若いくせになにが楽しくてこんな年寄りじみた屋敷に住んでいるのか、金持ちの考えることというのはよくわからない。それにこの感じだと、家の中も古くさくて暗くて寒そうだ。
──ま、檻ン中より全然ええけど。
なげやりな気分で一歩足を踏み入れたユウヒは、想像を裏切る様相にぱちぱちと瞳を瞬かせた。
室内は拍子抜けするほど明るく洗練されている。伝統的な和の趣きに近代的なテイストを加えた落ち着きのある設えは、元の日本家屋を巧みに生かしてリノベーションされたものだ。当然そんなことを知る由もないユウヒは、吹き抜けの高い天井をただぽかんと見上げるばかりだった。
椿生は小さく笑い、首元を飾っていたボウタイを解いた。
「曾祖父が気に入っていた屋敷だが、これだけ古いとさすがに暮らしづらくてね。私が受け継いだのを機にいろいろと直したんだ」
ちょっと壁紙を張り替えてみたというような軽い口ぶりだが、それがどれほど金のかかることかは、住居だの建物だのにまったく興味のないユウヒにも容易に想像がついた。
連れてこられたバスルームもその例に漏れず、ゆったりと贅沢なつくりになっていた。広いバスタブと、壁一面を占める大きな窓、そしてその向こうは庭だろうか。点々とともるあかりが木々のシルエットを夜空に浮かび上がらせている。清潔な香りの湯気が、浴室全体をやわらかく満たしていた。
王宮のような豪華な屋敷で目が眩みそうな黄金の浴槽に入れられたこともあったが、あれはお世辞にも良い趣味だとは思えなかった。このバスルームのほうがずっと心地よく落ち着けそうだ。
「着替えは後で持ってこさせるから、とにかく汚れを落として温まりなさい。風呂の使い方はわかるな?」
内容こそ一方的な指示だが椿生の声は穏やかで、高圧的なところが一切ない。口のきけない憐れな子供を救ったはずが、枷を外してみれば関西弁の生意気なオメガ。彼にしてみれば詐欺にあったようなものだろうに、こちらを責めたりしないのも不思議だった。
ユウヒはほんの一瞬考えたあと、「わからん」と首を横に振った。わかると答えれば彼がそのまま出て行ってしまいそうだったからだ。そんなユウヒの思惑など知るはずもない椿生は、黒い瞳を不思議そうに瞬かせた。
「……風呂に入ったことがないのか?」
「んなわけないやん。知らん家のお風呂は勝手がわからんから教えてって言うてんの。うっかり何か壊したりして、叱られてもかなわんし」
「そんなことで叱ったりはしないが……」
「ええからちょお待って。服脱ぐから」
風呂の使い方など、どの家でもさほど変わらない。ユウヒはただ、少しでも長く椿生と話していたかった。とかく金持ちというのは我儘で気まぐれと相場が決まっている。いつ放り出されるかわからないのだから、そうなる前に自分のことを少しでも知ってもらい、気に入ってもらわなければならなかった。
着慣れないドレスシャツの貝ボタンは、焦れば焦るほどうまく外れない。もたもたとシャツの身頃を引っ張っていると、椿生の手がすっと伸びてきた。
「そんなに慌てなくていい。貸してみなさい」
長い指が小さなボタンを器用に捉えては、ひとつ、またひとつと外していく。艶やかな黒髪がユウヒの鼻先をくすぐる。香水と整髪料が入り混じった香りの奥に、アルファ特有の雄の匂いがした。
「さあ、外れた。あとは自分ででき──」
椿生の手が、シャツを開いたまま凍り付いた。穏やかだった表情が一気に曇る。その変化は、ついぼんやりと手つきに見惚れていたユウヒにもはっきりとわかった。
「これは……」
「あは。びっくりした? ごめんな、こないな傷モンで。でもな、別に痛くないねん。セックスはちゃんとできるから安心して!」
ユウヒは明るく取り繕ってみせたが、椿生の表情はみるみるうちに険しくなっていく。心優しい男の同情を誘って懐柔してやろうという目論見は、どうやら外れてしまったらしい。
しかしここで退くわけにはいかない。大金を積んでオメガを買うようなアルファは、とうに子を成し、世の中のたいていの享楽をも味わい尽くして退屈しきった老人ばかりである。椿生のような若く誠実なアルファになど、二度とお目にかかれる保証はない。
「いや……しかし、こんな……」
「あー、汚いし触らんでええよ。見たくなかったら目ぇつぶってたらええし。俺がちゃあんと気持ちよぉしたげるからさ」
ユウヒは椿生に体を寄せ、タキシードジャケットの襟元からするりと手のひらを滑り込ませた。引き締まった胸筋の厚みがシャツの生地越しにも生々しく感じられ、体温がじわりと上がる。
しかし椿生は触れられて喜ぶどころか、まるで自身が傷つけられたかのように痛々しい顔をする。それを見ていると胸の真ん中あたりがぎゅっと縮むような気がして、ユウヒはぱたりと手を落とした。
椿生はほっと息をつき、ユウヒのシャツを手早く直すと「ゆっくり入ってきなさい」とだけ言って足早にバスルームから立ち去った。
「……あーあ」
ユウヒはシャツを両手で大きく開き、自身の痩せた体を見下ろす。
いくつもの消えない痣や傷跡はすべて、これまでの何人もの主人によってつけられたものだった。シャツを床に放り、トラウザーズも下着も脱ぎ捨てて全裸になると、ため息がもれた。
椿生の態度は、ユウヒの体を目にしてから明らかに変わった。道具のように売買されるオメガの存在など想像すらしたことがなかったのだろう。いかにも育ちの良さそうな世間知らずのお坊ちゃんアルファには無理もないことだ。少し焦りすぎてしまったようだが、その場で出ていけと言われなかっただけでもまずは充分と思うしかない。
「……ま、しゃーないな!」
切り替えの早さがユウヒの美点であった。落ち込んでいても笑っていても時間は同じように過ぎる。ならば今はこの快適そうな風呂を存分に味わっておかなければ損というものだ。
やたらいい匂いのする石鹸で体を隅々まで磨き上げてから、広いバスタブの中でゆっくりと手足を伸ばす。かじかんでいた指先が温められ、じんじん痺れて気持ちがいい。思わずほうと息を吐くと体が沈み、鼻までぶくんと湯船に潜った。
「どーせ初めてなら、エエ男がええに決まっとるし」
その言葉はぶくぶくと泡になり、湯気に溶けた。
第二性の発現から今に至るまで、幾人もの主人の元を転々としてきたにもかかわらず、ユウヒはいまだ未経験であった。
いくらアルファでも、信頼できない人物に心身を委ねることはしない。それがユウヒの矜持だった。しかし、『理想のオメガ』ではないユウヒにかつての主たちは失望し、激高して暴力をふるった。
従順かつ享楽的な性奴隷。いわゆるステレオタイプのオメガ像は、あくまでも支配者たちが自らの都合の良いように仕立て上げた勝手な理想である。ユウヒは尊敬できぬ者から理不尽に支配されることを嫌った。納得いかないことがあれば主人であろうと誰であろうと臆することなく抗い、時には文字どおり噛み付きさえした。そうしてユウヒは全身の傷跡と引き換えに、己の矜持と処女を守り抜いてきたのだった。
オメガに生まれて得をしたことなど何一つない。それならせめて、この人と見込んだ相手と睦み合い、体温を重ねる喜びくらいは感じてみたい。それが叶いそうなアルファがようやく目の前に現れたのだ。愛される期待など最初からしてはいないが、時おり構ってもらえるペットくらいの地位には置いてもらわなければ。
ユウヒは大きな鏡に向かい、小さく首を傾げた。きゅっと口角を上げ、目を細め、とびきりの笑顔を作ってみせる。
「なぁ、俺、かわいいよな?」
鏡に映る自分に向けて問いかける。答えてくれる者は誰もいないので、自分で大きく頷いた。傷だらけの体は醜いが、顔は決して悪くないはずだ。
椿生はどういうオメガがタイプなんだろう。次こそうまくやらなければ。思いきりセクシーに迫ってみようか。いや、ああいう真面目そうな男にはあざといくらいに可愛いタイプが意外と刺さるかもしれない。
あれこれ策を練りながら鼻歌まじりに浴室を出ると、スーツ姿の男が目の前に立っていた。
「ヒェッ!?」
誰もいないと思い込んでいたユウヒは思わず飛び上がった。
「よく温まられましたか?」
「あ、ハイ、ども……」
アズマと呼ばれていた使用人だ。ユウヒは全裸のまま頭を下げた。
東眞は静かに一礼すると、タオルを広げてユウヒの体を拭い始めた。ふかふかの清潔なタオルに包まれる感覚は心地良いが、東眞は体の傷を見ても眉ひとつ動かす様子がない。それがかえってユウヒを落ち着かない気持ちにさせた。
「あのー、貸してもらえたら自分でやりますケド……」
「お世話をするように申し付かっております。それから、私に対しては敬語をお使いになる必要はありませんので」
「はあ……」
東眞は鏡の前にユウヒを座らせると、髪に香りのよいオイルを擦り込んだ。丁寧なドライヤーのあとはまた別の何かを塗り付けられ、金色の髪はこれまで見たことがないくらいつやつやになった。緩い三つ編みを結い上げて、東眞は満足そうに息を吐く。どんな富豪に売られる前にだってこれほどしっかり手入れされた経験はなかった。あの椿生という男はああ見えてかなり偉いアルファなのかもしれない。
「服はこれを。若のお古なので少し大きいかもしれませんが」
渡されたコットンシャツとパンツは見るからにユウヒに合うサイズではなかったが、黙って袖を通した。東眞は顎に手を当て、うーんと唸る。シャツは袖が、パンツは裾がたっぷり余っているし、ウエストなどは緩すぎて手を離すとストンと床まで落ちてしまう。
「思ったより細いな……。少し待っていてください」
東眞はそう言い残し、急ぎ足でどこかへ行ってしまった。ユウヒはパンツのウエストを両手で押さえたまま、言いつけどおり彼が戻るのを待つより仕方なかった。
そういえば風呂に入るまで着ていた服があったのにと、ユウヒはあたりを見回した。かなりくたびれてあちこち擦り切れていたが、まだ十分に着られるはずだ。あれはどうなったのだろう。裾を引きずりながら探し回ってみたものの、適当に脱ぎ捨てたそれらはどこにも見当たらなかった。
「お待たせしました。少し不格好ですが、これでどうでしょう」
慌ただしく戻ってきた東眞が手早く取り付けたのは、黒い革製のサスペンダー。大人の洋服を子供が無理やり着ているようで滑稽だが、これで両手が自由になるし、窮屈な服装は好きではないからこれくらいでちょうどいい。肩からずり落ちてくるサスペンダーベルトを直しながら、ユウヒは「これは誰の?」と尋ねた。
「私のですが、もう使わないものなのでお気になさらず」
言いながら東眞はベルトの長さを調整し、ついでに余っていた袖と裾をくるくると折り返してくれた。
「他に気になるところはおありですか?」
「あー、えと、俺が着てた服は?」
「洗濯に回しました。あまり良い状態ではありませんでしたが、必要ですか?」
ユウヒは少し迷ってから「一応……」と答えた。まだ着られるものを捨ててしまうのは勿体ないと思ったからだが、とはいえ、もう袖を通すことはないだろうとも思った。どこの誰のものかもわからない擦り切れたシャツなんかより、いま着せられた椿生のおさがりのほうが着心地もよく、ずっと気分がいい。洗剤だろうか、清潔で嫌味のない上品な匂いは、ここが今までのどことも違う新しい場所なのだとユウヒに教えてくれているようだ。
「新しい洋服はすぐに手配しますから、少しのあいだ辛抱してください」
「うん……ありがと」
「ではこちらへ。食事の用意が出来ております。──っと、その前にこちらを」
「……これ何?」
手に握らされた透明のケースに、ユウヒは首を傾げた。中には白い錠剤がいくつも入っている。東眞は眉を上げ、少し驚いたようにユウヒを見た。
「これは、オメガの方のための抑制剤です。今夜から毎日一錠、必ずお飲みください」
「あぁ、そっか、ハイ……」
もしも飲み忘れたり、体に合わないようなことがあればすぐに知らせるようにと、東眞は医者のようなことを言う。面倒だなと思わないでもなかったが、ユウヒはとりあえず頷いてピルケースをポケットに仕舞った。
「他に質問はありますか?」
「うん、えっと」
ユウヒは薬よりも食事よりも、早く椿生のところに行って話がしたかった。きょろきょろと周囲を見回してみるが、両側に長い廊下が続いているばかりで彼の所在など見当もつかない。
「何でしょう?」
「さっきのニイちゃん……あー、ツバキやったっけ? どこに……」
「いけません」
「へ?」
「いくらお客様とはいえ、若はこの屋敷の主です。せめて、椿生さん、と」
ユウヒは直感した。この人物に逆らってはならない。
「つ、ツバキさん、は?」
言い直すと、東眞はよろしいというように頷いた。
「若は先ほどから貴方をお待ちです。知らない家にひとりでは心細かろうとおっしゃいまして」
東眞のいう心細さは、いまユウヒが感じている不安とはおそらく違う種類のものだろう。知らない場所に突然放り込まれることには慣れている。だが心遣いは単純に嬉しいものだった。
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