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Scene 02-2
通されたダイニングには本当に椿生がいて、ユウヒを見るなり柔らかく目を細めた。タキシードではなく部屋着姿で、きっちりとセットされていた髪もさらりと額にかかっている。彼も風呂に入ったのだろうか。
「ああ、顔色がよくなったな」
「うん……ども……」
向けられた声にも表情にも、さきほどのような硬さは少しも残っていない。どうやら拒絶されることはないようだと、ユウヒは安堵した。
「座りなさい。食事にしよう」
テーブルの上には大小いくつもの皿が並び、それぞれが良い香りの湯気を立てている。鮮やかなトマトのスープ、焦げ目ひとつない黄色のオムレツ、具だくさんの煮込み料理。盛り付けも美しいそれらに見惚れていると、赤い髪をひとつに束ねた男が山盛りのサラダを運んできた。男はユウヒに目を留め、人好きのする笑顔を見せた。
「悪いね、急だったからこんなもんしか用意できなくてさ。また今度気合い入れて作ってやるよ」
どうやら彼がこの料理を拵えたらしい。やけに馴れ馴れしい口ぶりだが、悪い男ではなさそうだ。東眞が言葉遣いを咎めるのにへらりと笑い返すと、男は軽い足取りでダイニングを去って行った。
食欲をそそる匂いに大きく腹が鳴り、ユウヒは慌てて咳払いで誤魔化した。東眞が椅子を引き、視線で促す。おずおずとそこに掛け、尋ねた。
「これ、俺が食べてええの?」
「もちろんだ。それとも苦手なものがあるかい?」
「ない、けど……」
好き嫌いなど言えるような生活ではなかった。床に置かれた残飯を犬のように貪るのが当たり前で、出来立ての温かい食事が自分のために用意されているということが俄に信じられなかった。
「さっきのは翠。うちの料理人だ。彼もああ言っていることだし、週末にでも改めて歓迎の食事会を開こうか」
「食事会……」
「ああ、そうだ。好きなものがあれば作らせるが、何がいい?」
ユウヒはそれに答えられず、かわりにまた尋ねた。
「あのー」
「うん?」
「俺、ここにいてええんですか?」
なにしろ勘違いで買われたオメガである。主人と同席を許され、歓迎される身であることが、ユウヒにはうまく飲み込めなかった。
椿生の黒い瞳が不思議そうに瞬き、そしてすぐ笑みの形に変わる。
「いいに決まっている。さあ、冷めないうちに食べなさい」
椿生がカトラリーを手にしたので、ユウヒもそれに倣った。これまでは主人の豪勢な食事を横目に見ているばかりだったから、テーブルマナーに自信はない。ゆっくり味わう余裕などなく、椿生が自分のことやこの家のことをあれこれ話してくれるのも半ば上の空で聞いた。覚えたのは、彼が二十八歳でユウヒより五つ年上だということ。父親はすでに亡くなっており、母親とは離れて暮らしていること。その程度だった。
椿生は、ユウヒがフォークを置いたのを見届けると自分もカトラリーを置いた。そこで初めて、彼がこちらのペースに合わせて食事を進めてくれていたことに気づいた。
「口に合ったかな? 今後も食べたいものがあれば翠に言うといい。たいてい何でも作ってくれるから」
ユウヒは頷いた。食べたいものなど思いつかないが、明日からはひもじい思いをしなくて済むのだと思うと嬉しかった。
「では寝室に案内しよう。疲れただろうからゆっくり休みなさい」
「うん……」
不思議だった。奉仕を求められるわけでもなく、叱られることも眉を顰められることもない。これではまるっきり普通の客のようではないか。せめて寝室は薄暗くて寒い物置小屋か何かであってほしいとユウヒは願った。そうでなければ釣り合いがとれない。いよいよ何かの罠に決まっている。
これまで奴隷じみた扱いばかり受け続けてきたせいで、ユウヒはこの歓待ぶりを素直に喜ぶことができなかった。ついには妙な猜疑心まで抱く始末だったが、願いむなしく案内されたのは物置小屋どころか、たいそう立派なベッドルームであった。
部屋の中央には、大人が三人くらいはゆったり並んで眠れそうな大きなベッドが配置され、落ち着いた色調のベッドリネンも家具も、見るからに上質そうなものばかりで揃えられている。おまけに香か何かが焚かれているのかほのかに良い香りまでして、うっかり天国にでも来てしまったのかと思うほど。
ユウヒは椿生を振り返った。
「……ここ?」
「この客間しかベッドの用意ができていないそうなんだ。少し狭いが今夜は辛抱してくれ。他にも部屋はあるから、明日にでも好きなところを選ぶといい」
「いや、ちゃうくて……」
狭い? どこが? 頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。
これほど美しく整えられた寝室にユウヒが入っていいのは、主の褥に呼ばれたときだけであるはずだ。どう考えても自分のような者が使っていい部屋とは思えない。
「空調は効かせてあるから寒くはないと思うが、何か気になることが?」
「ここ、ほんまに俺の部屋? なんか間違ってへん?」
「さっきからずいぶんおかしなことばかり聞くんだな、君は。何も間違っていないから安心しなさい」
「……う、うん」
今のユウヒの主は椿生である。彼にそう断言されては何も言えず、ただどうしようもない違和感だけが残った。
「では私はこれで。明日は仕事で早くに出掛けるが、君のことは家の者に頼んでおくよ」
おやすみ。椿生の手がぽんと軽く頭を撫で、離れていく。
ユウヒは慌ててその手を掴んだ。
「ま、待って!」
「どうした?」
黒い瞳にまっすぐ見返されてドギマギする。しかし今夜を逃せばますます言い出しづらくなるような気がして、ユウヒはぐっと顔を上げた。
「あ、あんたの部屋……行ってええ?」
命じられて褥に赴くことは数あれど、自ら乞うのは初めてかもしれない。かぁと頬が熱くなった。
「部屋に? まぁ、かまわないが……」
椿生は軽く首を傾げ、その意味を測りかねている様子だった。オメガが寝室を訪ねる理由を、アルファが理解できないわけがない。きっと、わざととぼけているのだろうとユウヒは思った。彼なりの気遣いか、あるいは本当にその気がないのかはわからないが、いずれにしてもこちらから行動を起こさなければ進展しないことだけは確かなようだ。
「上の階だ。来なさい」
そう言うと椿生は先に立って歩き出す。ユウヒは広い背中を小走りに追いかけた。
屋敷の二階は大部分が椿生のプライベートスペースだった。書斎はもちろん、簡単なキッチンにバーカウンター、シャワールームに寝室まで、ここだけで充分に生活できる設備が整っている。機能性を重視したシンプルなインテリアからは、椿生の性格が伺い知れた。
椿生は室内をひととおり案内すると、「何か飲むか?」とユウヒに尋ねた。ユウヒはいらないと首を振り、それより、と椿生の腕に指を這わせた。ここまで来たならもうやることは一つしかないのだから、勿体つけても仕方がない。
「……なぁ、どうされんのが好き?」
秘めやかに問いかけたつもりの声は緊張に掠れていた。ドクドクと、鼓動が内側から胸を叩くのを感じる。
椿生のボトムの前合わせを、ユウヒはそっと手のひらで撫でた。
「やめなさい!」
椿生はぎょっとした顔をして、その手を振り払った。思いもよらぬ強い力に思わず「いたっ」と声が出た。
「あ、す、すまない……。大丈夫か?」
「うん……てか、触られるん嫌い?」
「い、いや。驚いて、つい……」
オメガを寝室に招いておいて何を驚くことがあるというのか。この期に及んで紳士ぶる主に焦れたユウヒは、ずいと椿生に迫った。
「俺のこと、やっぱ気に入らん?」
「そ、そういうわけではない」
「じゃあ、ココだけ触らせてや。気持ちよぉしたげる。だいじょぶ、俺は脱がへんからさ」
再び下半身に手を伸ばすと、「ダメだ!」と両肩を掴まれた。そのままバリッと音がしそうな勢いで引き剥がされ、かと思えばくるりと反転。ユウヒの体はぐいぐいと部屋の外に押し出された。
「え? ちょ、ちょっとまって? なぁ、ちょお、待ってって」
「話はまた明日だ。今日はもう寝なさい。おやすみ」
ガチャリと鍵をかける音。扉が閉まる寸前にちらと見えた椿生の横顔は険しかったが、そこに滲むのは怒りや不快感というより、困惑とか羞恥とかいったたぐいの感情に見えた。
はて、とユウヒは首を傾げる。
これまでの主人に無理やり奉仕させられたことは数え切れない。だが真逆の事態が起きるなどとは考えもしなかった。寝室にまで押しかけて、それでもなお追い返されるなんて。
オメガは金持ちの性処理のために飼われる例がほとんどである。しかし椿生はそういうつもりでユウヒを買ったわけではない。もしかするととっくに決まった相手が、とまで想像して、ユウヒはぶるぶると頭を振った。
「あー、アカン、待て待て。ええと……、せや! 童貞! きっとそうや! うんうん、そらしゃーない! アハハ!」
ユウヒは力強く胸を張ってから、がくりと肩を落とした。
「んなわけないて……」
奥手な性格であるのは確かなようだが、椿生ほどのアルファが未経験だなどとはさすがに考えにくい。それならばやはり体の傷が気に入らなかったのか。考えてみれば、大金をはたいて買った商品が傷だらけなんていくらセックス目当てでなくとも嫌に決まっている。ユウヒは与えられた寝室にとぼとぼと戻った。
ベッドに体を投げ出すと、薄い胸に硬質な感触が食い込んだ。ポケットをまさぐると、ピルケースがカラカラと音を立てる。東眞に渡された抑制剤だ。
「……忘れてた」
ユウヒはサイドテーブルにポイとそれを放ると、再びベッドに寝転がった。上質なスプリングはわずかなきしみ音も立てずに優しくユウヒを受け止めてくれる。柔らかすぎず硬すぎずの申し分ない寝心地だが、どうにも胸がざわついて落ち着かない。なかなか眠れず、ユウヒはシーツの上でころころと寝返りを打った。
そのたびに、椿生の赤く染まった横顔がやけに脳裏にちらついた。
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