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第1話
昼休みのチャイムが鳴っても、教室の空気は静まり返っていた。
購買から戻った田嶋が、手にパンを二つだけ持って立ち尽くしていた。
「……三つ、頼んだよな」
黒瀬の声が響く。
その低さだけで、教室の笑い声が消えた。
黒瀬――
その名を聞いて、誰もが無意識に距離を取る。
黒瀬晶(くろせ あきら)
同じ学年の中でも、上級生に引けを取らない強さで知られている。
一ノ瀬、久遠以外には心開かず、誰も逆らえない存在。
一ノ瀬 慶(いちのせ・けい)、
久遠 空(くおん・そら)
いつも隣にいる二人もまた、ただの取り巻きではなかった。
ケンカを売られたら買う、だけど、無意味な暴力はふるわない。
その“線の引き方”が、余計に怖かった。
田嶋が黒瀬たちに頼まれてパンを買うようになったのは、ほんの偶然だった。
数ヶ月前、購買で他の人にぶつかって一ノ瀬の足を思いっきり踏んでしまって、必死に謝り倒したが、「じゃあ明日からお前が買ってきて」って言った。
そのとき黒瀬が「金は出す」と言って、それで決まったのだ。
パシリというより、買い出し係。
ちょっと、強引な感じはするが、お金はもらってるし、
理不尽に怒鳴られたりもない。
でも、売り切れた日だけは――空気が変わる。
「ご、ごめん。あと一個だけ売り切れで……」
田嶋の声は震えていた。
一ノ瀬が机に肘をついて笑い、久遠が無言で黒瀬を見た。
「俺、食えねぇんだけど。」
黒瀬がゆっくり立ち上がる。
そのまま田嶋の胸ぐらを掴み、机に押しつけた。
乾いた音がして、クラス中が息をのむ。
田嶋からパシリになった経緯を聞かされていたが、気づいたら、体が勝手に動いていた。
「そんなに腹減ってんなら……これ食えよ!」
声が裏返った。
自分の弁当箱を黒瀬の胸に押し当てる。
静寂。
誰も笑わない。
黒瀬の目が、真っすぐこっちを見ている。
「……なにこれ。」
その声が怖かった。
返事もできず、ただ弁当箱を握る手が震えた。
一ノ瀬がふっと笑う。
「おい、マジかよ。お前、すげーな。」
久遠が鼻で笑い、黒瀬に押し付けられた弁当を取って、肩を軽く叩いた。
「行こうぜ、屋上。」
黒瀬は何も言わずに着いて行く。
ただ、すれ違いざまに低く呟いた。
「……覚えとけよ。」
それだけ残して、三人は教室を出ていった。
田嶋が小さく俺の袖を掴む。
「……お前、マジで大丈夫か?」
「わかんねぇ。でも……言わなきゃもっと嫌だった。」
俺たちは教室を抜けて、反対側の階段下に逃げ込んだ。
いつもの“避難場所”だ。
何かあると、俺たちはここで息を整える。
「怖かったな……」
「うん。」
二人で小さく笑って、田嶋の弁当を半分こにした。
⸻
屋上では、風が吹いていた。
久遠が弁当箱を「ホラ」と黒瀬の前に置く。
「食えよ。」
「いらねぇ。」黒瀬は視線を外した。
「どれどれ」と、一ノ瀬が蓋を開けた瞬間、
ふわっと出汁の匂いが風に混じった。
「……これ、うまそうじゃね?」
「知らねぇよ。」
「食ってみろよ。」
一ノ瀬が箸で卵焼きを摘んで、口に入れる。
次の瞬間、眉を上げた。
「……うま。」
「おいおい、マジで?」
久遠も半信半疑で唐揚げをひとつ。
そして、ほんの一拍の沈黙のあと。
「これ、ガチでうまいぞ。」
黒瀬が横目で見た。
二人が食ってる。
なんでか分からないけど、その光景がちょっとだけ落ち着かなくて、黒瀬は一口だけ箸を伸ばした。
……味がした。
想像よりずっと優しい味だった。
気づいたら、弁当箱の底が見えていた。
⸻
午後のチャイムが鳴る少し前、教室の扉が開いた。
風と一緒に、三人が戻ってくる。
黒瀬が無言で、空になった弁当箱を片手で投げた。
「っ!」ギリギリのところでキャッチして、顔を上げる。
黒瀬は机に腰をかけて、こっちを見ていた。
「……食べたの?」
声がかすれる。
黒瀬は眉ひとつ動かさず、静かに言った。
「食ってねぇよ。」
一ノ瀬はニヤニヤ笑う。
久遠は「美味しかったよ」と言った。
次の瞬間、チャイムが鳴る。
とりあえず、怒ってなさそうでよかったと俺は心臓の音を聞いていた。
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