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19 赤い砂の川(2)
東雨は恐る恐る玲凛を伺った。心を乱した様子はなく、静かに無表情である。それは、真顔で企み事をする犀星を彷彿とさせた。
数瞬、玲凛はそのままの姿勢で宙を見つめていたが、やがて、指示に従って足を下ろすと、轡を引いて元来た方へ歩み出した。
「止まれ!」
玲凛は背中を向けたまま、立ち止まった。
「馬は置いて行け。女が手綱に触れるなど、あってはならぬ」
「もう、おやめください!」
叫んだのは、玲凛ではなく、東雨であった。困り果てた顔をして、左近衛を見つめる。
「この方は特別です。それ以上の言葉は、歌仙様の名のもと、見過ごすことはできません」
玲凛は指先ひとつ動かなかったが、左近衛は明らかに動揺を見せた。
左近衛と言えども、一兵卒である。歌仙親王の近侍に逆らう事は、それこそ礼を逸していた。東雨と対等に話せるとすれば、隊長の備拓だけだった。衛士は戸惑い、同時に気力を振り絞った。
「しかし、祥雲どの。ここは今、ご行幸の地。卑しい女を近づけるわけにはいかないのです」
「卑しい女とは、誰のことです?」
東雨は珍しく視線を揺るがさず、隊士を見続けた。睨みはしないが、逃がさない強い意志が目に宿っていた。
「確かに、世の中に卑しい女も、卑しい男もいないとは言いません。しかし、ここにいらっしゃる方は、決してそのような方ではない。仮にも、五亨庵近侍である私の連れです。慣例の通らぬ相手とみなしていただきますよう」
堂に入った東雨の言葉は、衛士を十分に驚かせた。東雨は更に重ねた。
「これ以上、この方を愚弄なされば、このこと、歌仙様にお伝えし、追って夕泉様へ申したてとさせていただきますが、いかがですか?」
東雨の説得は、言葉が優しい。優しい中にも、譲れない強さと曲げない信念が確かに含まれていた。
「それは……」
衛士はすっかり萎縮しつつ、数歩下がった。
ごめんなさい、あなたは悪くないと知ってるけれど……
東雨は心の中で詫びた。
これ以上続けると、あなたが危ない目に会いそうだから、許してください。
一歩、東雨は前に進み出た。
「私たちは、五亨庵の命を受け、玄武池の視察に訪れただけです。ここは皇帝陛下により、五亨庵に一任された場所。そして、この方は……」
東雨は、玲凛を視線で示した。玲凛はちらりと振り返った。
「……この方は、歌仙様より直々に任ぜられた|巫女《みこ》様です。この地の厄払いと作業の安全を祈願するため、こうしてお連れした次第です」
長年の間者生活で、東雨は息を吐くように嘘をついた。左近衛はあっさりとそれを真に受けた。目が白黒して、恐れ入って後退る。東雨は逆に進み出て、間合いを詰めた。
「備拓様にご挨拶をしたいです。どちらに?」
「……ご案内致します」
裏返った声で、衛士は小さく叫んだ。
東雨は自分と玲凛の馬の手綱をまとめて握ると、玲凛に一つ頷いて、衛士の後に続いた。玲凛はじっと、東雨の行く先を見た。その手が、腰の刀にかかった。指先が触れたのは、大太刀ではなく、寿魔刀であった。
衛士にとっては幸運だったのだろうか。
実のところ、玲凛は自分に対する衛士の忠告を、半分以上聞いていなかった。今、玲凛が最も注意を払っているのは、池の対岸辺りから、こちらに徐々に近づいてくる、黒い霧であった。
それは、目の錯覚のようにおぼろげで、見落としてしまいそうな靄だった。しかし、時とともに徐々に濃さを増し、水面を覆うように広がって近づいて来た。風向きに反していることから、自然のものではないことは明らかだった。
採掘現場では、時として有毒な風が発生することがある。しかし、これはそれとも違う、明らかに玲家の、霊的な現象の一端と思われた。
玲凛は東雨に続いてゆっくり歩きながら、視線だけはそちらに据えていた。
「ねぇ」
小さく、東雨の背中に呼びかけた。
「あれ、見える?」
「何?」
東雨が視線だけで振り返った。
「あの、池の向こう」
「え?」
東雨は亀池を眺めた。
白い光が水面に揺れ、伍江へつながる水門のあたりには、音を立てる瀬があった。池の底は存外に深く、吸い込まれそうなほどに澄んでいる。市場で聞いた腐れ池の名が思い出された。
「腐れ池と言われる割には、すごく綺麗だよな」
「そうじゃなくて……」
玲凛は細い眉を寄せた。
「水の上に、黒い霧が……」
「黒い霧?」
東雨は池の対岸に、何やら蠢くものを見つけて、背筋が凍った。
「あんたが余計なこと言ったから、本当に厄払いが必要になったんじゃないの?」
「なっ……あれ、俺のせい?」
「冗談よ」
「どうするんだよ」
「祓うしかないでしょ」
玲凛は平然と答えた。
「そのための巫女なんだから」
東雨の額に汗が浮いた。
嘘から出た真。
馬の陰に隠れたかったが、そうもいかない。傀儡だの怨霊だの、話を聞くだけで恐ろしかった。
警備に当たっていた左近衛も、異変に気がついて騒ぎ始めていた。
備拓は、帳車と池との間に立って水面を睨んでいた。
衛士が小走りに進み出た。
「隊長、五亨庵の犀祥雲どのをお連れ致しました」
備拓の手前で、東雨は立ち止まった。備拓は険しい顔のまま、肩越しに東雨を振り返った。
「そなたは、確か右衛房でお会いしたことが……」
と、言いかけて、備拓は口をつぐんだ。何を思い出したのか察して、東雨は引きつった顔で、丁寧に頭を下げた。
「本日は、玄武池の視察に参りました。備拓様はどうしてこちらに?」
「親王殿下が、五亨庵の池をご覧になりたいと仰せでな」
東雨は近くに停められた帳車を見た。小窓がかたんと閉まった。
左近衛が乗ってきた馬たちが、地面から生えた少ない草を食み、三十名ほどの兵が帳車を取り巻いて、池の向こうから迫ってくる得体の知れないものにざわめいた。
広大な池の半分ほどを覆う黒い霧は、水面に張り付くように面積を広げ、その前線を中ほどまで伸ばしていた。
「備拓様」
東雨は気持ちを落ち着けて、
「あの黒い霧は?」
「わからぬ」
備拓は首を振った。
「先ほどまではよく晴れていたが……」
玲凛が東雨の横に並んだ。
「おじさん」
突然、玲凛が呼びかけた。
その言葉に、一瞬静寂が訪れた。
その場の全員の視線が玲凛に注がれた。毅然として、少女は瞬いた。
結い上げた黒髪に日の光がきらきらと跳ね、薄桃色の袍と深い鳶色の裳が風にそよいだ。
備拓は一瞬首をかしげ、それから短く息を吐いた。
「そなた、暁の娘か」
備拓はすぐに、亜塵渓谷での玲凛の勇猛ぶりを思い出した。だが、今は昔話にふけっている場合ではない。
玲凛は黒い霧を見た。それは池の半ばを過ぎ、音なくこちらへと這ってきていた。
玲凛の左手が、寿魔刀の柄を強く握った。
「おじさん、偉い人がいるなら、離れた方がいいと思う。何が起きるかわからないから」
玲凛は備拓と帳車を見比べた。帳車の小窓は閉じられたまま、しんとしていた。
備拓は玲凛に向かって頷き、その脇を抜けて、小窓の前に片膝を着いた。
「殿下、予期せぬ事態にございます。御身に危険が及んではなりませぬ。今日の見聞はここまでとし、至急、奏鳴宮へお戻りを」
緊張感を持って、備拓は進言した。
小窓は開かず、物音もなかった。
玲凛は表情を動かさず、無言で帳車に近づいた。備拓がちらりと視線を上げた。止める間もなく、玲凛は小窓を指先で叩いた。
「危ないかもしれないから、逃げて」
玲凛の声がはっきりと響き、川の音さえ静まった。備拓が戸惑い、周囲が皆、肩を緊張させ、東雨が泣きそうに顔を歪めた。
小窓が内側からわずかに開かれ、暗い輿の中に細く光が差し込んだ。薄い浅葱の襟元が覗いた。
「構わぬ。見届けたい」
緩く張った琴の弦が震えるように、中から声が返ってきた。
「どうなっても知らないからね」
玲凛は小窓の奥を一瞥すると、池の縁に近づいた。東雨が慌てて後を追った。
「東雨、あんたも逃げな」
玲凛は振り返りもせず、片膝をついて池を睨んだ。東雨は首を振った。
「俺も残る。陽様に、おまえのこと頼まれているんだから」
そうは言ったものの、東雨の声は震えていた。二人の背後で、備拓の指示する声が聞こえた。東雨はわずかに振り返った。
馬が隊列を整えて、移動の準備を始めた。しかし、すぐに動く様子はない。備拓が帳車に向かって説得を続けていた。
夕泉様も物好きだ。
東雨はふと、犀星と夕泉が重なって思えた。
黒い霧の静かな侵食は、水の上に限られていた。
亀池の上流のあたりから湧き出した霧は、池の表面を覆い、こちらへと寄ってきた。
しかし水の上から離れることはない。まるで流れに乗って移動する木の葉のようであった。岸に触れても跳ね返るだけで、上陸はしない。それでいて、確実に規模を広げていた。
玲凛は足元を通り過ぎていく黒い霧の前線を目で追った。池は霧に満たされ、水底はおろか水面すら見えない。池の照り返しが失われ、辺りが薄暗く感じられた。風が湿り気を強くした。
玲凛はそっと、寿魔刀の先で霧に触れた。特に違和感はなかった。思い切って指先を浸した。霧の下に水の流れを感じた。手首にまとわりつく霧は、体を傷つける訳ではないが、じんわりと冷たく、肌の表面から気力が失われていくようだった。
「これ、吸い込んだりしたら大変かも……」
池を覆い尽くした霧は、止まることなく、五江へと流れ込んでいく。霧の先端が水門を超えた。
「あ!」
突然、東雨は叫びをあげた。
「凛、これ、止めなきゃ……この川、都に通じてる」
東雨の言葉に、玲凛の眼光が更に厳しくなった。
「でも、五江は街の城壁の外を流れてるはず」
「引水してるんだ」
東雨が言った。
「川から都の中に、生活用水のための水路が……」
「それを先に言って!」
玲凛は迷わず、寿魔刀を流れに突き立てた。
黒い霧が刀身に触れるが、動きを変えることはできなかった。
「やっぱり、形を持ってからじゃなきゃだめか」
悔しそうに玲凛は吐き捨てた。
霧の上をさまよっていた東雨の視線が、一箇所に注がれる。川底から、大きな石が覗いていた。霧は石に割られて左右に別れるが、石の上まで這い上がることはない。東雨の思考がパッと開けた。
「そうか、この霧、水面から離れられないんだ」
東雨は素早く、水門のそばの小屋に駆け寄った。小屋を支える柱の傷み具合を確かめる。
「備拓様!」
夕泉を説き伏せようとしていた備拓が、東雨の声に振り返った。
「お願いがあります! 馬で、小屋の土台を崩してください!」
「小屋を?」
状況を理解できず、備拓が反応に迷った。先に、玲凛が動いた。
「薫風!」
呼び声に、愛馬が玲凛の元に駆け寄った。玲凛は手綱を取ると、急いで見張り小屋の土台に結びつけた。
「祥雲どのに従え!」
備拓が東雨の考えに気づいて指示した。左近衛が見習って自分の馬を、次々につないだ。
四本の柱のうち、川に平行な二本に、それぞれ十頭ほどが綱の長さを変えて結ばれた。
「上流と下流に向かって、反対に引いて!」
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