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19 赤い砂の川(1)
夏の初めのひとひらの風が、犀星の邸宅の畑を通り過ぎて行った。
葱と韮はもう葉を伸ばして、畑の縁をぐるりと囲っていた。立てた棒に大豆の髭が絡まり始め、大根は、黒々と湿った土の下で、まだ、息を潜めていた。
太陽は春よりも熱を帯び、眩しさが強くなり始める季節。まだ先端の柔らかい光芒が青空に伸びて、剣を振る東雨の影が土の上に色薄く落ちる。
一匹だけ、気の早い蝉の声が聞こえていた。
「もうじき、紅花祭だな」
玲陽に寄り添って回廊に座り、犀星は東雨越しに畑を眺めた。その手は自然と玲陽の膝の上にある。自宅にいる時は誰に気兼ねすることもなく、玲陽のそばにぴたりとつくのが犀星の習慣だった。
「兄様と一緒に出かけること、楽しみにしています」
玲陽は袖の端を指先で弄びながら、笑顔を見せた。犀星が五亨庵の石巡りを始めてから、少し、体が軽くなったように感じられた。
「花街に、泊まるんですよね?」
「心配しなくていい。蓮章が警備の指揮をとってくれる」
「蓮章様に陽兄様を預けるのは、不安です」
井戸の方から、暁隊の朝稽古を終えた玲凛が、早足に歩いてきた。全身、井戸水をかぶってびしょ濡れである。
「凛どの……風邪をひいたらどうするんです」
「大丈夫です、これくらい。すぐに乾きますし」
玲凛は濡れた裳の裾をまくると、両手で水を絞った。形の良い筋肉の浮いた足がさらけ出され、犀星と玲陽は思わず目をそらした。
「あの、凛どの」
玲陽は東雨の稽古の声を片耳で聞きながら、
「暁演武では、そんなことしないでくださいね。あそこの人たちは、その……なんというか……お元気、ですから、隙を見せるようなことは……凛どのは可愛いですし……」
可愛い、という語に、東雨の掛け声が一瞬途切れた。
この世に、これほど間違った言葉の使い方はない。
そう思っても、東雨には訂正するだけの勇気はなかった。
「陽兄様は心配しすぎです」
玲凛は軽く笑って、
「暁隊は口も外見も乱暴ですけど、根っから悪い人たちではないですよ」
「いえ、悪いというのではなく……」
玲陽は眉を歪めた。
「その、ですね……」
玲陽の心配をよそに、玲凛は軒下に干してあった手ぬぐいを一つ掴むと、顔と髪を片手で拭いた。
「おっしゃりたいことはわかりますけど、大丈夫ですって」
玲凛は擦れて赤くなった頬で笑った。
納得できない、という表情で、玲陽は口を閉じた。玲陽にとって玲凛は、いつまでたっても小さな妹であった。
「陽兄様は星兄様のことだけ、考えていてください。それがみんなのためです」
確かに、それが一番、国のためになる。
東雨は心密かに玲凛に賛同した。
刀を振る合間に、東雨はちらりと横を見た。きらきらと笑う玲凛は確かに美しかった。だが、それは宮中で見る女性たちと、根本的に違っている気がした。
なんか、生きてる。
漠然と、東雨はそう感じた。玲凛の発する熱量は明らかに別だった。内側からとめどなく湧き出してくる生命力は、土深くに根をはった巨大な|虎杖《いたどり》を彷彿とさせた。
どこか、涼景に似ている……
そんな閃きが浮かんだとき、東雨は何もないのにつまずいた。すとん、とその場に尻餅をつく。玲凛の大きなため息が背中にぶつかった。
「あんたは本当に成長しないわね」
東雨は弱く玲凛を睨みながら、土をほろった。
「余計なお世話」
「稽古、つけてあげようか?」
「断る。おまえじゃ俺の相手にはならない」
俺が弱すぎて。
東雨は肝心の一言を飲み込んだ。
玲凛はわずかに頬を膨らませた。稽古でほぐれた身体を持て余すように、天に伸びをして、
「つまらない。今日は涼景様、来ないんですか? 手合わせしたかったのに」
「え……」
ふわりと体が揺れて、東雨は膝からよろめいた。
調子が狂う……
東雨は決まり悪そうに唇を歪めた。
犀星と玲陽が顔を見合わせ、それから、何を思ったのか、かすかに微笑み合った。東雨は畑の方へ逃げるように歩いた。
「東雨、あんた、どこか悪いんじゃないの?」
玲凛は半分本気で、
「ふらふらして。たくさん食べないから、そんななのよ」
「食べている。魚なんて見たくなくなるくらい」
自分で言った魚という語が、東雨を三|度《たび》、ふらつかせた。
「肉、食べなさい。たくさんあるでしょ」
「たくさんあっても、計画的に料理しなきゃ、勿体ないだろ」
「あんたが立てた計画なんて、あてになるの?」
東雨は乱暴に息をついた。
「いいか、凛」
東雨は堂々と葱の前に立って、腰に手を当てた。
「確かに、戦いとか喧嘩じゃ、俺は役に立たない……でも、家の仕事に関しては、おまえより絶対にできるから!」
玲凛が真顔で目を細めた。
「それで?」
「え? いや、だから……」
「だから?」
あっさり、東雨はうろたえた。せっかくの気迫が、急速にしぼんでいった。暁隊さえ黙らせる玲凛の眼力に、勝てるはずもない。
ああ、だめだ。
東雨は目をそらした。本能が恐怖を訴えていた。玲凛は興味をなくしたように、東雨に背を向けて、玲陽を振り返った。
「涼景様が来ないなら、陽兄様、相手をお願いします」
「え?」
突然、役割を振られて、今度は玲陽が焦る番だ。
「星兄様でもいいけれど……」
「駄目です。兄様に怪我をさせるわけにはいきませんから」
玲陽は視線を彷徨わせた。前回は、危ないところでどうにか凌いだ。兄としての矜持が玲陽を慎重にさせた。
「凛どのは、もう、十分にお強いですから」
私はもう、勝てる気がしません。
肝心の弱音を、玲陽はかろうじて飲み込んだ。
「そういえば、また一つ、道場を押さえたそうだな」
犀星が、玲凛の関心を別方向へ引きつけた。
「これで、四つ目か?」
「はい」
玲凛はこくん、と頷いた。玲陽が悲しそうに、
「凛どの、お願いですから、危ないことはしないでください」
「危ないのは凛じゃなくて、道場の人たちですよ」
東雨は低く言って、葱の間に顔を出した余計な草を抜きながら、
「このままじゃ、都の道場、全部潰されちゃいます」
「人聞き悪いこと言わないでよ。別に潰してないから」
「でも、師範を倒しているんだろ?」
「一回負けたくらいで揺らぐような流派なら、そこまでよ」
玲凛の理屈が正しいのかどうか、東雨にはわからなかった。だが、狙われた流派が気の毒に思われてならなかった。
「凛は将来、一沙流の門を立てればいい」
犀星が、ふと、呟いた。玲凛の目が輝いた。
「それ、女でもできます?」
「前例は聞いたことがないが、どんなことも、初めはみな、初めてだろう」
犀星はそっと笑んだ。
「星兄様がおっしゃると、なんだか本当にできる気がします」
玲凛の声が、少しだけ穏やかになった。その顔を見て、東雨も納得した。
若様が言葉にするだけで全てがうまくいく。
これは気のせいではない、と東雨は思う。
「そうだ!」
突如、玲凛は手を打って、犀星を見つめた。
「私、亀池が見てみたいです」
「え?」
玲陽がまた、心配を浮かべて声を詰まらせた。
「凛どの、急にそう言われても……」
「これから、ちょっと行ってきますね」
濡れた髪のまま、玲凛が踵を返す。
「待ってください!」
玲陽が半分立ち上がって引き止めた。
「一人ではだめです。この前みたいに、危ない目にあったらどうするんですか」
「危ない目?」
玲凛は首を傾げた。
「そんなこと、ありましたっけ?」
「あったでしょう! ほら、南東の宿場で胡断に……」
「ああ」
玲凛は思い出して、にっこりした。
「あれは別に危なくありませんでしたけど」
「え?」
「危なかったのは陽兄様です。私じゃありません」
「で、でも、だめです。一人では……」
玲陽は大きく息を吸って、
「凛どのが行くなら、私も行きます」
「俺も」
犀星が玲陽の袖をしっかり掴んでいた。東雨が呆れ返った。
「若様は行けませんよ。都を出たいなら、色々と手続きがありますし」
玲凛は面倒そうに眉を寄せ、
「そんなの、待ってられないですから」
玲陽は思わず、犀星の顔と、掴まれた袖を見比べ、それから、ゆっくりと東雨に向いた。目が、必死に助けを乞うていた。
「東雨どの……いえ、やっぱりいいです」
東雨は情けなさそうに頭を掻いた。
「俺に護衛は無理ですよ。せいぜい、道案内くらいで……」
「お願いします!」
玲陽の目が大きく開いて、東雨を見つめた。
「はぁ……」
東雨は決断を仰ぐように、犀星に目を向けた。犀星は頷いた。
「俺が行くか、おまえが行くか、決めてくれ」
東雨には、勝手に犀星を連れ出す勇気などなかった。
「……俺が行きます」
ため息をつき、東雨は覚悟を決めた。玲陽の頬が安堵に緩んだ。
「ありがとうございます。どうか、お気をつけて」
言って、玲陽は深く頭を下げた。
亀池は、日暮れまでに十分に往復できる距離である。
かくして、東雨と玲凛は馬を並べ、短い旅路についた。
二人で歩くなど、考えたこともない取り合わせだった。
玲凛はまっすぐに前を見て、自信たっぷりに馬を進めた。目が合わないように、東雨は半歩下がって玲凛の後ろについた。
伍江の流れは悠々として、東雨の落ち着かない心とは裏腹に、午前の光を湛えて揺れていた。川底は赤茶けて、小さな砂が水の影を黒く青く映していた。川面すれすれを一羽の鳥が川上へと飛んで行く。玲凛は鳥の翼の行く先を見た。
大地はわずかに細い草が生える程度で、ほとんどが砂地である。砂に覆われた表面のすぐ下には、泥や岩盤が隠れていて、見た目ほど水はけは良くない。上流に向かうほどそれが顕著で、荒れ果てた土地は誰に顧みられることもなく放置されていた。玲陽の話では、この辺りは大雨が降ると川底に沈むという。その名残なのか、所々に赤茶けた砂の吹き溜まりがあった。
馬の蹄がざくざくと砂を蹴る音が、湿った風に混じった。時折、鳥の声が空から降ってくる他には、すれ違う人もない、道なき道であった。川に沿って、玲凛は馬を進めた。その歩みに迷いはない。
「道、知ってるのか?」
東雨が尋ねた。玲凛はあっさりと首を横に振った。
「知らない。でも、亀池って、この川の上流にあるんでしょ? だったら川に沿って行けば間違いなく着けるじゃない」
「それはそうだけれど」
いつものことながら、東雨は玲凛の大雑把な性格に感嘆した。これだけ堂々と構えていると、世の中に怖いものはないだろうと、常々思っていた。
水の流れと逆行して、二頭の馬が並んで進んだ。青い空の高いところに、長い雲が浮かんでいた。
東雨は、しっかりと鞍の端を掴みながら顔を上げた。
「おまえが、亀池に興味を持つなんて思わなかった」
沈黙が気まずくて、東雨は話題を探した。玲凛は普段より少し落ちついた口調で、
「陽兄様が関わっているんだもの。知らないなんて、面白くない」
「ほんとに陽様が好きなんだな」
「当たり前でしょ。私にとって大事な兄様なんだから」
どきりと東雨の心臓が鳴った。
凛はまだ、俺と陽様のことを知らない。
そう思うと、肩を冷たい手で掴まれる気がした。
「若様も過保護だけど、陽様も相当だよな。凛のことなんて心配しなくても大丈夫なのに」
「陽兄様は昔の私を知ってるから、どうしても気になるんでしょうね」
玲凛がふと遠い目をした。
「昔? それ、いつの話?」
「私がまだ、片手ぐらいの歳の頃」
「そんな昔のこと?」
東雨はわずかに興味が湧いた。
「小さい頃の凛って、どんなだったんだ?」
どうせ教えてくれないだろうと思いながら、東雨は試しに尋ねた。意外にも玲凛は素直に答えた。
「おとなしくて、人見知りをする静かな子だった」
「嘘だ」
間髪入れず、東雨の本音が飛び出した。
「私も嘘みたいだと思う。でも本当。昔の私は、物陰に隠れていつも何かに怯えていた」
玲凛はまるで他人事のように、感情のない声で答えた。
東雨の記憶に、歌仙の風景が蘇った。どこまでも広い空と、緑と水の大地、紅蘭よりも潤った風。
玲家は、そんな歌仙で最も権力を持つ、古くからの豪族であった。領地の広さ、豊かさはもちろん、広大な屋敷には常時私兵が巡回し、敷地のすぐそばには門前町も栄えていた。当然、玲凛が生活に困ることはなかったはずだ。
「おまえ、金持ちの娘だろう。ちやほやされて、大事にされたんじゃないの?」
「そんなんじゃないわよ」
玲凛は少し強めに否定した。
「私は玲家にとって、期待はずれの出来損ないだから」
玲凛の生い立ちを思い出して、東雨は一瞬戸惑った。踏み込んではいけない血筋のことが頭をよぎった。実の兄妹の間に生まれた忌み子。その嘲笑が、玲凛にはいつもついて回るのだ。望まれた女性でありながら、望まれた力を受け継がなかった。玲凛は結果的に、望まれない子であった。
「凛はさ、これからどうするの?」
「どうするって、亀池に行くけど?」
「そういう意味じゃなくて」
東雨は少し顔をしかめて、
「これから、将来、どうする?」
「将来?」
玲凛は手綱を引き寄せた。
「先のことなんてわからない」
風に流されるように、蝶が舞っていく。
「私はただ……」
声を低め、
「今は、強くなることしか考えてない」
「強くなってどうするんだよ」
玲凛は、じっとしているのがたまらない、というように肩を回した。
「陽兄様をお守りする」
「でも……さ」
東雨の声が震えた。玲凛は、ふっと優しく笑った。その笑顔が少し玲陽に似ている気がして、東雨は息を止めた。
「あんたが言いたいことはわかる。女だから、近衛にはなれない。軍隊にも入れない。護衛役も無理。そもそも、五亨庵に勤めることさえできない」
次々と可能性を否定していく玲凛の言葉に、東雨の胸が締め付けられた。玲凛の実力ならば、どの道も十分に可能だと、東雨にすら容易にわかった。だが、諦めねばならない理由はただ一つ、玲凛が、女だからだ。
感情が失せた声で、
「私の歳じゃ、もう誰かの妻になる以外ない」
東雨の心臓が跳ねた。
「でもね、それもできない」
「……まぁ、凛みたいな性格じゃ、とてもどこかの奥方なんて無理だもんな」
わざと軽い口調で東雨は茶化した。そうでもしなければ、東雨の気持ちまでが沈み込んでしまいそうだった。
「そういう意味じゃない」
玲凛は、ぼそりと言った。目元がやけに大人びていて、東雨は真顔で見返した。
「私は流れないの」
唐突すぎて、東雨にはわからなかった。
「だから子供は産めない」
どきりとして、東雨は手綱を握り締めた。今、大変なことを告白された、と、背中がざわざわした。
「それって……?」
「生まれつき。誰にも言ってないけど。女の格好はしていても、女じゃないのよ」
まるで自分自身を切り捨てるような鋭い口調で、玲凛は言い切った。
「だからね、私はこうやって生きていくしかないの」
この国で女が生き残る唯一の道。それを塞がれた玲凛には、居場所などなかった。
東雨はふと、我が身のことを思った。少し前の自分なら、こんな時、何と答えただろう。それは、想像もつかない問いだった。だが、今は、玲凛に寄り添えるものがあった。
東雨は顔を上げた。
「俺も同じ」
静かに、東雨は言った。冗談の調子は消え、ひどく真面目で厳かでさえあった。玲凛が不思議そうに東雨を振り返った。
「俺もいろいろあって……もう男じゃない」
言ったきり、東雨は黙った。
玲凛も、口を閉じて遠くへ視線を向けた。
互いにそれ以上は聞かなかった。長く二人の間に沈黙が溜まる。その時間は、相手を認めるために必要な熟成のようであった。
伍江のせせらぎが時を刻んだ。言葉を交わさぬ間が、言葉以上に重みを持っていた。女ではない玲凛と、男を失った東雨との間を、無言が埋めていった。
あたりは荒れた砂地が広がるだけで、背の高い木もなく、殺風景だった。やがて、行手の岩場の中に、小さな木製の小屋が見えた。小屋の前には、馬体二つほどの幅の、古い水門があった。
「あそこが亀池の端」
東雨が言った。
「見張り小屋の床が高くなってるだろ。あれは水位が増した時にも沈まないようになんだって。流れに耐えられるように基礎部分が地面に埋め込まれているけど、砂の下が泥炭で柔らかいから安定しない。もう随分古いし、直さなきゃいけないって陽様がおっしゃってた」
聞きながら、玲凛は目を凝らした。古くなった小屋はわずかに傾いていた。
東雨は続けて、簡単に亀池について説明した。この池の規模が八穣園の池より大きいこと、育てる予定の魚は市場の意見で決めたこと、現在の作業は、金銭的理由であまり進んでいないこと。
玲凛は黙ってそれを聞きながら、次第に近づいてくる小屋と、その向こう側の水面に目を向けた。さざ波が立ち、細かな光が美しく渡ってゆく。その様子は、琵琶の弦が震えるようであった。
ふと、玲凛が手綱を引いた。思わずぶつかりそうになって東雨の馬が歩調を乱した。
「馬の足跡」
玲凛はじっと地面を見ていた。東雨が視線を追った。表面は風に撫でられていたが、確かに凹凸が見つけられた。
「それから、この溝はなんだろう」
多くの蹄の跡に混じって、二筋の線が、平行に伸びていた。
「荷車? 変だな。商人が近づく場所じゃないし」
東雨は呟き、それから怯えた顔を見せた。
「まさか、胡断……」
「あれ、見て」
玲凛が小屋の向こうを指差した。何頭かの馬がその辺りに広がって草を食んでいた。
「野生の馬じゃないわね。鞍がついてる」
「凛、引き返そう!」
東雨は不安に身震いした。
「おまえの好奇心も剣の強さもわかるけど、ここで戦いになんてなったら……」
「胡断じゃないわよ」
玲凛が馬を見ながら、
「あいつらの馬は、足を片側ずつ一緒に動かしていた。でも、あの馬は対角の足を使って歩いている」
「え?」
「だから、馬の歩き方が、胡断じゃないのよ。騎馬民族はそういうの、こだわるから間違いない」
東雨はあっけにとられて玲凛を見た。
「亀池を見に来る人に、心当たりはないの?」
「何も聞いていない」
東雨は小屋の向こうを伺った。
「せっかくここまで来たんだから、もう少し近づいてみましょ」
玲凛の横顔は、引き止めても無駄だと告げていた。
「わかった……でも、もしもの時は逃げるからな。あと、人に会っても凛は黙ってて。若様のいとこだってわかったら、危ない目にあうかもしれないから」
「危ない目って?」
「……向こうが、危ない目にあうかもしれないから」
言い直すと、東雨は玲凛に並んで馬の群れに近づいた。馬たちはそれぞれに地面の匂いを嗅いだり、たてがみを揺すったりと、くつろいでいた。
近づきながら、東雨は馬の鞍についた印を見つけた。疑問と安堵が同時に東雨の胸に満ちた。
「あの印、左近衛だ」
「左近衛、って、涼景様の?」
「涼景は右。あれは、左」
そのやり取りに、玲凛は覚えがあった。
「確か、亜塵渓谷で、左近衛の隊長って人に会った……」
「備拓様、だよ」
東雨は落ち着いて、
「左近衛がいるってことは……」
東雨は緊張して背筋を伸ばした。
近衛の警護範囲は宮中である。よほどのことがない限り、この様な辺鄙な場所に出てくることはないはずだった。
「凛、頼むから、おとなしくしていてよ。失礼があったら困るから」
少し先の亀池のほとりに、四頭の馬に引かせた|帳車《ちょうしゃ》が止められていた。装飾は控えめだが、四方を覆う木製の板に、高価な絹の帳と天蓋が美しく揺れていた。
「夕泉様がいらっしゃると思う」
「夕泉……様?」
玲凛は首を傾げた。
「星兄様の兄様?」
「そう。あの帳車は多分……」
「夕泉様がどうして亀池に来るのよ?」
「さあ……」
東雨は首を振った。
「さあ、って、あんた何か知らないの?」
「夕泉様の予定なんてわからないよ」
二人が声を低めて話していた先で、人影が動いた。東雨はびくりとし、玲凛は落ち着いて目を向けた。
黒い革鎧の兵が二名、東雨たちに気づいて囁きあっていた。そのうちの一人が、早足で奥へ駆けて行った。
「気づかれた」
東雨は馬を降りた。玲凛もおとなしくそれに習った。
左近衛の一人が、こちらに歩み寄ってきた。
「何者だ?」
男の面構えは厳しく、いかにも融通の聞かない軍人を思わせた。
「恐れ入ります、五亨庵の犀祥雲です」
東雨の名乗りに、玲凛は瞳の奥に疑問を浮かべた。
東雨は手間取りながら、懐から身分を示す札を見せた。犀星の王印が押されていた。
「確かに」
衛士は東雨に小さく頭を下げ、それから、値踏みするように玲凛を見た。玲凛は黙って見返した。玲凛の下げている大太刀を見て、衛士の眉間にしわが寄った。
「女、武器を置いて、下がっていろ」
玲凛は表情を動かさなかった。むしろ、東雨の方が手足が震えた。
「ここは現在、我々左近衛が幕を構える地。女が近づいて良い場所ではない」
「あの……」
たまらず、東雨が間に入った。これ以上、玲凛の機嫌を逆撫でされるのは恐ろしかった。
「俺……私たちは五亨庵の……」
衛士はちらりと東雨を見た。
「存じております。歌仙様の近侍どのでございますね」
「はい……」
東雨のことはあっさりと認め、近衛はまた、玲凛に詰め寄った。
「何をしている? 早く武器を捨て、退け」
今にも玲凛が怒り出すのではないか、と、東雨は生きた心地がしなかった。息を潜めて玲凛の顔を盗み見た。意外にも穏やかで、大声を上げるようには見えなかった。その目は近衛兵を見るようで、さらに遠くに向けられていた。
「もたもたするな」
厳しい衛士の声に、玲凛は黙ったまま、馬の|鐙《あぶみ》に片足を掛けた。
「無礼な!」
近衛の声が鋭くそれを制する。
「女が馬になど……身をわきまえよ」
近衛の注意は、宮中の儀礼として当然のものであった。女が出歩く場合は、徒歩か、輿と決まっていた。軍馬は神聖なものであり、男のみが使用を許された。
衛士の勧告はすべてが規範通りである。間違ったことは言っていないが、東雨には大量の不安が溢れていた。
当然、玲凛本人はなおのこと、面白くないだろう。
東雨は恐る恐る玲凛を伺った。心を乱した様子はなく、静かに無表情である。それは、真顔で企み事をする犀星を彷彿とさせた。
数瞬、玲凛はそのままの姿勢で宙を見つめていたが、やがて、指示に従って足を下ろすと、轡を引いて元来た方へ歩み出した。
「止まれ!」
玲凛は背中を向けたまま、立ち止まった。
「馬は置いて行け。女が手綱に触れるなど、あってはならぬ」
「もう、おやめください!」
叫んだのは、玲凛ではなく、東雨であった。困り果てた顔をして、左近衛を見つめる。
「この方は特別です。それ以上の言葉は、歌仙様の名のもと、見過ごすことはできません」
玲凛は指先ひとつ動かなかったが、左近衛は明らかに動揺を見せた。
左近衛と言えども、一兵卒である。歌仙親王の近侍に逆らう事は、それこそ礼を逸していた。東雨と対等に話せるとすれば、隊長の備拓だけだった。衛士は戸惑い、同時に気力を振り絞った。
「しかし、祥雲どの。ここは今、ご行幸の地。卑しい女を近づけるわけにはいかないのです」
「卑しい女とは、誰のことです?」
東雨は珍しく視線を揺るがさず、隊士を見続けた。睨みはしないが、逃がさない強い意志が目に宿っていた。
「確かに、世の中に卑しい女も、卑しい男もいないとは言いません。しかし、ここにいらっしゃる方は、決してそのような方ではない。仮にも、五亨庵近侍である私の連れです。慣例の通らぬ相手とみなしていただきますよう」
堂に入った東雨の言葉は、衛士を十分に驚かせた。東雨は更に重ねた。
「これ以上、この方を愚弄なされば、このこと、歌仙様にお伝えし、追って夕泉様へ申したてとさせていただきますが、いかがですか?」
東雨の説得は、言葉が優しい。優しい中にも、譲れない強さと曲げない信念が確かに含まれていた。
「それは……」
衛士はすっかり萎縮しつつ、数歩下がった。
ごめんなさい、あなたは悪くないと知ってるけれど……
東雨は心の中で詫びた。
これ以上続けると、あなたが危ない目に会いそうだから、許してください。
一歩、東雨は前に進み出た。
「私たちは、五亨庵の命を受け、玄武池の視察に訪れただけです。ここは皇帝陛下により、五亨庵に一任された場所。そして、この方は……」
東雨は、玲凛を視線で示した。玲凛はちらりと振り返った。
「……この方は、歌仙様より直々に任ぜられた|巫女《みこ》様です。この地の厄払いと作業の安全を祈願するため、こうしてお連れした次第です」
長年の間者生活で、東雨は息を吐くように嘘をついた。左近衛はあっさりとそれを真に受けた。目が白黒して、恐れ入って後退る。東雨は逆に進み出て、間合いを詰めた。
「備拓様にご挨拶をしたいです。どちらに?」
「……ご案内致します」
裏返った声で、衛士は小さく叫んだ。
東雨は自分と玲凛の馬の手綱をまとめて握ると、玲凛に一つ頷いて、衛士の後に続いた。玲凛はじっと、東雨の行く先を見た。その手が、腰の刀にかかった。指先が触れたのは、大太刀ではなく、寿魔刀であった。
衛士にとっては幸運だったのだろうか。
実のところ、玲凛は自分に対する衛士の忠告を、半分以上聞いていなかった。今、玲凛が最も注意を払っているのは、池の対岸辺りから、こちらに徐々に近づいてくる、黒い霧であった。
それは、目の錯覚のようにおぼろげで、見落としてしまいそうな靄だった。しかし、時とともに徐々に濃さを増し、水面を覆うように広がって近づいて来た。風向きに反していることから、自然のものではないことは明らかだった。
採掘現場では、時として有毒な風が発生することがある。しかし、これはそれとも違う、明らかに玲家の、霊的な現象の一端と思われた。
玲凛は東雨に続いてゆっくり歩きながら、視線だけはそちらに据えていた。
「ねぇ」
小さく、東雨の背中に呼びかけた。
「あれ、見える?」
「何?」
東雨が視線だけで振り返った。
「あの、池の向こう」
「え?」
東雨は亀池を眺めた。
白い光が水面に揺れ、伍江へつながる水門のあたりには、音を立てる瀬があった。池の底は存外に深く、吸い込まれそうなほどに澄んでいる。市場で聞いた腐れ池の名が思い出された。
「腐れ池と言われる割には、すごく綺麗だよな」
「そうじゃなくて……」
玲凛は細い眉を寄せた。
「水の上に、黒い霧が……」
「黒い霧?」
東雨は池の対岸に、何やら蠢くものを見つけて、背筋が凍った。
「あんたが余計なこと言ったから、本当に厄払いが必要になったんじゃないの?」
「なっ……あれ、俺のせい?」
「冗談よ」
「どうするんだよ」
「祓うしかないでしょ」
玲凛は平然と答えた。
「そのための巫女なんだから」
東雨の額に汗が浮いた。
嘘から出た真。
馬の陰に隠れたかったが、そうもいかない。傀儡だの怨霊だの、話を聞くだけで恐ろしかった。
警備に当たっていた左近衛も、異変に気がついて騒ぎ始めていた。
備拓は、帳車と池との間に立って水面を睨んでいた。
衛士が小走りに進み出た。
「隊長、五亨庵の犀祥雲どのをお連れ致しました」
備拓の手前で、東雨は立ち止まった。備拓は険しい顔のまま、肩越しに東雨を振り返った。
「そなたは、確か右衛房でお会いしたことが……」
と、言いかけて、備拓は口をつぐんだ。何を思い出したのか察して、東雨は引きつった顔で、丁寧に頭を下げた。
「本日は、玄武池の視察に参りました。備拓様はどうしてこちらに?」
「親王殿下が、五亨庵の池をご覧になりたいと仰せでな」
東雨は近くに停められた帳車を見た。小窓がかたんと閉まった。
左近衛が乗ってきた馬たちが、地面から生えた少ない草を食み、三十名ほどの兵が帳車を取り巻いて、池の向こうから迫ってくる得体の知れないものにざわめいた。
広大な池の半分ほどを覆う黒い霧は、水面に張り付くように面積を広げ、その前線を中ほどまで伸ばしていた。
「備拓様」
東雨は気持ちを落ち着けて、
「あの黒い霧は?」
「わからぬ」
備拓は首を振った。
「先ほどまではよく晴れていたが……」
玲凛が東雨の横に並んだ。
「おじさん」
突然、玲凛が呼びかけた。
その言葉に、一瞬静寂が訪れた。
その場の全員の視線が玲凛に注がれた。毅然として、少女は瞬いた。
結い上げた黒髪に日の光がきらきらと跳ね、薄桃色の袍と深い鳶色の裳が風にそよいだ。
備拓は一瞬首をかしげ、それから短く息を吐いた。
「そなた、暁の娘か」
備拓はすぐに、亜塵渓谷での玲凛の勇猛ぶりを思い出した。だが、今は昔話にふけっている場合ではない。
玲凛は黒い霧を見た。それは池の半ばを過ぎ、音なくこちらへと這ってきていた。
玲凛の左手が、寿魔刀の柄を強く握った。
「おじさん、偉い人がいるなら、離れた方がいいと思う。何が起きるかわからないから」
玲凛は備拓と帳車を見比べた。帳車の小窓は閉じられたまま、しんとしていた。
備拓は玲凛に向かって頷き、その脇を抜けて、小窓の前に片膝を着いた。
「殿下、予期せぬ事態にございます。御身に危険が及んではなりませぬ。今日の見聞はここまでとし、至急、奏鳴宮へお戻りを」
緊張感を持って、備拓は進言した。
小窓は開かず、物音もなかった。
玲凛は表情を動かさず、無言で帳車に近づいた。備拓がちらりと視線を上げた。止める間もなく、玲凛は小窓を指先で叩いた。
「危ないかもしれないから、逃げて」
玲凛の声がはっきりと響き、川の音さえ静まった。備拓が戸惑い、周囲が皆、肩を緊張させ、東雨が泣きそうに顔を歪めた。
小窓が内側からわずかに開かれ、暗い輿の中に細く光が差し込んだ。薄い浅葱の襟元が覗いた。
「構わぬ。見届けたい」
緩く張った琴の弦が震えるように、中から声が返ってきた。
「どうなっても知らないからね」
玲凛は小窓の奥を一瞥すると、池の縁に近づいた。東雨が慌てて後を追った。
「東雨、あんたも逃げな」
玲凛は振り返りもせず、片膝をついて池を睨んだ。東雨は首を振った。
「俺も残る。陽様に、おまえのこと頼まれているんだから」
そうは言ったものの、東雨の声は震えていた。二人の背後で、備拓の指示する声が聞こえた。東雨はわずかに振り返った。
馬が隊列を整えて、移動の準備を始めた。しかし、すぐに動く様子はない。備拓が帳車に向かって説得を続けていた。
夕泉様も物好きだ。
東雨はふと、犀星と夕泉が重なって思えた。
黒い霧の静かな侵食は、水の上に限られていた。
亀池の上流のあたりから湧き出した霧は、池の表面を覆い、こちらへと寄ってきた。
しかし水の上から離れることはない。まるで流れに乗って移動する木の葉のようであった。岸に触れても跳ね返るだけで、上陸はしない。それでいて、確実に規模を広げていた。
玲凛は足元を通り過ぎていく黒い霧の前線を目で追った。池は霧に満たされ、水底はおろか水面すら見えない。池の照り返しが失われ、辺りが薄暗く感じられた。風が湿り気を強くした。
玲凛はそっと、寿魔刀の先で霧に触れた。特に違和感はなかった。思い切って指先を浸した。霧の下に水の流れを感じた。手首にまとわりつく霧は、体を傷つける訳ではないが、じんわりと冷たく、肌の表面から気力が失われていくようだった。
「これ、吸い込んだりしたら大変かも……」
池を覆い尽くした霧は、止まることなく、五江へと流れ込んでいく。霧の先端が水門を超えた。
「あ!」
突然、東雨は叫びをあげた。
「凛、これ、止めなきゃ……この川、都に通じてる」
東雨の言葉に、玲凛の眼光が更に厳しくなった。
「でも、五江は街の城壁の外を流れてるはず」
「引水してるんだ」
東雨が言った。
「川から都の中に、生活用水のための水路が……」
「それを先に言って!」
玲凛は迷わず、寿魔刀を流れに突き立てた。
黒い霧が刀身に触れるが、動きを変えることはできなかった。
「やっぱり、形を持ってからじゃなきゃだめか」
悔しそうに玲凛は吐き捨てた。
霧の上をさまよっていた東雨の視線が、一箇所に注がれる。川底から、大きな石が覗いていた。霧は石に割られて左右に別れるが、石の上まで這い上がることはない。東雨の思考がパッと開けた。
「そうか、この霧、水面から離れられないんだ」
東雨は素早く、水門のそばの小屋に駆け寄った。小屋を支える柱の傷み具合を確かめる。
「備拓様!」
夕泉を説き伏せようとしていた備拓が、東雨の声に振り返った。
「お願いがあります! 馬で、小屋の土台を崩してください!」
「小屋を?」
状況を理解できず、備拓が反応に迷った。先に、玲凛が動いた。
「薫風!」
呼び声に、愛馬が玲凛の元に駆け寄った。玲凛は手綱を取ると、急いで見張り小屋の土台に結びつけた。
「祥雲どのに従え!」
備拓が東雨の考えに気づいて指示した。左近衛が見習って自分の馬を、次々につないだ。
四本の柱のうち、川に平行な二本に、それぞれ十頭ほどが綱の長さを変えて結ばれた。
「上流と下流に向かって、反対に引いて!」
東雨の合図で、近衛たちは馬をけしかけた。弱った柱が軋みを立てて、小屋が更に傾いた。
「薫風、お願い!」
玲凛の言葉がわかるように、薫風は首を下げて、滑る砂地に蹄を立てた。唸り声とともに、力強く柱を引く。そのいななきに誘われたのか、他の馬たちも踏ん張った。
湿った木が高い音を立てて根元からしなり、小屋全体が川の上へと傾いた。
「引き倒して!」
東雨が叫び、答えるように馬たちが最後の力を込めた。
木が裂け、弾ける音がして、古い小屋の土台の柱が半分千切れて外れ、床板が小屋の重みに耐え切れず四方に飛び散った。壁と屋根が地面に叩きつけられ、その衝撃で砕け飛んだ。破片が半ばほど、川の中に崩れ落ちた。
「全部、川に落として!」
東雨は木片を引きずって、自らも霧の川に入りながら、左近衛に叫んだ。
近衛たちが総出で、小屋の残骸を水の中に引き入れていれた。木片は浮かんで水面を覆い、流れに乗って水門に引っかかった。水は変わらず木の下を流れていくが、木材に阻まれ、水面を霧が進むことはできなかった。
「よし!」
東雨は玲凛を振り返った。
「流れは止まった。あとは、これをどうにかして!」
玲凛は頷くと、今や真っ黒に染まった亀池を見た。霧の中に何箇所か、その濃度を濃くする場所が現れていた。周囲の霧を寄せ集め、一つの塊となっていく。
玲凛は目を見張った。
濃い霧の集まりは、ゆっくりとその中心に向かって濃さを増し、蛇のように形を作る。
「傀儡……」
玲凛は呟き、寿魔刀を強く握った。
瞬く間に、おびただしい数の傀儡が、宙にに漂った。だが、動きはそれで終わらなかった。蛇は一度空中でとぐろを巻き、すぐに解けて数匹が集まり絡み合った。次々と蛇が生まれては一つに合わさり、いくつもの黒い小山が、無秩序に水面に立ち並んだ。
その数は百を下らない。陽を浴びた水面の白さと黒との対比が目に痛く、そして異質な光景を際立たせていた。
「これは、何?」
思わず玲凛はつぶやいた。
今までの傀儡とは明らかに違っていた。このような現象は、聞いたことがなかった。
ただ林立する黒。それは微動だにしなかった。
玲凛は息を呑んだ。
斬れるだろうか。
握りしめた柄が、ぎゅっと鳴った。
「潮汐したか」
帳車の中から低い声がそう言った。備拓がわずかに眉を歪めた。
「殿下、何かご存知なのですか」
小窓は細く開いたままだ。夕泉は何も答えなかった。
木材で水門を塞ぎ終わった東雨が、備拓のもとに走り寄ってきた。恐怖で顔が真っ青になっていた。
「備拓様、もう訳がわからないですけど、とにかく離れた方が……」
備拓は頷いて帳車を見た。
「親王殿下、どうか」
やはり、返答はなかった。
夕泉が承諾しない限り、ここを動くわけにはいかない。備拓は顔を歪めたが、それ以上できることはなかった。
東雨は強気に出ない備拓の態度に|焦《じ》れた。もしこれが犀星と涼景ならばどうするか、そんな想像がよぎった。
涼景ならば……
思わず、足が前に出た。
東雨は夕泉を警護する立場にはない。権限は犀星に関わるものだけであり、夕泉に対しては一言たりとも進言する資格は有していない。
それでも黙っていられなかった。
「夕泉様、五亨庵の犀祥雲です」
東雨は名乗った。
「無礼を承知で申し上げます。夕泉様の御身に何かあれば、歌仙様が悲しみます。どうかこの場を離れてください」
備拓は戸惑ったが、東雨を止めることはしなかった。
東雨は懸命に声を張り上げた。
「危険かもしれないし、そうじゃないかもしれません。夕泉様がご関心を持たれているのも存じております。それでも、このような状況の中で、夕泉様をここに留めおくことはできません。備拓様たちのお気持ちもお考えください」
備拓は低く唸った。
歌仙親王が宝順帝を欺いてまで救ったのは、このような人物であったのか。
東雨の必死な声に、静かな敗北と感動すら覚えた。
しかし、必死な東雨の訴えにも、夕泉からの反応は返ってこなかった。
東雨は拳を握り、息を吸った。
「……もし、どうしても動かないというのであれば、お一人でどうぞ! 他の人を巻き込まないで下さい」
言ってしまってから、東雨は体が震えた。だが、後悔はなかった。
もしこの場にいたのが涼景なら、きっと同じことを言っただろう。奇妙な興奮を覚えて、東雨の息はわずかに上がっていた。
帳車の小窓は開いたままで、奥は虚無が満ちている。その闇から、かすかに息が漏れた。
「五亨庵の祥雲と申したか」
夕泉の声は緊張感を帯びず、間延びしている。
「そなた、それほど伯華が大事か?」
宣戦布告を受けたように、東雨はすかさずうなずいた。
「若様が悲しむことは絶対に嫌です」
もう、それは近侍としての言葉ではない。
帳車の周りでそんなやりとりが繰り広げられていた頃、玲凛はゆっくりと黒い塊のそばに近づいた。
相手は水の上にいた。得体が知れない以上、これ以上の接近は危険だった。水は深く、容易に玲凛の背を超えた。寿魔刀を構えるが、届く距離ではなかった。
その時、どん、と地面の下から大きな振動が伝わってきた。
「地震?」
東雨はぐらついて、四つん這いに手をついた。音に慣らされている馬たちも、落ち着きなく足を踏み鳴らした。
玲凛は耳をすませた。目に見えるものに意味が見出せない以上、その他の感覚をすべて使って状況を把握する。
大地の奥深くで、何かが蠢いた。
瞬間、地鳴りが空気を震わせ、池の水面が脈打つように盛り上がった。黒い塊が波に乗って、岸へと流された。
玲凛が飛びのいた時、突如、轟音とともに巨大な水柱が天へ向かって噴き上がった。
池から白銀の柱が一直線に伸び、陽光を受けて眩しく輝く。
熱気が周囲に満ちて、途端に肌に汗が浮く。
高く跳ね上がった水は先端が崩れ、大粒の雨のように周囲へ降り注いだ。特有の臭気が鼻を刺し、赤い砂は瞬く間に水を浴びて黒く染まった。
「間欠泉……!」
東雨は以前、市場で聞いた話を思い出した。
伍江から引いた水は、今でも時々、匂いがする。
しだいと勢いが衰えて行く一瞬の自然現象を、東雨は呆然と見つめていた。
「東雨!」
ぼんやりしていた東雨の耳に、金が鳴るような玲凛の声が飛び込んだ。
ハッとして東雨は顔を上げた。立ちあがろうとしたが、うまくいかない。浅い砂の層は水を吸って重くなり、足が取られた。砂の下の泥がぬかるみ、更に動きを封じた。
全身に池の水を浴びながら、玲凛は刀を構えた。すべらないようしっかりと握り込んだ。前髪から水が滴り、視界を邪魔した。それでも目を見開き、近づいてくる塊を前方に捉える。
黒い塊が、水浸しになった砂地を滑るように移動した。走るより動きが早かった。
「逃げて!」
一声、叫ぶ。
「あ……」
東雨は座り込んだまま、固まった。
逃げないのではない。もう逃げられない。完全に腰が抜けていた。
それでも精一杯の気力を絞って、後ろに叫んだ。
「備拓様、早く離れてください!」
「わかった!」
備拓はうなずくと、素早く指示を出し、左近衛を動かした。
夕泉は少し大きく小窓を開いた。
帳車が動き出す瞬間、目が、東雨とピタリとあった。東雨の思考が凍りついた。
小窓の奥に、青い瞳があった。
そのまま、騒がしい音を立てて帳車は走り出した。
何を見たのか理解できないまま、東雨は全身を震わせた。
「危ない!」
鋭い声が東雨を現実に引き戻した。東雨の方へ向かっていた黒い塊に、玲凛は縦に一閃、寿魔刀を振り下ろした。塊は裂け、中から黒い蛇たちが踊り出して来た。
「東雨、逃げて!」
動けないまま、東雨の表情が恐怖に歪み、わずかに首を横に振った。それが限界だった。
「薫風!」
玲凛の声が飛んだ。
足音が近づき、薫風が東雨の襟首を噛んで、後ろへ引きずった。泣きそうになりながら、東雨は薫風を見上げた。
「助けてくれるの?」
薫風は何も言わず、ただ東雨を乾いた砂の上まで連れて行く。それから玲凛の方を意味ありげに見た。
飛び散った傀儡を、玲凛は手当たり次第に切り捨てた。斬られたものは空中に舞い散り、光に溶ける。
一体ごとに体力が削られる。玲凛の額に汗がにじみ、息が上がった。
一つの大きな塊が十ほどの黒蛇となった。玲凛はひたすら、刀を振り回した。
黒い塊が、音もなく砂地を滑って動き回る。それは匂いを探して浮遊する羽虫の動きにも似ていた。
寿魔刀がまた、一体を大きく切り裂いた。飛び散った蛇が玲凛に絡みつく。必死にそれを刃でさばき、どうにか振りほどく。
「間に合わない!」
素早く宙を走る傀儡が、視界を縦横に飛び交った。数体の蛇が追う間もなく、川下へと飛びすぎて行く。
あたり一面、黒い塊が蠢き、その合間を縫って蛇が舞い飛ぶ。
黒い塊はやがて、砂地の上を滑るように動いて、水門へ向かい始めた。
「だめ!」
玲凛が叫んだ。
塊の一つがその声に反応し、動く向きを変え、速度を落とさずにそのまま突進して来た。玲凛は力を振り絞って雄叫びをあげ、寿魔刀を横に薙ぎ払った。裂け目から傀儡が四方に滑り出た。返す刀で二体を斬るが、それ以上は間に合わない。
首を揺らして宿主を探り、蛇は東雨に狙いを定めた。互いに絡み合い、一陣の風となって東雨の開いた口の中に飛び込んでいく。薫風が高くいなないて前足をかけたが、影を踏むようにすり抜ける。
全身に鳥肌が立ち、東雨は短く悲鳴をあげて、硬く目を瞑った。
玲凛は身を翻して東雨に駆け寄ると、その肩を掴んで激しく揺すった。東雨は目を閉じたまま、体を震わせた。
傀儡の支配は、自ら死を選ぶことも、暴力的な行動に出て肉体を破壊する恐れもあった。まずは東雨の安全を優先すべきだった。
「動いちゃだめよ! 陽兄様のところに連れて行くから!」
玲凛は東雨の着物の帯を解き、両手足をまとめて縛った。
「凛、痛い……」
呼び声に、玲凛はふと手を止めた。今の東雨は自我を失い、話をすることはおろか、考えることもできないはずだった。
だと言うのに、東雨の目は明らかな理性を帯びて玲凛を見上げた。
「……何が起きてるの……?」
東雨の声がガタガタと震える。それでも目は正気である。
「あんた、大丈夫なの?」
「わかんないよ……」
涙をこぼして、東雨は手足を縮めた。縛られた手足が早くも痺れていた。
「苦しいけど……それより、痛い……!」
玲凛の向こうに黒い影が揺れる。東雨の見開いた目から、次々と涙が落ちた。
玲凛は振り返り、ぞくりと肩を震わせた。
遠く、上流の方から順に、黒い塊が薄らいでいく。形を保つ力を失ったように輪郭が解けて霧散し、全ての黒が光に変わった。
視界が一気に開け、亀池の景色が静かに揺れた。
「……終わった……どうして……?」
玲凛は寿魔刀を落として、座り込んだ。
水面が波立ち、明るい日差しが降り注ぐ。
水門にぶつかった木材の間で、水が涼しい音を立てていた。
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