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18 表裏(3)

「かつては忠義者であったはず。何故このような罪に走ったか、その内情はわかりかねる」  廷尉は頷くと、夏史に向いた。 「左近衛副長としての往年の働きは堅実であった。この度のこと、よほどの事情があると察する。申し述べたき旨あらば申してみよ」 「……世を正すためだ」  つぶやいて、夏史は傍聴席を振り返った。迷うことなく涼景を睨みつけ、目をぎらつかせた。 「燕涼景! この恥知らずが!」  傍聴人たちが、一斉に涼景を見た。腕を組んだまま身じろぎもせず、涼景は黙って夏史を見返した。 「胸糞悪い面《《つら》》晒しやがって……」  夏史は身を乗り出した。両脇に立つ警備兵が、構えていた槍を交差させて、それを制止した。それでも夏史の声は止まらない。 「貴様は陛下の情に媚びて這い上がった、ただの痴れ者だ。欲に啼いて、恩人すら踏み台にするそのざま、下劣の極みだ」  涼景は表情を動かさなかった。だが、その指は力を込めて己の腕に食い込んだ。夏史は一層、顔を歪めた。 「その頬の傷、よくも衆目に晒せたものだ。貴様は将じゃない。|閨《ねや》の器物でしかないわ!」  法廷中がどよめいた。  湖馬は立ちかけた膝を必死に押しとどめた。旦次は歯噛みして怒気を露わにし、備拓のこめかみには静かな震えが走った。記録をとっていた御史中丞が筆を迷わせ、尚書令は目を伏せ、すぐ横にいた都尉に何事か囁いた。  傍聴席では、一部が眉をひそめ、他はそれぞれに好奇心に目が動いた。傍聴人たちのひそひそとした声が、涼景の耳に滑り込んできた。 「あの傷、陛下の手によるものと、まことしやかに……」 「あれだけの出世、相当に良いかと……」  瞬きもせず、涼景はただ、それを心に秘めた。蓮章が恐れていたのは、まさにこの状況だった。しかし、涼景にも意地があった。逃げ隠れするつもりはなかった。覚悟していたこととはいえ、玲凛も聞く中での侮蔑は、心にこたえた。 「そこまでだ。それより先は、我が名を持って許しはせぬ」  備拓が制する。  夏史はゆっくりと首を回して、備拓を|睨《ね》めあげた。こみ上げる怒りに頬が紅潮していた。 「あんただって同じだ。英仁様の恨み、俺は忘れてはいないぞ」 「おまえ、まだ……」  備拓は声を殺した。  夏史の目は執念に燃え、怒りがほとばしっていた。備拓の眉間のしわが深くなった。  ざわついた法廷内に廷尉の声が響いた。 「夏史、今はそなたの罪を問うている」 「ならば、卑しき者の罪は誰が問う?」  夏史はまっすぐに廷尉を見上げた。 「腐敗が蔓延し、汚職にまみれ、規律が崩れ、秩序が壊される。なのに、俺だけが間違っているというのか? 誰かがやらなければ、世は変わらないだろう!」  夏史の訴える声が震えた。廷尉がごくわずかに眉を動かした。 「そなたは、世の不正を正すため、夕親王殿下の御身をも顧みず、燕将軍を襲ったというのだな」 「俺の罪はもとより承知。されど、裁くべき罪は他にもある。目をそむけるな!」  満場が水を打ったように静まりかえった。  衝立の影から、玲凛はそっと様子を覗いた。目元がぴくりと動いた。  玲凛の目には、夏史の周りの空間だけ、歪んで見えた。まるで水の中で目を開けたときのような、不思議な光景だった。だが、その場に大勢がいながら、誰もその異様さに気づいていない。  夏史の感情が高ぶったことで、何らかの特殊な力が働いている……?  それが何であるのか、玲凛にもわからない。それでも、確かに今、夏史は人としての存在ではなく、何か別のものを内包しているということだけは確かだった。  唐突に、玲凛は立ち上がった。一歩前に出る。法廷内の視線が、玲凛に集まった。涼景と旦次は、思わず視線を交わした。  玲凛はまっすぐに夏史の背中を見た。 「あんたに呪術の気配がある。もしかして、誰かに使われているんじゃないの?」  夏史はゆっくりと玲凛を振り返った。その顔は判別もつかないほどねじれ、人のものとは思われない。しかし、そう見えているのは玲凛だけで、他の者には変わらず人の姿として映る。  気味悪さを押し殺して、玲凛は目を背けず、毅然と夏史を見据えていた。  涼景が小さく首を振って、玲凛に下がるよう指示した。仕方なく玲凛は衝立の陰に戻った。夏史の目が見開かれ、唇がかすかに動いた。 「そうか。玲家の……!」  玲の名を聞いて、廷尉は腕を振った。 「これ以上の発言は認めぬ。抑えろ」  警備兵は手荒く夏史に轡をはめ、その場に座らせた。兵士に押さえつけられても、夏史は抵抗しなかった。その目は見開かれたまま、顔には不気味な笑みすら浮かんでいる。  廷尉は一つ息を吐き、声を強くした。 「この者は、国の規範より己の正義を優先した。結果、軍律に背き、敵と通じ、|夕親王《ゆうしんのう》の命を狙った。そこにあるのは私欲、酌量の余地はない」  廷尉は尚書令に目を向けた。尚書令は都尉と目配せしてから、廷尉に向かってうなずいた。  廷尉が、最後の言葉を口にする。 「よって、軍律に照らし、斬首を以てこれを処す。執行は二日後とする」  轡をはめられた夏史は、突如、笑い声を上げた。その声は石壁に反響し、まるで部屋にいる全員を呪うかのように高く低く響き渡った。  法廷の知らせを、夕泉親王は奏鳴宮の庭で聞いた。伝えに来たのは、陰陽官の紀宗である。 「刑の執行は二日後とのことでしたが、先ほど獄中にて発狂死させましてございます」  ぼそぼそと、紀宗は口を動かさずに報告した。 「玲家の者に勘づかれましたゆえ、わずかでも、生かしておくは危険かと」 「そうであるか」  夕泉親王は、真新しい庭の池のそばに立ち、晴れた空を見上げた。 「よく働いてくれたましたが、私の命まで狙うほどとはの。そうまでして、暁どのを貶めようとは」 「あれの執念、少々甘く見すぎておりました」  紀宗は声が届くぎりぎりの距離で、下を向いて背を低めた。 「まだ制御しきれぬ力ゆえ、意に沿わぬ動きもございます」 「ようやく手に入った駒であったが、これでしまいということかの?」 「いかにも」 「人として死に、傀儡として浄化され、なお残っても、かようにして消えるものとはの」 「人の世に永遠はございませぬゆえ」 「使い道の難しいものよ」  夕泉親王は絹の|面纱《めんしゃ》の下で、小さく欠伸をした。 「そなたの申した玲家の者とは、新月か?」 「いえ、娘でした」 「娘?」  夕泉は長い睫毛を伏せた。 「そうか、玲家の忌み子……都に来ておったか」 「見たところ、燕将軍の手引きかと」 「暁どの……」  夕泉の黒髪が、ゆっくりと傾いた。 「良き男よの」 「…………」  紀宗は黙り込んだ。  夕泉親王が時折見せる異様な恋慕は、紀宗には解しがたく、同時に気味が悪かった。自分もまた陰陽官として、怪しい目で見られることには慣れてはいるが、夕泉のそれはまた、別の類のものである。  振り返ることもない親王の後ろ姿は、案山子のように動かず、その心は空になった|笊《ざる》のように、感情をすくい止めておくことができなかった。  底知れぬ虚無。つかみどころのない夕泉は、紀宗にとって傀儡よりも理解できない存在だった。 「して」  沈黙を破って、夕泉は呼びかけた。 「最近の五亨庵はいかがだ。様子を見ておるのであろう?」  紀宗は最後に訪れた時のことを思った。 「弱り切っておりましたゆえ、力を高める術を少々」 「弱っておる?」 「新月の影響でございましょう」  ぶつぶつつぶやいて、紀宗は細い目で夕泉を睨んだ。 「あの者は、害悪。取り除くべきかと」 「ならぬ」  夕泉は即決した。 「あれは、我がものぞ。手出しはならぬ」 「仰せではございますが、このまま放置すれば、五亨庵は崩壊いたします」 「伯華を使えば良い」  紀宗は眉間にしわを刻んだ。 「それは危険と、ご承知のはず」 「忌み子が来たということは、すでにそなたのしていることも見抜かれていよう。放っておいても、伯華が動くことは止められまい」 「しかし、玲家の男に五亨庵を御することは叶いませぬ」 「案じずとも一つ、策がありますゆえ」  美しい日和の輝く庭に、黒く立ち込める不吉の気配。  ぴしゃり、と扇を閉じ、夕泉は目を細めた。淡い緑の絹の裳を、初夏の風がふわりと撫でていく。 「そなたもうまく計れ」 「かしこまりました」 「必ずや、お助けせねば……」  それきり、物思いに沈んだ夕泉の後ろ姿を一瞥し、紀宗は踵を返した。小股で庭の出口へと行きつくと、肩越しに後ろを振り返った。 「まったく、恋慕と狂気は変わらぬ」  紀宗の目の中に、夕泉が注文をつけて作らせた、庭の全景が開けていた。滝と、花を浮かべる池、曲線を描く石畳。池の反対側に植えられた木々も、足元の草花も、紅蘭では珍しい南方のものであった。 「歪んだ欲とはかくも醜く、根深いものであるか」  口の中だけでつぶやいて、紀宗は細い目を閉じた。  結果のみを求める夕泉は、紀宗から見ると危うかった。権力の一端を握ったものが、さらにその先へと欲望を向ける姿は、探求に向かう姿勢にも通じるところがあった。  その先の景色が見てみたい。  紀宗自身も、五亨庵の魅力に取り付かれた一人であった。 「命あって、命あって」  くぐもった声で繰り返しながら、紀宗はまた背中を丸めて、奏鳴宮を後にした。

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