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19 赤い砂の川(3)

 東雨の合図で、近衛たちは馬をけしかけた。弱った柱が軋みを立てて、小屋が更に傾いた。 「薫風、お願い!」  玲凛の言葉がわかるように、薫風は首を下げて、滑る砂地に蹄を立てた。唸り声とともに、力強く柱を引く。そのいななきに誘われたのか、他の馬たちも踏ん張った。  湿った木が高い音を立てて根元からしなり、小屋全体が川の上へと傾いた。 「引き倒して!」  東雨が叫び、答えるように馬たちが最後の力を込めた。  木が裂け、弾ける音がして、古い小屋の土台の柱が半分千切れて外れ、床板が小屋の重みに耐え切れず四方に飛び散った。壁と屋根が地面に叩きつけられ、その衝撃で砕け飛んだ。破片が半ばほど、川の中に崩れ落ちた。 「全部、川に落として!」  東雨は木片を引きずって、自らも霧の川に入りながら、左近衛に叫んだ。  近衛たちが総出で、小屋の残骸を水の中に引き入れていれた。木片は浮かんで水面を覆い、流れに乗って水門に引っかかった。水は変わらず木の下を流れていくが、木材に阻まれ、水面を霧が進むことはできなかった。 「よし!」  東雨は玲凛を振り返った。 「流れは止まった。あとは、これをどうにかして!」  玲凛は頷くと、今や真っ黒に染まった亀池を見た。霧の中に何箇所か、その濃度を濃くする場所が現れていた。周囲の霧を寄せ集め、一つの塊となっていく。  玲凛は目を見張った。  濃い霧の集まりは、ゆっくりとその中心に向かって濃さを増し、蛇のように形を作る。 「傀儡……」  玲凛は呟き、寿魔刀を強く握った。  瞬く間に、おびただしい数の傀儡が、宙にに漂った。だが、動きはそれで終わらなかった。蛇は一度空中でとぐろを巻き、すぐに解けて数匹が集まり絡み合った。次々と蛇が生まれては一つに合わさり、いくつもの黒い小山が、無秩序に水面に立ち並んだ。  その数は百を下らない。陽を浴びた水面の白さと黒との対比が目に痛く、そして異質な光景を際立たせていた。 「これは、何?」  思わず玲凛はつぶやいた。  今までの傀儡とは明らかに違っていた。このような現象は、聞いたことがなかった。  ただ林立する黒。それは微動だにしなかった。  玲凛は息を呑んだ。  斬れるだろうか。  握りしめた柄が、ぎゅっと鳴った。 「潮汐したか」  帳車の中から低い声がそう言った。備拓がわずかに眉を歪めた。 「殿下、何かご存知なのですか」  小窓は細く開いたままだ。夕泉は何も答えなかった。  木材で水門を塞ぎ終わった東雨が、備拓のもとに走り寄ってきた。恐怖で顔が真っ青になっていた。 「備拓様、もう訳がわからないですけど、とにかく離れた方が……」  備拓は頷いて帳車を見た。 「親王殿下、どうか」  やはり、返答はなかった。  夕泉が承諾しない限り、ここを動くわけにはいかない。備拓は顔を歪めたが、それ以上できることはなかった。  東雨は強気に出ない備拓の態度に|焦《じ》れた。もしこれが犀星と涼景ならばどうするか、そんな想像がよぎった。  涼景ならば……  思わず、足が前に出た。  東雨は夕泉を警護する立場にはない。権限は犀星に関わるものだけであり、夕泉に対しては一言たりとも進言する資格は有していない。  それでも黙っていられなかった。 「夕泉様、五亨庵の犀祥雲です」  東雨は名乗った。 「無礼を承知で申し上げます。夕泉様の御身に何かあれば、歌仙様が悲しみます。どうかこの場を離れてください」  備拓は戸惑ったが、東雨を止めることはしなかった。  東雨は懸命に声を張り上げた。 「危険かもしれないし、そうじゃないかもしれません。夕泉様がご関心を持たれているのも存じております。それでも、このような状況の中で、夕泉様をここに留めおくことはできません。備拓様たちのお気持ちもお考えください」  備拓は低く唸った。  歌仙親王が宝順帝を欺いてまで救ったのは、このような人物であったのか。  東雨の必死な声に、静かな敗北と感動すら覚えた。  しかし、必死な東雨の訴えにも、夕泉からの反応は返ってこなかった。  東雨は拳を握り、息を吸った。 「……もし、どうしても動かないというのであれば、お一人でどうぞ! 他の人を巻き込まないで下さい」  言ってしまってから、東雨は体が震えた。だが、後悔はなかった。  もしこの場にいたのが涼景なら、きっと同じことを言っただろう。奇妙な興奮を覚えて、東雨の息はわずかに上がっていた。  帳車の小窓は開いたままで、奥は虚無が満ちている。その闇から、かすかに息が漏れた。 「五亨庵の祥雲と申したか」  夕泉の声は緊張感を帯びず、間延びしている。 「そなた、それほど伯華が大事か?」  宣戦布告を受けたように、東雨はすかさずうなずいた。 「若様が悲しむことは絶対に嫌です」  もう、それは近侍としての言葉ではない。  帳車の周りでそんなやりとりが繰り広げられていた頃、玲凛はゆっくりと黒い塊のそばに近づいた。  相手は水の上にいた。得体が知れない以上、これ以上の接近は危険だった。水は深く、容易に玲凛の背を超えた。寿魔刀を構えるが、届く距離ではなかった。  その時、どん、と地面の下から大きな振動が伝わってきた。 「地震?」  東雨はぐらついて、四つん這いに手をついた。音に慣らされている馬たちも、落ち着きなく足を踏み鳴らした。  玲凛は耳をすませた。目に見えるものに意味が見出せない以上、その他の感覚をすべて使って状況を把握する。  大地の奥深くで、何かが蠢いた。  瞬間、地鳴りが空気を震わせ、池の水面が脈打つように盛り上がった。黒い塊が波に乗って、岸へと流された。  玲凛が飛びのいた時、突如、轟音とともに巨大な水柱が天へ向かって噴き上がった。  池から白銀の柱が一直線に伸び、陽光を受けて眩しく輝く。  熱気が周囲に満ちて、途端に肌に汗が浮く。  高く跳ね上がった水は先端が崩れ、大粒の雨のように周囲へ降り注いだ。特有の臭気が鼻を刺し、赤い砂は瞬く間に水を浴びて黒く染まった。 「間欠泉……!」  東雨は以前、市場で聞いた話を思い出した。  伍江から引いた水は、今でも時々、匂いがする。  しだいと勢いが衰えて行く一瞬の自然現象を、東雨は呆然と見つめていた。 「東雨!」  ぼんやりしていた東雨の耳に、金が鳴るような玲凛の声が飛び込んだ。  ハッとして東雨は顔を上げた。立ちあがろうとしたが、うまくいかない。浅い砂の層は水を吸って重くなり、足が取られた。砂の下の泥がぬかるみ、更に動きを封じた。  全身に池の水を浴びながら、玲凛は刀を構えた。すべらないようしっかりと握り込んだ。前髪から水が滴り、視界を邪魔した。それでも目を見開き、近づいてくる塊を前方に捉える。  黒い塊が、水浸しになった砂地を滑るように移動した。走るより動きが早かった。 「逃げて!」  一声、叫ぶ。 「あ……」  東雨は座り込んだまま、固まった。  逃げないのではない。もう逃げられない。完全に腰が抜けていた。  それでも精一杯の気力を絞って、後ろに叫んだ。 「備拓様、早く離れてください!」 「わかった!」  備拓はうなずくと、素早く指示を出し、左近衛を動かした。  夕泉は少し大きく小窓を開いた。  帳車が動き出す瞬間、目が、東雨とピタリとあった。東雨の思考が凍りついた。  小窓の奥に、青い瞳があった。  そのまま、騒がしい音を立てて帳車は走り出した。  何を見たのか理解できないまま、東雨は全身を震わせた。 「危ない!」  鋭い声が東雨を現実に引き戻した。東雨の方へ向かっていた黒い塊に、玲凛は縦に一閃、寿魔刀を振り下ろした。塊は裂け、中から黒い蛇たちが踊り出して来た。 「東雨、逃げて!」  動けないまま、東雨の表情が恐怖に歪み、わずかに首を横に振った。それが限界だった。 「薫風!」  玲凛の声が飛んだ。  足音が近づき、薫風が東雨の襟首を噛んで、後ろへ引きずった。泣きそうになりながら、東雨は薫風を見上げた。 「助けてくれるの?」  薫風は何も言わず、ただ東雨を乾いた砂の上まで連れて行く。それから玲凛の方を意味ありげに見た。  飛び散った傀儡を、玲凛は手当たり次第に切り捨てた。斬られたものは空中に舞い散り、光に溶ける。  一体ごとに体力が削られる。玲凛の額に汗がにじみ、息が上がった。  一つの大きな塊が十ほどの黒蛇となった。玲凛はひたすら、刀を振り回した。  黒い塊が、音もなく砂地を滑って動き回る。それは匂いを探して浮遊する羽虫の動きにも似ていた。  寿魔刀がまた、一体を大きく切り裂いた。飛び散った蛇が玲凛に絡みつく。必死にそれを刃でさばき、どうにか振りほどく。 「間に合わない!」  素早く宙を走る傀儡が、視界を縦横に飛び交った。数体の蛇が追う間もなく、川下へと飛びすぎて行く。  あたり一面、黒い塊が蠢き、その合間を縫って蛇が舞い飛ぶ。  黒い塊はやがて、砂地の上を滑るように動いて、水門へ向かい始めた。 「だめ!」  玲凛が叫んだ。  塊の一つがその声に反応し、動く向きを変え、速度を落とさずにそのまま突進して来た。玲凛は力を振り絞って雄叫びをあげ、寿魔刀を横に薙ぎ払った。裂け目から傀儡が四方に滑り出た。返す刀で二体を斬るが、それ以上は間に合わない。  首を揺らして宿主を探り、蛇は東雨に狙いを定めた。互いに絡み合い、一陣の風となって東雨の開いた口の中に飛び込んでいく。薫風が高くいなないて前足をかけたが、影を踏むようにすり抜ける。  全身に鳥肌が立ち、東雨は短く悲鳴をあげて、硬く目を瞑った。  玲凛は身を翻して東雨に駆け寄ると、その肩を掴んで激しく揺すった。東雨は目を閉じたまま、体を震わせた。  傀儡の支配は、自ら死を選ぶことも、暴力的な行動に出て肉体を破壊する恐れもあった。まずは東雨の安全を優先すべきだった。 「動いちゃだめよ! 陽兄様のところに連れて行くから!」  玲凛は東雨の着物の帯を解き、両手足をまとめて縛った。 「凛、痛い……」  呼び声に、玲凛はふと手を止めた。今の東雨は自我を失い、話をすることはおろか、考えることもできないはずだった。  だと言うのに、東雨の目は明らかな理性を帯びて玲凛を見上げた。 「……何が起きてるの……?」  東雨の声がガタガタと震える。それでも目は正気である。 「あんた、大丈夫なの?」 「わかんないよ……」  涙をこぼして、東雨は手足を縮めた。縛られた手足が早くも痺れていた。 「苦しいけど……それより、痛い……!」  玲凛の向こうに黒い影が揺れる。東雨の見開いた目から、次々と涙が落ちた。  玲凛は振り返り、ぞくりと肩を震わせた。  遠く、上流の方から順に、黒い塊が薄らいでいく。形を保つ力を失ったように輪郭が解けて霧散し、全ての黒が光に変わった。  視界が一気に開け、亀池の景色が静かに揺れた。 「……終わった……どうして……?」  玲凛は寿魔刀を落として、座り込んだ。  水面が波立ち、明るい日差しが降り注ぐ。  水門にぶつかった木材の間で、水が涼しい音を立てていた。

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