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20 比翼の鳥(1)

 二人きりの静かな午後。  ただ寄り添う温もりだけで満たされる時間。  屋敷の回廊で陽を浴び、風を嗅いで鳥の声に時を知る。  このような平穏を、犀星も玲陽も長く心に祈り続けてきた。今は、遠ざかった孤独さえ懐かしかった。  犀星の膝に頭を預け、玲陽は回廊に寝転んでいた。手のひらを犀星の脇腹に当て、その存在を確かめるように、時折指先が動かした。 「星」  もう何度目か数えることもない甘えた呼び声。回廊の板に広がった玲陽の長い髪が、柔らかな光をはらんでぼんやりと光っていた。その輝きにも劣らぬ優しさで、犀星は玲陽に口づけた。頬に触れる唇の感触に、玲陽が深く息を吸って目を閉じた。  犀星の膝で甘える。  それがどれだけ、待ち望んだ喜びであるか知れなかった。帯に顔をすり寄せ、長く息を吐く。  くすぐったそうに犀星の喉が鳴った。思わず、玲陽は笑い声を立てた。  犀星は背を丸め、包むように玲陽を抱いた。  ふわりと香る犀星の襟に、玲陽の全身が自然と震えた。  心の隅で、出かけていった玲凛のことが気になったが、その思いすら溶かして流すように、犀星の指が髪を撫でた。  一瞬、玲陽は罪を感じた。  自分がここで犀星と戯れている間に、妹は危ない目に合っているかもしれないのだ。  兄として、玲陽の胸に小さな棘が刺さった。その棘すら、犀星のささやかな呼び声が、いとも簡単に抜き捨ててしまう。  私はもうだめだ。  玲陽は目を閉じた。  ただぬくもりに身を委ねながら、玲陽はうつらうつらとしていた。  犀星もどこか気の抜けた顔で、まるで猫でもあやすように指で玲陽の体をたどり、気まぐれに額や頬に口づけを落とした。  屋敷の外では、常に複数の暁隊士が警備に当たっていた。だが、涼景の配慮で、彼らが中へ入ってくることは無かった。  大切な人と水入らずで過ごす時間は、何にも代えがたい。  夜眠るときは二人だが、こうして日の光の中で二人きりになることは稀であった。日中はいつも誰かがそばにいて、その目を気にし、その隙間を縫うように互いの姿を追いかけていた。  こうして思う存分に相手を感じられる明るい時間は、もう長く味わっていなかった。  犀星の記憶が、ふっと過去に飛んだ。  玲陽のいなかった年月、自分はどうやって呼吸をしていたのか覚えていなかった。  昔の自分がすっぽりと抜け落ちているようで、わずかに怖さがあった。  人を強く思うことは、その分、自分が弱くなるのかもしれない。その思いが強ければ強いほど、一人では生きられなくなりそうだった。かつて耐えられた辛さにすらもろく崩れた。  胸が震え、犀星は腕に力を込めた。苦しくはないだろうかと思うほどに、玲陽を抱き寄せたが、玲陽は抵抗する素振りもなかった。  もう放せない。  半分眠っているのか、玲陽の閉じられたまぶたは白く、美しかった。  犀星がずっと記憶の中で見つめていた玲陽は、黒い瞳に黒い髪をしていた。なのに、遠い昔から玲陽の姿はこうであったような気がした。  外見がどれほど変わろうと、その内側は遠い日のままであった。  幼い頃の面影、共に過ごしたあの日々は、時の彼方で、今も輝きを放っていた。  徐々に犀星のまぶたも重くなった。  そのたびに、玲陽の髪を絡めとり、指先で熱を感じた。  細い腰に締められた帯が、玲陽の呼吸に合わせて静かに上下していた。  生きている。  このぬくもりは喜びなのだ、と、犀星は笑みを浮かべた。  誰も見る者のない透き通るその笑顔に、初夏の日差しがひとしずくとどまった。  わずかに開いた唇から音もなく、大切な人の名がこぼれ落ちた。  玲陽の肩を支えながら、犀星はひとつの気がかりを思い出した。  かつて、玲陽は背中の火傷について打ち明けてくれた。  焼印を押した男のことを、玲陽は覚えていた。 『目の色は、あなたと同じ』。  あれから犀星は心当たりを訪ねて回った。異国には青い目を持つ者がいる。かつて何人か、この国を訪れたこともある。  だが、現在、宝順によって国は閉ざされ、外との国交は限られていた。最近ではそのような者を見かけたという話も聞かなかった。  十年前、歌仙に現れたのは何者だったのか。  手がかりはなく、ただやたらと胸は騒いだ。  思い詰めて、本当にあの時、自分は都にいたかと、何度も周囲に確かめた。  何かの間違いで、玲陽恋しさに気が狂い、自分がしでかしたのではないかとさえ疑った。だが、犀星が都を出ていないことは間違いなかった。  安心して良いのか、犀星にはわからない。  もし本当に玲陽を傷つけた人間が目の前に現れたら、自分はどうなるのだろう。それを思うと、犀星にもその先が読めなかった。  かつて、目の前の惨状に我を忘れ、命を切り裂いた感覚が蘇った。  俺は同じ手で、大切な人に触れている……  息が苦しくなり、考えることから逃げ、玲陽の顔を見ると心が楽になる。  この人に生かされている。  それは犀星の命そのものであり、逃れられない鎖のようでもあった。穏やかに、胸の中に折り重なっていく想いは、どこか、切なく苦しいのだ。  わずかに伏せた睫毛が震え、犀星はまた、琥珀の髪を弄んだ。唇を寄せ、香りに浸る。その間も、玲陽は静かに眠り続けた。  玲陽の眠りは、犀星の安息であった。  今でも、玲陽は夜中にうなされて目を覚ますことがあった。その度に、犀星も胸が痛んで涙が浮かんだ。  長く細く息を吐き、犀星はまたさらに目を細めた。手のひらから伝わる玲陽の呼吸と規則的な鼓動が、自分のものと重なってゆく。どちらがどちらに取り込まれているのかわからない、不思議な一体感が身を包んだ。  自然と犀星の目が玲陽の背をたどる。ちょうど心臓の裏側で、視線が止まった。  柔らかい綿の墨色の着物の下に、痛々しく刻まれた呪縛の傷。  それを思い出して、犀星の心臓がぎゅっと縮んだ。  玲陽は多くを語らないが、古傷は日々痛み、穏やかな眠りすら縁遠いものにしてしまっていた。  その傷は、玲陽に安息を許さない。  玲陽を思う時、たとえ一瞬でも長く心安く眠れることを祈らずにはいられない。  風が、北から柔らかく吹いてきた。冷たくはないその風は、なぜか犀星の肩を震わせた。  背中に冷水を流されたようで、反射的に身を縮め、玲陽抱きしめた。傷に触れないよういたわりながら、それでも堪えられず、腕が玲陽の体に深く沈んだ。  小さな呻きと、身じろぎをして、玲陽がそっと目を開いた。  犀星は、わずかに首をかしげた。 「すまない、起こすつもりはなかった」  琥珀色の緩んだ瞳が犀星を見上げる。まだ眠りの中にいるのか、視点が定まらず、表情は和らいだままであった。 「星」  丸い声が犀星を呼ぶ。  応じて犀星が微笑もうとした時、再び風が吹いた。  今度は確かに異様な気配があった。黒いものが視界の端を横切った気がして、犀星は素早く顔を上げた。  中庭は、いつもの通り、淡い色彩の中に畑の緑が際立つだけである。 「気のせいか……」 「どうしたんですか」 「いや……胸が騒いだ」  犀星の手が、しっかりと玲陽を掴んでいた。それは情ではなく、警戒や不安による力だった。玲陽は息を浅くした。そっと腕を伸ばして、犀星の首の後ろに回した。  遠くを見ていた犀星の目が、玲陽に戻った。青と金色が絡まり合う。  鼻先が触れ、暖かい息が混じった。玲陽の唇がわずかに震えた。  その時、鋭い悲鳴が表から響いた。  同時に立ち上がると、回廊を駆け抜け、二人は門の外へ飛び出した。  異変はすぐにわかった。  屋敷の警備に当たっていた暁隊の隊士が、何人も道に座り込んでいた。中には、抜いた刀を握ったままの者もいる。皆、肩で息をし、うめき声を漏らして、喉や口のあたりを抑えていた。 「何があった!」  犀星が近くの一人に駆け寄った。血走った目で隊士は犀星を見上げて口を動かしたが、言葉は出なかった。大きく開けられた喉の奥に、ちらりと黒いものが見えて、犀星は顔を歪めた。 「陽、傀儡だ!」  玲陽の顔から血の気が引いた。  隊士が、救いを求めるように二人に手を伸ばした。とっさに玲陽を腕にかばい、犀星が体を引いた。 「やります」  玲陽はためらわず、犀星の腕をくぐり抜けると、隊士と唇を重ねた。両腕でしっかりと隊士の頭を固定し、深く息を吸う。  傀儡喰らい。  隊士を救うにはそれしかなかった。  玲陽の向こうで、ゆらりと他の隊士たちが立ち上がった。  犀星は素早く割って入り、状況を見た。  狭い裏路地に三人の隊士が立っている。どの顔にも生きた気配はなく、目は虚ろで、体が不規則に痙攣を繰り返していた。  かつて犀遠がそうであったように、すでに意思疎通のできない状態であった。力なく開いた口からは言葉ではない音が漏れた。  犀星の背後で、玲陽が苦しそうに息を乱すのがわかった。  抱きしめて励ましたいが、今はこの傀儡憑きから玲陽を守ることが先決だった。 「歌仙様、ご無事ですか!」  表通りの方から二人の隊士が駆け込んできた。仲間たちの様子に戸惑い、状況を飲み込めないままに惑う。  突然、犀星の脇をすり抜けて、二匹の黒い蛇が、二人の口に飛び込んだ。 「!」  恐怖の叫びを上げて、二人が地面に膝をついた。  その間に、三人の傀儡付きが犀星に体を向けた。うち、二人はすでに刀を手にしている。  犀星は一瞬ためらい、それから大太刀を構えて、腰を落とした。  傀儡が抜けて脱力した隊士を横たえ、玲陽は犀星の背中を見た。  傀儡喰らいの苦しみで朦朧としながら、玲陽は己を叱咤した。よろめきながら立ち上がるが、腹に突き刺さる激痛に片膝が崩れた。 「時を稼ぐ」  犀星の顔に緊張が走り、こめかみを一筋、汗が伝った。  屋敷は路地の果てにあり、逃げ場はない。  浄化の苦しみの底から、玲陽が自分を呼ぶ声がした。 「陽、無理をするな……」  犀星の言葉を待たず、傀儡憑きが一斉に犀星に襲いかかった。  三本の刀が次々とひらめき、振り回された。  立ち筋は正確ではないが、傀儡憑き特有の加減を知らない力が容赦なく、刀身に乗って犀星の太刀を打った。勢いを逃し、滑らせ、体を翻す。  突然の修羅場に、犀星は敏捷に反応した。三人の刀をさばき、玲陽をかばいつつ踏みとどまった。  複数を一度に相手するには限界があった。暁隊の屈強さは驚異だった。その肉体を操つり、無尽蔵の体力を発揮する傀儡憑きを相手に、長期戦は避けねばならない。

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