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24 散花を愛でる
早朝。
まだうっすらと夜が残る時刻。
蓮章は一軒の宿屋の軒下で、柱にもたれてじっと足元を見つめていた。
一夜の出来事がすべて、朝焼けに溶けていくようだった。
「おはようございます」
ぼんやりと目を上げると、玲凛が脇に立っていた。
「おまえ、気配、消しすぎだ」
「蓮章様が隙だらけなのよ」
容赦のない玲凛の言葉に、蓮章は苦笑いした。
起き抜けだというのに、溌剌として正気に満ちた玲凛の目が、眩しかった。
玲凛は体を伸ばしながら、
「兄様たち、大丈夫かな」
「無事だ。見張りに立たせてる隊士から定期的に連絡が入っている」
「そうじゃなくて、二人っきりの花街の夜」
「……凛、おまえ、そういう話、するんだな」
蓮章は意外そうに笑った。
「てっきり、興味がないのかと」
「あの二人は特別」
玲凛は不意に優しい顔をした。
「世界中の人が不幸になっても、あの二人にだけは幸せになって欲しい」
蓮章の顔に迂闊な戸惑いが浮かんだのを、玲凛は横目で見ながら、あえて目を逸らした。
その時、宿の裏から何人もの叫び声が聞こえてきた。驚きや悲鳴、恐怖を引きずったものから始まり、大騒ぎへと変わっていく。
早足で歩き出した蓮章を、当然のように玲凛が追った。
「凛、おまえは親王のところへ……」
「私も行く」
止めるだけ無駄だった。玲凛は騒ぎ声を頼りに、蓮章を追い抜いた。
見せたくないのだが……
花街で明け方に騒ぎが起きる時、大抵は最悪の展開が待っていることを、経験から蓮章は知っていた。
通りに出ると、すぐに自警団の何人かがこちらに向かって走ってきた。
「梨花! ちょうどよかった」
「何があった」
既に顔なじみの男たちが、暁隊の副長としての蓮章を求めていた。
「吊りだ」
「そうか」
蓮章はちらりと玲凛を見た。
「やはり、おまえ、先に親王たちの所へ戻ってろ」
玲凛が少し眉をひそめた。それから一瞬視線を揺らして、決心したように蓮章を見た。
「私も行く」
「見せ物じゃない」
「そんな気持ちじゃないわ」
玲凛の目が、まっすぐに向けられた。
「ここには情念が多い……蓮章様、前みたいなことになりたくないでしょう」
蓮章は、以前、傀儡に取り憑かれかけたときのことを思いだした。あの時より、さらに心が弱っている自覚があった。
「……わかった。だが、あまり前に出るな。おまえは目立つ」
「わかった」
本来なら、決して譲らない頑固者同士がお互いに譲り合って、二人は現場に駆けつけた。
普段は人気のない通りの行き止まりに、今は人だかりができていた。
物見高い者たちが、ざわつきながら孤を描いて、少し上を見上げていた。
裏路地の椿の枝に帯をかけ、女が一人、首を吊っていた。
蓮章は人だかりの外に玲凛を待たせ、自分は野次馬をかき分けて女の体に近づいた。
風もないのに、わずかに揺れ、小さくギシッと枝がそった。女の腹には、つなぎ合わされた赤い細紐で、琵琶がひとつ、括り付けられていた。
「祭りの翌日に死ななくたって……当てつけじゃない」
背後から、こそこそと声が聞こえた。
「最後の最後までどうしようもないんだから」
「借金だって残ってるんでしょう?」
「あの琵琶を売ればいくらかになるんじゃない?」
「嫌よ。死体が持ってたものなんて、気色悪い」
「祟られるわよ」
容赦のない言葉が次々と耳に障った。
花街で自殺者が出ることは珍しくない。
彼らは、同情されるか、厄介ごと扱いされるかのどちらかだ。
「降ろしてやれ」
蓮章は羽織っていた長袍を地面に敷いた。
自警団の何人かが女を抱え、その上に横たえた。
蓮章はそばにしゃがみ込み、深く息を吐いた。
その表情は飄々として冷ややかで、色気すら感じるいつもの顔だ。
首にかかった縄の痕が、紫に鬱血していた。うっすらと開いた目は既に乾き始めていた。頬に行く筋も涙の跡が残っていた。
蓮章はそっと指先を見た。その指先は琵琶を弾く者の手だった。そっと手首と首筋に触れ、息を確かめた。
「事件性はなさそうだな」
蓮章はぽつり、と言い、
「この女の関係者は?」
後ろを見もせずに、問いかけた。自警団が声を上げて募ると、ひとりの男がおずおずと蓮章のそばに進み出てきた。
ちら、と見上げれば、見覚えがあった。昨日、辻舞台の横にいた男だった。
「この女の妓楼の者だな?」
「ああ」
男も蓮章を覚えていたと見えて、気まずそうに顔を背けた。
「知らせる家族か、友人は?」
そんな者はいないだろうと思いながら、蓮章は形式的に尋ねた。案の定、女は孤独だった。
「供養は妓楼で。最後まで責任を持て」
男は恐る恐る、琵琶を指差した。
「旦那、そいつは店で引き取っても良いですかね? なんせ、借金もありますんで」
「だめだ」
その一言で男は身がすくんだ。
蓮章は真顔のまま、
「持たせてやれ」
蓮章の、静かだが有無を言わせぬ気迫に、男は黙り込んだ。
人だかりを制しながら、玲凛が近づいてきた。
蓮章は、立ち尽くす玲凛の顔を盗み見た。まるで道端の石でも見るように、感情がなかった。
蓮章は立ち上がると、自警団にあとの指示を出した。
この手の遺体は、粗末に扱われることが常であった。それを許さぬよう、自警団には徹底を言いつけた。官吏の命令には従わない彼らも、蓮章だけは別だった。
「報告は俺が出しておく」
蓮章は事務的に、
「名は、芙蓉で間違いないな」
周囲がみな、ぎょっとした。その戸惑いを感じて、蓮章はみなの顔を見回した。
野次馬も、自警団も、妓楼の男も、不思議そうに顔を見合わせた。
妓楼の男が、蓮章の顔色を伺いながら、
「旦那、芙蓉ってのは、三年前に死んだ、そいつの姐さん芸妓だ」
蓮章は玲凛と視線を交わした。
「そいつの名は……」
男が口にした名は、初めて聞くものだった。
蓮章は背中に悪寒を覚えた。玲凛が一歩、前に出た。
「あんたたち、芙蓉にも同じこと、したんじゃないの?」
ざわり、と人々の間に動揺が走った。
「やっぱり……」
玲凛は、寝かされた女の遺体を見た。
「死者に鞭打つとは、まさにこのことね」
「……嬢ちゃん、そりゃ、どういう……」
男が、顔色を悪くして玲凛を見た。
「知りたいなら教えてあげる」
玲凛の声は、よく響いた。
「芙蓉はずっと、この子の中にいた。あんたたちはそれにも気づかず、二度も死に追いやった。一度目は嫉妬、二度目は蔑視。次は何?」
足元に、生ぬるい風が吹いた。
「芙蓉の墓はどこ?」
「え?」
男はうろたえ、それから小さな声で、
「南の川に……」
「同じ場所に葬ってあげて」
ぴしゃり、と玲凛は言った。
「そうしないと、大変なことになるわよ」
誰かが、針のような悲鳴を上げた。人だかりが一斉に崩れ、みな、逃げるように散っていった。後退った男の手を、自警団の一人が捕まえた。
「あんたは逃げられないぜ。梨花の指示だ。ちゃんと最後まで役目を果たしてもらおうか」
男は蒼白の顔で震えた。
玲凛はそっと、女に手を合わせた。
「昨日ね」
玲凛は蓮章にだけ聞こえる声で、
「この子、花びらに芙蓉の名を書いていた」
「……どうして、そんなことを俺に言う?」
「蓮章様は、人の気持ち、わかるから」
琵琶の音が、かすかに聞こえた。
それは夢か|現《うつつ》か知れなかった。
「……これだから花街ってやつは」
それきり、蓮章は黙った。
新月の光 第三部「凛廻」 完
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