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23 真心(4)
「あなたが、言うのは……」
声がわずかに波打つ。
「一緒に、死のうってこと?」
「違う」
犀星は即答した。
「ずっと、一緒にいたい」
「あ……」
汗が引き、しっとりと冷えた犀星の胸に、玲陽は顔を埋めた。
「約束、してくれるか?」
「……言ったじゃないですか。する、って」
「そうだった」
くすり、と犀星は笑った。
抱き寄せて、引き寄せて、温め合う。
まことの心が結ばれ、雫をたたえて咲き誇る、花街の夜。
月光を映すせせらぎが、静かに更けていく宵闇を縫って、慈しむように流れていた。
全身に絡みつくのは、色濃い疲れか浴びせられた屈辱か。
身体の内からこみ上げる重苦しさが、ずしりと手足の自由を奪う。
壁に沿って、水の垂れる音がかすかに響く。
石の間。
硬くざらついた床に一糸纏わぬ体を無防備に投げ出す。見る者がないのを良いことに、震えるままに、しばし時をやり過ごし、堪える。
人には見せぬと誓った涙が、今は止めどなく流れ続けた。
身のうちの炎が徐々に引き、体の随所に痛みが出る。頭がしびれ、激しいめまいと頭痛、そして吐き気が襲う。何もかもが中途半端だった。苦しみなのか快楽の名残か、未だ果たせぬ渇望か。ただ呼吸だけは止めないよう、涼景はひたすら、息を繰り返した。
宝順帝と夕泉親王。
二人の間で弄ばれた体は、もう自分のものとも思われなかった。ただ重たいだけの肉の塊が残された虚無感と脱力感。何があったか、それすらはっきりと思い出すことも拒まれ、頭の中に靄がかかり、ここ数刻の出来事の全てを、心が、魂が、封じ込めようとしていた。
床に当てた耳から、石を伝い、かすかに足音が聞こえてくる。天輝殿を守る左近衛の巡回。石の間の中には、ただ一人取り残された自分だけだ。悲鳴を聞きつけた近衛たちは、一夜の惨劇を知っている。だが、彼らが干渉することはない。それが石の間の不文律だった。
腕に力を込め、肘を伸ばして体を支え、上体を起こす。腰が崩れて、脚に力が入らない。無惨に散った床の上の汚れを、涼景は感情もなく眺めた。自ら、清めねばならない。
『片付けておけ』
いつもと変わらぬその一言は、限界を超えた涼景の上に、容赦なく命じられた。
時が経つにつれ、少しずつ乾き、肌に張り付いていく穢れ。通常なら耐え難いものさえ、今は感覚があまりに鈍い。
普段から鍛錬を怠らない身体が、あまりに不自由だった。
腕で這い、壁際の水瓶に寄る。柄杓で水を汲み、頭から浴びる。とりつかれたように、何度も、何度も繰り返す。水はややぬるく、しかしそれが逆に肌に粘って残り、いつまでたってもきりがない。
膝で立つと、内腿に不浄が垂れ落ちた。ぞわりと背筋を走る嫌悪感。手を伸ばしたが、肩が痛んで後ろに回らない。悔しさに、また、涙だけが流れた。
手ぬぐいを掴み、顔を拭い、涼景は深く息を吐いた。
いくつかの灯りはもう油が尽きて、芯だけがぽつんと赤く光っている。壁を支えによろめいて立ち上がる。濡れたままの姿が、余計に己の惨めさを思い知らせる。見回せば、暗がりに、はぎ取られた着物が無造作に投げ出されていた。
涼景はまたしばしその光景を眺め、それから桶いっぱいに水を汲むと、床の傾斜に沿って高い位置から静かに流した。何色とも知れぬものが、床の溝に沿って徐々に流れ下り、部屋の隅の排水溝までたどり着く。水を汲み、床に流す。
その単調な作業の中で、涼景は少しずつ自分の体の制御を取り戻していった。竹の箒が、部屋の隅に立てかけられている。水とともに汚れを掃く。耳障りな硬質の音。いやがおうにも跳ねて足元に散る水滴。石の隙間に入り込んだ、誰のものともわからぬものを、ただ黙々と清めてゆく。素足が、我が身に起きたことを、まざまざと伝えてきた。
時を使い、床を清めると、涼景は周りを見渡した。幸い、壁に汚れはない。もう一度足元を洗い、着物を羽織る。帯を結ぶ手が震えていた。いつもよりも緩くなり、胸元もしっかりと合わせることができない。ただ上辺だけ取り繕うように袖を通し、ようやく内側から閂を外した。
最後の油灯の芯が、燃え尽きようとしていた。
重たい扉を体の重みで押し開ける。開いた隙間から差し込むいくつかの小さな油灯の炎が、眩しいほどに目を刺した。
扉のすぐ脇には、警備の左近衛が立っている。涼景が現れても、正面を向いたまま、ちらりとも目を動かさない。ここを警備する者にとって、石の間で起きる事は、すべてこの世の出来事ではない。知らぬ方がよい、知る必要のない、幻である。
涼景は必死に前を見て、片足を引きずりながら、ゆっくりと歩いた。体の節々が痛み、腹の中までが灼けるように疼いている。
早くこの危うい状況から逃れたい。今の自分を誰にも見られたくはない。その思いが、涼景の疲れきった体を動かしていた。
すれ違う近衛も禁軍も、誰も自分を見ない。まるでそこには何もないかのように素通りしていく。たまらず、膝をついて崩れ落ちたが、気にとめる者はいなかった。呼吸を整え、自力で立ち上がり、また、ずるずると出口に向かう。
今の涼景は右近衛隊長でもなければ、軍を任される暁将軍でもない。ただの、権力者の欲望を満たした、生きた人形の残骸である。
天輝殿の中央通路を抜け、前殿の謁見室の脇を通り、正面の門をくぐる。涼景が近づけば、左近衛たちは心得ているとばかりに、無言で一人分の隙間を開け、彼を通した。早く出て行けと言うかのように、整然とした動きだった。
涼景の表情は凍りついていた。そこには、苦しみも怒りもない。ただ、現実に起きたすべて忘れるような虚無。
最後の長く幅の広い階段を危なげに降り、ちらりと厩舎の方に目を向ける。このような夜は、馬を使うことはない。事後の体はとても馬上には耐えられない。
少しでも早く隠れたい。誰にも、今の自分を見られたくはない。
茂みを踏んで木立の中に分け入り、木々の根元に座り込む。人目を逃れたという安心感で、心が遠のく。
右衛房に戻らねば……
簡易の湯を浴びて、奥の部屋で眠ろう。明日も忙しく予定が詰まっている。涼景の心はせわしなく己を駆り立てたが、すぐに体は動かない。
覚悟していた以上に、今夜は凄まじかった。二人分の情を一身に受け、しかも、いびつにねじれた欲望の形に翻弄され、涼景の体は限界を超えさせられた。やすやすと壊され、途中からわけもわからぬ暴力に、意識は飛んだ。気がついたときには泣き叫ぶ声も枯れていた。
木の幹に寄りかかっていた涼景は、そのまま横倒しに草の中へ倒れた。時折、喉が締まって咳き込むたびに、全身が軋んだ。
「蓮……」
救いを求めるつぶやき。
会いたいわけではない。むしろ会えるはずがない。今のこの姿を最も見られたくないのは、他でもない親友である。自分が傷つく以上に、傷ついた自分を見て心を引き裂かれるのは、彼なのだ。
蓮章にだけは……
それは涼景の最後の矜持だった。
しばらくそうして、やがて木を頼りに、少しずつ体を起こす。いつしか、全身がすっかりと冷えて、震え始めていた。涙腺が熱くなるが、ぐっと飲み込む。
息を乱して顔を上げると、木立の奥の星明かりの下、人影がひとつ、明らかにこちらを向いて立っている。白い星明かりがその面に弾け、柔らかく輪郭が見えると、涼景は途端に顔をこわばらせた。胸の中で、複雑な拒絶感が渦巻き、心を押し潰した。
「涼……景」
乱れた、そして、優しい音が呼ぶ。
「…………」
涼景は自分の声が聞こえなかった。人影は静かに寄ると、涼景の左肩を背負った。
「……リィに、頼まれた」
涼景を大切に支え、酷く掠れた男の声が静かに告げた。
思わず、涼景は顔を背けた。
それは意地か、それとも愛着か。声も出せない。
涼景の体が傾き、男はさらに深く腕を回した。
涼景の着物を濡らす水が、じっとりと男の裾に染み込んでいく。
無言のまま、涼景は自分より細い体に頼った。伝わる熱が熱くてたまらなかった。
涼景は小さく咳き込んだ。
男は片手で器用に襟を探り、小さな飴を取り出した。
黙って涼景の口元に持って行く。びくりとした涼景と目が合うが、男の表情は静かなままだ。
流される心地で、涼景は唇を開いた。男はそっと、飴を含ませる。かすかに唇に指先が触れ、柔らかい熱が残る。
スッと鼻に抜ける、薄荷の香りがした。喉を案じたようでもあり、喋らなくていい言い訳を作ったようでもあった。
涼景はころりと、舌の上で飴を転がした。普段は特に気にならない薄荷の香りが、なぜか目にしみた。
男は何も言わない。
だが、寄り添う柔らかい安心感が、涼景の心を弱くする。
俺はいつから、こいつにこれほど、油断するようになった?
考えれば考えるほどに、涼景の心は揺れた。それは、踏み外せば瞬く間に谷底に落ち込むほど、危うい線の上にあった。
草を踏み、夜の中をゆっくりと歩く。
虫の音が、二人の道を案内するかのように先々で響く。
涼景は、触れ合うほどに近い灰色の瞳を盗み見た。
肉体の辛さも忘れるほど、心は痺れていた。
夜風は甘く、花の香がした。
右衛房までの道は長く、短い。門の篝火の灯りが見え、門番の姿が黒く揺れた。
男は足を止め、そっと、体を引いた。目を合わせることもなく、背を向け、闇に消える。
涼景はふと、右手首に何かを感じた。
いつの間にそうされたのか、赤い紐の端が結ばれ、長く、垂れていた。
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