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序章 婚礼 Ⅰ 後宮-1

 空に浮かぶ月は、赤から白に変わっていた。  真っ白な輝きは、闇夜をいつも以上に明るく照らす。セナは、その白さを確認してからゆっくりと外に出た。  冬の夜風が頬を通り過ぎていく。白い息はあっという間に闇に消える。牢番(ろうばん)は、いつも鍵を開けると逃げるように去って行く。冬だというのに、マント一つ用意されていなかった。  凍えそうに寒かったが、セナはしばし石畳の上に佇んだ。高貴な人間を幽閉する際に使われるため、薄汚れてはいない場所だが、牢獄は牢獄である。灯り一つない空間はうっそうとした木々に覆われ、空よりも地上の方が、闇は深かった。 「王子」  乳母夫のジドが、不自由な片足を引きずりながらやってきた。引きずるといっても気をつけて見なければわからぬほどである。ジドは齢五十近くだが、数多くの戦場をくぐり抜けてきた体躯と精悍さは衰えていなかった。 「なんと。そのようなお姿で。今すぐ毛皮を用意いたしましょう」 「ああ、いい。いい。このまま王城に入る方が早い。しかしジド、今回は(はく)(つき)がずいぶんと早かったように感じたが?」  粗末なもので申し訳ありません、と謝罪しながらジドはセナに自分のマントを羽織らせた。 「おっしゃるとおり、今回は(せき)(げつ)が早く消えました。婚礼が間に合わなかった者もいるらしいです」 「それは残念なことだな」  ひと月はおよそ十六日から十八日で、月は四度、姿を変える。  丸く赤い月が出る赤月、形は変わらぬまま月が白く変わる白月、色は黄色で、最も大きく円を描く(よい)(げつ)、同じく色は黄色いが月が細くなる(りゅう)(げつ)。  ひと月ごとに月は姿を変え、春、夏、秋、冬の周期ごとに四回それを繰り返す。 「まあ、もともと冬の赤月は日数が短いですから。春赤月のほうが長く、妊娠も確率が高くなりますし、延期しても構わんだろうと私などは思いますが。婚礼の夜に赤月が消え、不吉だと騒ぎ出した年寄りもいたらしく」  不吉ねえ、とセナは思い出し笑いをこぼした。 「皆がジドのように頭が柔らかいといいんだがな。娘を宵月に結婚させる父親など、珍しいものな」 「子を孕むためだけに結婚するわけではないでしょうに……」  ジドに背中を守られるように王城内に入る。自室のある北へすぐに向かおうとしたが、前方から厳しい声が飛んだ。 「まだ一カ月経っていないというのに、誰がお前に外に出ることを許した!」  王太子である兄だった。なぜこんな王城の外れに兄がいるのか、セナは内心首を傾げながら答えた。 「月が変わりましたら牢が開きます。私が開けるように指示しているわけではありません」 「今回赤月が早く明けたからといって、お前の(じゃ)(こう)が消えているとは限らんのだぞ」 「……お言葉ですが王太子様。惹香の力は本来、赤月でも七日間のみと言われております。セナ王子は念のために、赤月の間はずっと牢にて人を避けておられます。これ以上、セナ王子にご不自由を強いられますのは」 「こやつが(じゃ)(こう)(のう)を持つ淫売なのが悪いのだろう」  兄の侮辱よりも、セナは後ろに控えるジドの怒りのほうが気になった。老いたとはいえ、かつてネバルの勇猛果敢な武官であったジドの気は、瞬時に肌を(あわ)立たせるほどだった。あまりの気迫に、王太子が息をのむ。 「王太子様。こんな場所で何を? どちらに出かけられますか」  ネバル国宰相のウルドが、ゆったりとした動作で近づいてきた。 「赤月が明けたので、やっと後宮から出られて外へ遊びに行かれるといったところですか」 「さ……宰相」 「赤月明けの娼館など、自堕落の極み。もうしばらくは夜歩きは控えなされ。ご予定ではこの赤月でお二人、王太子様の御子がお生まれになりますが、まだお一人のお誕生しか早馬が届いておりませんぞ。ささ、南へお連れしろ」  忌ま忌ましそうに兄が舌打ちするのを、セナは横顔で受け止めた。  宰相の助け船は、おそらく数日内に別の形で戻ってくるだろう。赤月の間だけでなく、ずっと牢に閉じ込めておけと命じてくるだろうか。 「牢番に鍵を開けさせたのは私でございます」  ウルドの言葉に、セナは思わずまじまじと老宰相を見つめた。  ウルドは普段、セナに対して声をかけてくるのはまれだ。父王の片腕であるこの宰相は、他の王子に対しても愛想の良いほうではないが、自分は王子として数えられてもいまいと、セナは思っていた。侮蔑は向けてこなかったが、不要な者として見られていることはわかっていた。 「セナ王子、このまま国王様のもとへ。父王様より、お話があります」  セナは目を見開いた。 「お言葉ですが宰相、王子は牢から出られたばかりで……」 「よい、ジド。父上のご用命だ」  父王が直接自分を呼びつけるなど、今まで一度もなかったことである。  ウルドがわざわざ北の端で待ち構えていたのを考えると、相当大事な用なのだろう。不安もあったが、父王の言葉を直接賜ることができるかもしれないという期待が、心を弾ませた。  ウルドが案内したのは、国王の執務室ではなく、私室だった。兄の王太子でも、一度も足を踏み入れたことはあるまい。セナは緊張のあまり、足が強ばってうまく進めなくなった。  扉が開かれるとすぐ、寝椅子に腰かけている父王の姿が目に入った。寝椅子のそばに置かれた卓には書類が山積みになっている。書類に目を通していた父王の顔が、わずかに上がる。 「来たか」  六十五歳になった国王は書類を卓上に戻し、老いた身体を寝椅子から持ち上げた。ウルドがさりげなくその身体を支える。セナは閉められた扉を背に、父王がそばに近寄るのを許す言葉を待った。だが、父王は許可を与えずに尋ねた。 「セナよ。いくつになった」  距離を縮める許可は与えられぬらしい。返答する前にセナはその場に片膝をついた。 「十六でございます」  夜着の上に執務服を羽織らせてはいたが、父王の格好も態度も、どこか投げやりな様子だった。いつものようにセナに顔も向けてこないが、拒絶感はない。 「お前を、レスキア皇帝に嫁がせる」  父王の掠れた声は、セナの心を一瞬にして凍り付かせた。  反応したくとも、呼吸すらままならない。だが父王はセナの反応など目にも入れず、淡々と言葉を続けた。 「知っての通り、お前は(わし)(まっ)()で、儂には娘がおらぬ。長子の遺児は唯一の女児だが、これは王太子の長男に嫁がせるのが決まっておる。この冬赤月に生まれた王太子の子も、また男。これ以上レスキアにのらりくらりと返事を避け続けるわけにはいかんのだ。レスキアはついに、春赤月までには、王族の娘をレスキア皇帝の後宮へ入れるように命じてきた」  この世界は、東、西、南、北、四つの大国に大きく分けられている。  北のネスタニア国、南のバルミラ国、西のオストラコン国。そして東の大国・レスキア帝国は、領土の大きさが四国で最も大きく、軍事力、経済力いずれも群を抜いていた。  皇帝を冠する者は、世界の王として、四つの大国の頂点に立つ。  どの国の王を皇帝とするか、決めるのは神として崇められる(りゅう)(おう)である。  レスキア国王は三代続けて皇帝の名を冠することを竜王より許され、その政治は盤石であった。  レスキア皇帝は四大国の王女や有力貴族らの娘を後宮に入れているだけでなく、自国の従属国からも妃を迎えている。これは、いわゆる人質としての目的もあった。  四大国は表面上一応均衡を保っているが、周辺の小国は、いずれかの大国に従属する以外、生きながらえるのは不可能だった。四つの大国はそれぞれ従わせる国々を持ち、レスキアの従属国は七国である。南のバルミラ国が、十二の国と十五の部族をまとめあげるのに四苦八苦しているのを見ても、比較的統治が楽ではあった。だがレスキア帝国は今、竜王から『皇帝(シェヴァ)』の称号を許されている。目を光らせる必要があるのは、己の国だけではなかった。  砂漠の小国であるネバル国は、土地的には南の国バルミラ側に近い。だがバルミラ国は政情が安定せず、長い歴史でネバルは何度もバルミラに振り回されてきた。バルミラの勢力が削がれた時代に、東のレスキアに(くら)替えしたのである。  当然、バルミラは力を盛り返してくると、ネバル国に圧力をかけてくるようになった。レスキアはネバルを見放しはしなかったが、代々ネバル国王は自国を保つだけで精一杯の状態だった。 「儂とて、長子が生きていたら、この齢まで王座にしがみつく必要もなかったものを」  流行り病にて早世したネバル国王の長子は血統や能力的にも王にふさわしかったが、次子である現王太子は国政を任せるには愚かすぎた。長子が遺した女児は王太子の長子と早々に婚約しており、それによって家臣らをまとめているような状態だった。 「孫が成人するまで生きることはできまいが、家臣らを納得させるためにも、孫娘をレスキアの後宮に入れるわけにはいかぬ」  それはわかっている。だが。()(ぜん)とした声を出そうとしたが、セナが振り絞った声は、外に溢れると震えた。 「しかし、私は、男でございます」 「惹香嚢持ちのな」  そこで初めて、父王はまっすぐ視線を向けてきた。 「お前の体内にある惹香嚢は、男を受け入れれば子どもさえ(はら)む。惹香嚢持ちならば、女と同様に後宮に入ることを認められよう」 「後宮入りなど許されるわけがありません。私は、男性体でございます。両性ならばともかく、惹香嚢があるとはいえ男です。男子禁制である後宮に通されるとは思えません」 「だから何度も! 王女はいないとレスキアに断り続けてきたのだ!」  父王の身体がゆらりと傾く。セナがはっとして身を動かす前に、すかさずウルドがその身体を支えた。ウルドにしがみつきながら、ネバル国王は叫んだ。 「人質を出さないということは、南のバルミラと(つな)がっているのだろうと邪推される。もう、取り繕うのは不可能なのだ。孫娘だけはレスキア皇帝に渡せん。あれの血統が王太子を保証するのだ。このネバルを、内からも、外からも守るには、他に方法などないと、ここまで言わねばわからぬか。そこまで愚か者か、お前は!」  掠れた声を、最後は罵るように吐き出した父王に、セナは何も言えなかった。  老いた父は、セナが思った以上に身体を酷使していた。平均寿命が五十歳以下のネバル国民の中でも、ネバル国王は六十五歳と長命なほうだったが、明日どうにかなってしまってもおかしくない年齢である。 「……お前とて、妻帯できる身体でもあるまいに」  吐き捨てるような父王の声と、責めるような宰相の視線。二人の非難は、もっともだった。王族として生まれた以上、国のために身を捧げるのが当然である。  身体が冷たくなるのを感じながら、セナは床に片膝をつき、無言で諾を伝えるしかなかった。  レスキアの王宮に辿(たど)り着いた直後に、殺されるかもしれない。  身を裂かれ、生きたまま内臓を取られ、道に放り出されてお終いかもしれない。  それでもネバルが、レスキアに確かに(ひと)()()(くう)を出したという証しは、刻まれるだろう。  そのためだけの、存在価値。  存在に価値が見いだされるだけマシではないか。  何の役にも立たない、惹香嚢体の王子なのだから。  そんな(ささや)きが、セナの耳に届いた気がした。       * ・*・ *  セナは生まれてから一度もネバル国から出たことがない。  (しゃく)(ねつ)の砂漠に囲まれる母国の外がどうなっているのか、人の話から想像したことはあっても、限界があった。  世界には竜の姿の神がおり、神山という世界の中心に鎮座し、世界を守っている。  幼い頃、上手に思い描けず首をかしげると、乳母は微笑みながら世界地図を指して話した。  世界にはネバルよりも大きな国がいくつもあり、肌の色も、髪の色も違う。  なぜか? と問うセナに、乳母は告げた。  それぞれの国の民は、求める色を瞳に宿すのだと。  ネバル民が求めるのは緑である。水を保たせ生物を呼び穀物を育む濃い緑を、何よりも求めるのだと。 「あなたの瞳の色は、ネバルの祈りそのものです」  そう話していた乳母の黄緑色の瞳を、セナは思い出していた。  東の大国レスキアは、またの名を「水と緑の国」と呼ばれている。  セナは自らの置かれている状況も忘れ、目の前の光景にくぎづけになった。  豊富な水が、深い緑の森をこれでもかというほどに育んでいる。目にとびこんでくる色は全て緑、緑。砂漠の国ネバルでは、背が高く、葉の豊富な木々など存在しない。空を覆うほどの緑など、この世に存在したのかと、自然の豊かさにセナは言葉を失った。自分の瞳の色よりはるかに濃い緑色であふれていた。  ネバル国を出発して十八日目、あと二日ほどでレスキア帝国の首都ギドゥオンに到着する。ネバルからの一行がひと休みに選んだ森の中で、セナはその緑の濃さを目に焼き付けた。灼熱の太陽にひたすら耐える砂漠のわずかな木々は、これほどの緑を保つことはできない。  馬車の窓の布をめくり外を(のぞ)き見ていたセナは、思わず呟いた。 「なんという……恵みにあふれた国だ、ここは」  セナの独り言に、侍従のフオルが(うなず)いた。 「四大国の中で最も早く発展したのは、水と緑の豊富さゆえです。この国の農業はほったらかしにしていても勝手に実りを与えてくれるそうな。我が国や、南のバルミラ国が、年々砂漠化で農耕地が少なくなっているのと対照的ですな」  セナは思わずフオルに顔を向けた。ネバルを旅立ってから、フオルがまともに会話をしてきたのは初めてである。  フオルはネバル王宮の侍従だったが、王族付きではなかったため、セナはその存在を知らなかった。聞けば、ネバル国宰相ウルドの召し使いだったらしい。  フオルが、レスキア皇帝の後宮に入るセナのただ一人の侍従として選ばれたのは、ウルドの息がかかった者だからだけではない。後宮に入るのに、都合がいい人間だからだ。 「詳しいな、フオル。宰相の書記を?」 「()(びと)で両性体の私になど、文官のお役目を果たせるわけないではありませんか」  フオルは自嘲気味に顔を(ゆが)めてみせた。齢は二十代後半と聞いていたが、小人族の特徴で体格は七歳ほどの幼児でも顔は大人びている。皮膚が伸びても骨格が成長しないため大きな目の周りには皺が寄っていた。  小人には種族があるが、親が小人族出身でなくとも小人として生まれる場合がある。これは惹香嚢体も同じだった。母親が惹香嚢体でなくとも、たまに惹香嚢体の子どもが生まれる場合がある。これらを「先祖返り」と呼んでいた。  フオルは褐色の肌に黒髪が多いネバル国民には珍しく、髪が茶色で肌と目の色素も薄い。細くさらさらとした髪は丸い頭の形をくっきりと浮き上がらせていた。 「まあ、だからこそあなた様付きの侍従として、レスキアにまで行かされることになったんですけどね」  随分はっきりとものを言う侍従だとセナは思った。  取り繕う必要がないからだろう。レスキアの後宮になんとか潜り込んだとしても、すぐに殺されるかもしれないのだ。とばっちりだと思っているのがありありと伝わる。  セナがレスキア皇帝の後宮に入ることが決定した時、乳母のアリーアとその夫のジドは、自分たちが付き従うと申し出てきた。だがジドは男、後宮には入ることはできない。  かといって、もう四十歳を過ぎているアリーアを伴う気にもなれなかった。乳姉弟として育ったジドの娘は、結婚して子どもが生まれたばかりである。  別れを惜しむ暇もなかった。冬赤月の終わりに後宮入りの話が来てわずか三十日後、冬宵月の終わりには出立である。春赤月に間に合うように後宮入りすべし、と王命が届き、あっという間に時間は過ぎた。 「王子。もうそろそろ赤月に入ります。惹香の匂いなど、私は全くわかりませんが、外の護衛どもがソワソワし始めると困ります。惹香嚢の分泌が始まって匂いが漂う前に、抑制薬を飲んでくださいよ」  セナはいわくつきの第四王子として王宮の外れで育てられたが、それでもこれほど無礼な態度をとられることはかつてなかった。皆が好奇と侮蔑の目を向けてくることはわかっていても、仮にも王族、あからさまに蔑まれたことはなかった。 (慣れるしかなかろうな)  セナはため息をついて腰に結んでいる袋から、惹香の分泌抑制薬を取り出した。手のひらに転がる爪ほどの大きさの黒い丸薬を、フオルが覗き込んでくる。フオルはふんふんと鼻を動かしているが、無臭である。 「普通の薬なんですね。それ、効くんですか」 「知らんな。相手側の反応は見たことがないからな。いつも、赤月になると牢に入れられていたから」 「そういえばそうでしたね。お気の毒なことで」  全然気の毒と思っていない口調でフオルは言った。 「あなた様は発情しないんですか?」 「しない」 「じゃあ、薬が効いているということですよね」  物心ついたときから抑制薬を飲まされていたので、セナはこれを飲まなければ自分がどうなるかもわからない。 「惹香の匂いにやられるのは、異能種獣人族だけではないんでしょう。赤月の七日間は、純血種の人間でも狂わされるとか」 「……そうらしいな」 「牢に隔離されるわけですよね」  悪気はないのかもしれないが、気分が良いものではない。 「俺も、両性体だけは、惹香に影響されないと初めて知った」 「俺」  フオルは意外な言葉を聞いたというように大きな目をくりくりと動かした。 「なんだ?」 「いいえ。やはり、あなた様は男体なんですねえ。私は俺、という人称を用いたことはありません」  セナは丸薬を口に放り入れ、水で流し込んだ。 「王子として育てられたのだから、当然だろう。俺の乳母夫は、勇猛な軍人だった。剣の手ほどきは一通り受けた。外の護衛が俺に発情してきても、貞操を守るくらいの腕は持っているつもりだがな」 「お勇ましいことで。ですが、その衣装に剣はそぐいませんな。レスキア入りをしたら、剣どころか小剣も外していただきますぞ。後宮では(はい)(けん)は許されておりません」  セナは自分の、女性用の衣装を見下ろした。  ネバルでは男も女も肌を晒さない装いで、身体の線はほとんど見えない。  女性用の布地は男のそれよりも柔らかく、肌を滑る感触にセナは不快さを隠せなかった。屈辱が、否応なく心を黒く染めていく。  惹香嚢体として生まれたがゆえに通常の男子よりは骨格や筋肉も発達しなかったが、王子であるという意識から常に鍛えてきた。女性らしい線の柔らかさもなければ、肌や髪を労わったこともない。美しさとは無縁の容姿であり、それを求めたこともなかった。外見で褒められるのは、遠目からでも際立つほどの濃い緑色の瞳だけである。 「……こちらは赤月の入りが早そうですね」  フオルの言葉に、セナは馬車の窓の布を払い、再度外を見た。  夜が更けなければ姿を現さない流月が、夕方の時刻だというのにうっすら浮かんでいる。 「……本当だ。お国柄か?」 「この間は赤月が早く明けましたし、どうも、月の暦が妙になっていますね」  フオルは腕を組んで考えこむように首を傾けた。どうもこの者は、学がないと言う割に思考することが好きらしい。 「月の暦が妙とは?」 「この間はひと月待たずに、赤月が明けました。時差が、生じているかと」  セナの後宮入りが春赤月にと指定されたのは、赤月は婚礼に最も適しているからである。  人間のほとんどが、赤月に受胎し、赤月に誕生する。  中でも春赤月は最も子を身ごもりやすいと言われ、巷では婚礼の儀があふれかえっている。 「時差とはどういうことだ? 多少、月の色や形が変わることもあるだろうが、一年は十六カ月だろう。赤月、白月、宵月、流月と、春から冬まで繰り返す」 「ひと月を待たずに赤月が終わっても、白月が始まりますが、そうしますと一年十六カ月二百七十日にズレが生じ、空に月が浮かばない七日間が現れるのですよ」  フオルが何を言いたいのか、セナにはなんとなくわかった。 「(かみ)(かくし)(づき)です」  空に月が現れない、闇の七日間を、神隠月と呼んでいる。当然、毎年神隠月があるわけではない。 「時差な。なるほど。そういう理屈か」 「神が眠りに入るからなどと言いますけど、答えは単純。時差のズレなんですよ」 「しかし実際に竜王(シェヴァイリオン)は神隠月に(ぶん)(らん)され、神隠月に孵化(ふか)なさると言われている」 「神隠月に必ず竜王が分卵なさるわけでもありませんよ。月の暦のズレは、時間のズレです」  フオルの合理的思考と博識に、セナは内心舌を巻いた。学ぶことが好きな性質なのだろう。小人族ゆえ、教養を十分与えられずに冷遇されてきたに違いない。セナは少々、フオルに対する目を改めた。  国から弾かれた者同士、仲良くしたいところであるが、フオルは真っ平ごめんだろう。レスキア皇帝の後宮に入ったとしても、何も保証されていない主人である。 「今のお召し物で、男とは気づかれないでしょうが、念のため目以外の顔を全て覆っていただきますよ」  フオルはそう言いながら、黒いショールを手にした。ネバルでは、女性は人前に出る際に必ずこれを用いる。光沢がありてろりと滑らかな生地は、高貴な者しか身につけられない。 「……待て」  女性なら、だ。 「もしかして俺が、男性体であることを、先方には伝えていないのか?」  セナは身を包んだ女性用の衣装を握りしめた。こんな茶番を行わねばならないのも、後宮入りするためと思っていたが。 「惹香嚢をお持ちということは伝えてあるそうです」 「ばかな! 隠したところで早々に気づかれるに決まっているだろう!」 「お話では、ネバルの後宮と違って、レスキアの後宮には、皇帝の許しを得た書記官や侍従は出入り可能とか」 「それは両性だろう!」 「そんなことは私が知るわけないではありませんか! ネバルが欲しいのは、あなた様が、確かにレスキアの言うとおりに後宮に入ったという証しだけです! 事前に男だとわかれば拒絶され、後宮に入ることすらできないでしょう。レスキア皇帝が男を愛でているという(うわさ)は聞きません」 「フオル、そんな(だま)すような手口で後宮に入ったとて、俺だけでなくお前まで切り捨てられるかもしれないんだぞ」 「このまま国に帰ったところで、同じです」  フオルは肩をふるわせながら、セナを見据えてきた。 「どうなったって、殺されるのは同じだ。あなた様が万が一、レスキア皇帝に気に入られて後宮で暮らすことを許されれば別ですけどね。だからあなたには、なんとしても、後宮にまで辿り着いてもらわねば困るんです」 「……フオル」  無理に決まっている。  後宮に入る前に、皇帝と(ねや)をともにする者の身体を、調べないわけがないのだ。  皇帝に害を与えそうな者は、即刻排除される。  だが、セナはもう何も言えなかった。       ◆・◆・◆  レスキア帝国王宮、最奥にある後宮にまで足を踏み入れることができる男は、そういない。  後宮は皇帝の妃らが居住する場所であり、基本、男子禁制である。  皇子であっても、十歳になれば後宮を出て、独立した宮を与えられる。 「ジグルト様!」  後宮で侍従として働く者は、皆両性体だった。両性は、生殖能力がないため、妻帯できずに子孫も残せない。後宮ぐらいしか、老年になっても働ける場所はない。女官以外で後宮にいるのは、ほとんどが老いた両性だった。  そのうちの一人、後宮の責任者である後宮侍従長のハーモンが、喉から声を張り上げている。呼ばれた第一書記官・ジグルトは足を速めた。  後宮手前にある侍従らの詰め所は、珍しく閑散としていた。おそらく人払いしたのだろう。ハーモンは胸を押さえて首を振った。 「急にお呼びして……。しかしながら、私の一存ではどうにもこうにも」 「ネバルの王女が王宮入りしたのだろう」 「〝王子〟です」 「何?」 「王女ではありません。〝王子〟でございます」  レスキア帝国皇帝の妃は、現在二十人。  ジグルトは、有能(ぞろ)いの第一書記官の中でも、後宮に関する業務を任されていた。これは、最高行政職である宰相への出世街道だった。後宮には諸外国の王女らと、それを取り巻く政治があふれているからである。 「王宮入りの折には、誰も花嫁を確認などいたしませんから。迎えに出た後宮の者も、女物の衣装を身につけている花嫁を、まさか男などと思わなかったのでしょう。あちらも何もおっしゃいませんでしたし、私が()(きゅう)にてお迎えした際、顔のショールを外して初めて気がついた次第で……」  ジグルトは詰め所から見える緋色に輝く丸屋根に目を向けた。春の陽光を受け、遠目からでもそれは煌めいていた。後宮手前に位置するその宮殿は、謁見の許しを得た各国の大臣らが、後宮の妃らと面会する場所である。  後宮入りする際に、ハーモンはネバルの花嫁をここで確認しようとして、男であることに気がついたのだ。 「惹香嚢体と、聞いていたが……なぜネバルは王子をよこしたのだ」 「惹香嚢は、確かにお持ちだそうです」  ハーモンは老いた身体をふらつかせた。ジグルトはハーモンに座ることを許可した。常日頃、召し使いに手を支えてもらっている者だ。事情が事情なので、人払いしたのだろう。  ハーモンが気を遣うので、ジグルトは自分も椅子を引き寄せた。せっかちなジグルトは、休息をとる時以外に腰を落ち着けたりしないが、膝をつき合わせるようにしてハーモンに話を振った。 「俺はあまり詳しくないが、惹香嚢持ちは、男性体でも男を惑わす香りを放つのか」 「はい」 「陛下は、男には全く興味を示されない。惹香は、獣人族には性的分泌を促すが、純血種の人間には……」 「獣人族ほどではありませんが、純血種でも匂いに逆らえず、性的に反応する、と言われております。惹香の匂いに惑わされないのは、性が未分化で生殖本能がない我々両性のみです」  ジグルトはそこで、組んだ足に肘をつき、顔を乗せた。 「……男でも、反応する?」 「はい。逆らえない、と」 「しかし……子は」 「生まれます」  ジグルトは無言のまま、ハーモンの皺の深い顔を見つめた。 「男性体でも、受精いたしますと、妊娠します。惹香嚢とは、体内にある臓器ですが、受精するとこれが女性の子宮の役割を果たすといわれております。その謎を解明した者はおりませんが。なんといっても惹香嚢を所有して生まれてくる者は、千人に一人といわれておりますゆえ」  ジグルトのハーモンを見つめていた目が、別の焦点へと移っていく。ジグルトの見つめるものをうかがおうとするように、ハーモンは身を乗り出した。 「あの……書記官殿」 「子は、宿す。なるほど。縁を持つのが従属の証し、ならば身体が男でも文句はなかろう、と。ふふ、ネバルも愉快なことを考える」  ジグルトの瞳に光が戻る。 「ハーモン。ネバルの王子を予定通り、後宮に入れ、陛下をお通しせよ」 「ジグルト様!」  ハーモンの老いた身体は傍目にもわかるほど震え上がった。 「男性体でございますよ! 惹香嚢があるとはいえ、男性である以上、皇后様始め、妃様方に貞操の疑いを抱かせる存在です! 一夜たりとも、後宮内で過ごさせるわけにはいきません!」 「後宮の手前の緋宮に入れればいいだろう」  ジグルトは視線だけを緋色の屋根に向けた。 「緋宮から先へお通ししないとなると、皇后様になんとご説明すればよいか……。ずっと緋宮に居ていただくわけにもいきますまい」 「そこは俺が何とかする」 「陛下には……」 「俺が言う。お前からは何も説明しなくてもいい。事前に知られたら、陛下はお渡りにはなるまい。あの方は、男には興味がないからな」 「それならばなぜ……」  困惑するハーモンに、ジグルトはかすかに口角を歪めた横顔を見せた。 「忘れるなよ、ハーモン。後宮入りは、国の従属の証しだ。捧げられた身体と契るのは、皇帝の責務だ。たとえそれが男であろうと、子を成せる以上、受け入れなければならない」  ハーモンはもう何も言わずわずかに(うつむ)き、従う意を示して見せた。 「お前は滞りなく、初夜の準備に入るがいい。陛下は緋宮にお通しする。各国の後宮への謁見は即刻中止させろ」 「……わかりました。書記官殿、ネバル王子のお身体を改めますのは、私でよろしいですか」  その言葉にジグルトは一瞬、目をしばたたかせてみせた。  武器などを所有する可能性があるため、皇帝との閨には、十分注意が必要である。 「そうだな……お前だろうな。初夜の立ち会いは、他の者にさせていい」 「はい。わかりました」 「その前にハーモン、俺も、ネバルの王子に会ってみたい」  また何を、とハーモンは気色ばんだ。婚礼前に花嫁が夫となる皇帝以外の男に顔をさらすなど、ありえない。 「本当に男性体なのかどうか、調べねばなるまい」 「調べました」 「裸にして?」 「そのような、無礼な!」 「閨入り前には確かめるのだろう。()(たび)も、確かに男の身体なのか、確認しなければならない」  ハーモンが何かを言う前にジグルトは立ち上がった。緋宮の方向へ躊躇(ちゅうちょ)なく足を向ける。 「書記官殿!」 「ちゃんと考えて申し出るから安心しろ。王族とはいえ、俺に(した)()に出られたら嫌な気持ちはしない。十六歳の子どもだろう?」  ジグルトは肩越しに艶然と微笑んで見せた。  貧しい家庭に生まれたジグルトが、二十八歳の若さで第一書記官にまで上りつめたのは、この美貌があったからだった。肩あたりでゆるくまとめたまっすぐな金髪と青い瞳がどれほど人を引き付けるか、どんな言葉でどう微笑みを送れば人の心が軟化するのか、ジグルトは知り尽くしていた。  緋宮にネバル国の王子を入れてから、ハーモンは緋宮に人を近づけさせていないようだった。赤月前に、後宮の妃が己に磨きをかけられるよう、次々と贈り物が届けられるくらいで、謁見はなされていなかった。  誰ともすれ違うこともなく、ジグルトとハーモンは緋宮へと続く廊下を歩く。緋宮でもかなり奥の、小さな部屋にとりあえず通したとハーモンは説明した。 「いくら何でも狭くないか」 「お付きも一人しか故郷から連れてこられなかったものですから」 「一人?」 「小人の両性体一人」  それだけで、国からどう思われているか、わかってしまう。  衛兵が二人、扉の前に立っていた。ジグルトとハーモンの訪問に、無言で扉を開く。花嫁側はレスキア側の(じん)(もん)を拒絶できないので、中に訪問者を通してよいかどうか聞くことすらしない。  扉が開かれたことを受けて、奥から慌てて小人が小走りにやってきた。小人の平均的な(たい)()よりも小さいが顔つきは大人びているので、何歳なのか判別できない。 「皇帝陛下の第一書記官殿が、王子への目通りを願われた」  ハーモンの言葉に、小人は緊張しながら膝をついて顔を伏せた。ネバルの上に対する敬礼だろう。小人はそのまま、一言も発することなく奥へ戻った。  しばらくして、小人はまた小走りにやってきたと思ったら、無言で奥を手で示して見せた。この一連の行動に、思わずジグルトはハーモンに目を向けた。 「許可が与えられない限り、上の者に対して口を利いてはならないらしいです」 「そういう風習か」  大股で奥へと進むジグルトに、小人が驚いたように前を塞ぐ。 「なんだ? お前のように小股で進めと決まりでもあるのか」  ジグルトの問いに答えたのは、奥からの声だった。 「謁見の際に近づく距離は、私側が決めるからです」  漆黒の髪に映える緑色の瞳を、ジグルトはすぐに捉えた。十六歳、の割には、大人びた瞳だった。  くっきりとした大きな瞳にあふれる緑色が、あまりにも鮮やかだからか。  小国とはいえさすが王子、身体全体から(にじ)む気品は、自然、ジグルトに膝をつかせた。惹香嚢持ちとして女の格好で後宮入りしてきたというのに、その瞳に卑屈さが()(じん)もない。誰に何を言われずとも、王族である己の存在を自覚している。  最初に謁見したハーモンが、王子に対する不敬を恐れたはずである。生まれながらの王族の威圧感を、敏感に感じ取ったのであろう。  ジグルトは、安易に近づいた己を見透かされた気がして、居心地の悪さを感じた。  だが、王子の容姿は、そう美しいというわけではない。ジグルトは顔を伏せたまま、気圧されたこの状態からの形勢逆転を思案した。  珍しいくらいの緑色の瞳だが、それだけだ。南に近い、辺境の砂漠の国で生まれ育っただけあって、肌の色は焼け、漆黒の闇のような髪は、肩まで適当に流し、切りそろえられてもいない。あの身体に、あの肌に手を()わせたとて、潤いなどいささかも感じさせまい。  辺境部族は劣悪な環境と政情に悩まされ、常に戦いの中にあった。ネバルは、国王自ら馬を駆り、敵陣に突っ込んでいくような勇猛果敢な国である。貴族の男はほとんどが武官、戦功で地位を上げてきた。知能一つでのし上がってきたジグルトにしてみれば、前時代的な後進国と思わざるを得ない。  惹香嚢持ちであっても妃腹の第四王子、武術はそれなりに学んだ様子が、佇まいからわかった。おそらく衣装の下は、鍛え上げられた肉体をしているだろう。  皇帝の食指が、動くはずもない。 「そのお国の民族衣装は、中に何が潜んでいるのかもわからぬようになっておりますが、皇帝陛下がお渡りになる場合には、当然身を改めさせていただきます」  どんな言葉が返ってくるか、ジグルトは王子の反応を待ったが、無のままだった。  深い緑色の瞳は、ただジグルトを見据えていた。 「御身は、まぎれもなく男性体であると、後宮侍従長が確認したとのことでしたが、私には皇帝陛下に真実をお答えする義務がございます。失礼ながら……」  突然、赤や朱の細やかな()(しゅう)で彩られた衣装が、翻った。 「満足か?」  衣装の下は、下着一つまとわりつかせていなかった。おそらく確認されることを、予想していたのであろう。  細身ながら、筋肉の引き締まったすらりとした手足や腰を、思わずジグルトは茫然(ぼうぜん)として見つめた。真ん中にある男根の存在を目にした時、ただ口を開けてその身体を見入っていた不敬に気がつき、慌てて顔を伏せた。 「は、た、確かに」  ジグルトの言葉を払うように、王子は衣装を肩にかけ、部屋の奥へ姿を消した。  目の端に(りん)とした王子の背中を捉えながら、ジグルトは、己の心に何か妙なものがまき散らされたのを感じていた。  来たる赤月への不安か。  このありえない妃が、この国に及ぼす影響への懸念か。それとも──。  闇に溶けそうなほど細かった冬流月が、次第に膨らんでいく。  月は静かに、丸く赤く、変わろうとしていた。       * ・*・ *  レスキア皇帝アリオスがレスキア国王となったのは、齢十八の時である。  アリオスは前レスキア皇帝の第六子である。皇子としては三番目に誕生した。  皇帝の嫡子であった皇太子が病にて早世し、その一年後、齢十七でアリオスは皇太子として立った。その間、レスキア前皇帝の次男が暗殺されたのを皮切りに、利権を欲する大貴族らに乗せられた前皇帝の皇女二人まで反逆罪で投獄された。他にどれほどの血が流れたか、推し量ることは容易だ。  政略結婚に次ぐ結婚で地位に就き、それを固めてきた皇帝には、二十人の妻がいる。これからも、帝国とつながりを求める大貴族や従属する国々から年頃の娘たちが後宮へやってくるだろう。  皇帝にとって、結婚も、子作りも、性交も、単なる政治でしかない。 「出されるものをただ召し上がられるだけか」  休憩室で書面を用意していたジグルトの頭の上で、同じ第一書記官のヴァントの声がした。  ペンを片手に集中していたジグルトは、自分のすぐそばまでヴァントが来ていることに気づかなかった。座ったまま、顔を上げる。 「雑食な方で何よりだな」  書記官は第一、第二、第三までいるが、政治の中枢に入り、皇帝の補佐を行うのは第一書記官だけである。無能な貴族らをばかにしながら自分たちが政治を動かしているという自負が強いので、口が悪い。 「この春赤月に、陛下がお召し上がりになる食事の順番か、ジグルト。確か、ようやくネバル国が王女を差し出してきたな。幼すぎて調理すらできん、ということはなかったか?」  自分も相当だと思うが、こいつほど下衆ではないとジグルトは思う。 「腹を壊されぬように順番を考えるのが大変だよ」  この前の冬赤月の際、南の大国バルミラの王女が皇帝の不興を買ったことを、ジグルトは暗に()()して見せた。  ヴァントは、バルミラの大使と親しくしている。おおっぴらにはしていないが、相当の賄賂をもらっている。各国との調整役であり、大使らと親しくなるのが仕事のようなものだから、誰もそれを責めはしない。ジグルトとて、同じような金は後宮に出入りする連中から受け取っている。  特定の国と必要以上に親しくなることは、書記官としてあってはならないだけだ。  バルミラ国王女は相当の美人だがお国柄か、気が強い。皇后にやたらと張り合おうとするのが、問題になっている。  国王よりも十歳も年上の皇后はもう四十歳、後宮をまとめ上げる仕事はしているが、もう皇帝が通ってくることはない。  皇后はレスキア有数の大貴族・ランド家の令嬢である。この政略結婚によって、皇帝はランド家の後ろ盾を得てレスキア国王に押し上げられた。  閨の相手が五十歳だろうが六十歳だろうがそれが仕事である以上、皇帝は通えと言われたら通うだろうが、体型がかなり崩れてしまった皇后の方が遠慮している。  皇后は現皇太子アスキンを出産している。この皇太子は非常に皇帝に可愛がられており、皇帝には他にも別の妃らが生んだ五人の子がいるが、血統、器量から見ても、次代のレスキア国王の地位は間違いない。皇后の威光はこの先も衰えないだろう。  ジグルトは後宮の女性たちに平等に皇帝の寵が届くように配慮する仕事だが、皇后から眉をひそめられるほど、バルミラ王女が妊娠できるようにと今まで皇帝との閨を調整してきた。  国の事情が絡んでいる。バルミラ国は、昔からレスキア国と仲が悪い。レスキアの情勢が悪くなると、すぐに首を突っ込んでくる。また、レスキアとの国境周辺にある小国を常に取り合っている。その一つがネバル国だった。  そんなお国事情を、後宮の妃らも当然知っているが、自分は皇帝の寵を誰よりも受けていると豪語するバルミラ王女に我慢がならないのだろう。  ジグルトは内心、女たちの嫉妬などハイハイと受け流しておきたいところだったが、後宮事情は時に国の存亡さえ左右する。  ──女らと思ってばかにするな。時に後宮は、天候よりも激しい災害を国にもたらす。  後宮付きの第一書記官に任じられた時、宰相・ダリオンからそう忠告された。  この間の冬赤月に、図に乗りすぎたバルミラ王女に、皇帝は不快を示した。  これが蜂の巣を突いたような大騒ぎとなった。後宮の女たちは大喜びし、バルミラ王女は実家に泣きつき、大使らまで出てくる羽目になり、ジグルトはバルミラとつながりのある大臣貴族らに毎日のように囲まれることになった。出世街道でも、つくづく、女とかかわるのは嫌だと思ったものである。  ヴァントは、皇帝側は自分が何とかするから、次の春赤月でバルミラ王女と閨の仲が取り戻せるように調整しろと毎日のように言っていた。 「春赤月は、最も妊娠が可能だ。宝玉の妃様は、後宮入りして二年経つのに御子に恵まれない。この際皇子でも皇女でも、お一人でもお生まれになられたら、バルミラとの調整もこう苦労はしないだろうさ」  宝玉の妃とは、バルミラ国王女のことである。小国の姫君は宮殿内に部屋を与えられるだけだが、皇后はもちろんのこと、大国の王女らは後宮内に宮を与えられ、その殿の名前で呼ばれていた。 「しかし、今回は婚礼がある」  どの国でもそうだが、婚礼は三日間と決まっている。  夫は花嫁である妻のもとへ、三日間は連続で通わねばならない。これは途中、どれほど体調が悪くなっても、続けなければならない。一日目だけで二日目に通わなければ、持参金はもとより、結納金まで相手に巻き上げられても文句は言えない。  春赤月は最も妊娠しやすい。後宮の女たちも、期待にあふれている。  妃たちを取り巻く各国の外交官らも、ジグルトの執務室に山のように贈り物を届けてくる。おかげでジグルトは、自室ではなく、侍従らの休憩室を仮の執務室として、小さな机の上で仕事をするしかない。  今回の春赤月は、花嫁がいる。まずそちらが最優先である。そちらの婚礼が終わったあとの皇帝が通う順番を、ジグルトは考えているのだ。  この春赤月で何より大事なのは、宝玉の宮殿を安心させることだ。冬赤月から三カ月以上、ジグルトは皇帝にバルミラ国王女のもとを訪れさせなかった。皇帝の勘気ゆえではない。皇帝は妃が何を言ったところで、大して気にとめない。寛容なのではない。その程度としか思っていないのだ。単に、ジグルトが宝玉の妃に反省を促していただけである。 「……ネバルとの婚礼の次は、宝玉の宮へ行っていただくか」  ぼそりと呟いたジグルトに、ヴァントは安堵したように頷いて見せた。 「そうしたほうがいい。できたら連続でな。あちらも相当反省しているのだから」  ネバル国との閨で、女ではなく男だとわかったら、皇帝は機嫌が最悪になるだろう。 (……抱くかな)  たった一日でも、抱くか。  それとも、通うという形を取って、これで婚礼と()()せとばかりに、寝所には近づかないか。 (あの陛下が、惹香嚢持ちとはいえ、男を抱くかどうか)  知りたい、と、ジグルトは思った。  単純な、興味だ。  その興味ゆえ、ジグルトは事前に惹香嚢体であることはもちろん、王女ではなく王子だと皇帝に告げさせなかった。

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