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Ⅲ 誕生-2
フオルがまたしても、腹に触らせてほしいと頼みに来た。
普通、侍従に腹を触らせるなどありえないことだろう。だが最初が最初だったため、セナも抵抗がなくなっている。フオルに腹のことを打ち明けてから、毎日のようにフオルは腹を確かめてきた。
「ウワァ、セナ様、わかりました!? 足か手でぐいーって押してますよ! これ!」
「ああ、うん。そうみたいだな」
「痛くないんですか?」
「全然」
「強い母上だ。けど、殿下だって負けていませんよねえ。もう、母上のお腹、固いんだよ! って文句言ってますよ、これ」
フオルは声を上げて笑った。子どもが生まれることが、嬉しくてたまらないといった様子だった。
セナの方はそう楽観的でもいられなかった。フオルが王宮から医師を呼び、明らかに妊娠だろうと告げられたが、その後王宮からは何も言ってこない。
今は冬流月七日目、あと十日で春赤月に入ると思われた。積雪は急激な勢いで溶けようとしていた。土の中に水が染み込み、地中の虫らが目を覚まし、春の恵みを受け止める準備を始めている。暖かさを増してくる日差しに、木々の先端は新たな芽を宿し、大気に春の息吹をまき散らそうとしていた。
腹の膨らみは見てわかるほどになってきたが、まだまだわずかでしかない。通常の女性なら、妊娠を自覚してからふた月程度の膨らみだろう。服を着ていると全くわからないどころか、セナはまだ腰革の留め具を緩める必要さえないくらいだった。ただ、胎児の勢いだけは日に日に強くなっていた。腹の方にも、腰の方にもぐるぐる動いているのがわかる。
「元気がいいから、皇子様かも。母上としてはどちらがよろしいですか」
フオルは簡単に母上と呼ぶが、セナは慣れないどころか、不快にさえ思う。
「母上ってのは変だろう」
「どんな生物だろうが、産む方を母と呼ぶんですよ」
セナはここに至っても、まだ自分が子を産むとは想像できなかった。
腹の中にいるのは子である、ということはわかるが、それがどのように産まれるのか、頭に思い浮かべられない。
これから勝手に腹が膨らみ、気がついたら勝手に出ているのではないか。そうであって欲しい。
この子を自分が育てると、受け入れることができなかった。
変化する身体を持て余していた。自分の立場とネバル国のこれからを思えば、素直に喜び、未来に期待するのが正しいのだろうが、身体が重く感じるのと同様に、心も沈んでいた。
これは、惹香嚢が子を孕んでいるからなのだろうか。
女なら、子を宿した喜びだけを感じられるのだろうか。
使用人に呼ばれたフオルが傍から離れていき、セナは寝椅子にもたれて大きく息をついた。
腹の子は眠ったのか、先程までの激しい動きを止めている。
「へ、陛下! お待ちくださいませ!」
フオルの声に、セナは耳を疑った。
陛下? 陛下がいらしたのか?
立ち上がり、声がする扉の向こうへセナが駆け出す前に、わずかに開いていた扉が勢いよく開いた。
まだ寒い冬の外気で、皇帝の黄金の髪は湿気を帯びていた。お忍びで来たのか、略式の装いで手には馬を御するための鞭 を手にしている。馬車ではなく、自分で馬を駆けさせてきたことに内心驚きつつ、久々に目にしたその容貌に、セナの心は躍った。
「陛下……!」
以前はその存在を恐ろしいとさえ思ったというのに、子を宿し、先が読めない状態が続いたからか、安堵でセナは皇帝に縋 りつきたい気持ちが湧き上がった。
「陛下、お待ちしておりました。私は」
「……妊娠、しているのか? その腹で?」
皇帝の視線が、下を向いていた。
下腹の辺りに、怪 訝 そうな視線が向けられる。
「少しも変わっておらんではないか。あれは、どういう医師なのだ、ジグルト」
皇帝の後ろから、ジグルトが追いついてきた。
「後宮に出入りを許されている医師ですから、妊婦には慣れております。妊娠は、間違いないと思われます」
ジグルトも、顔をろくに見ず、挨拶の一言もなく、まるで動物のそれを確かめるように下腹に目を向けていた。
「しかし、医師の言うとおり、赤月にはとても生まれるとは思えませんな。小人の赤ん坊でももっと大きくなるでしょう」
いきなり部屋に入ってくるなり、無礼極まる言葉を浴びせられ、セナは茫然と立ち尽くした。
なぜこの男二人は、こんな会話をしている?
腹の中の子は、仮にも、レスキア帝国皇帝の子なのに。
「神隠月の御子です! 知らないとは言わせませんぞ! ご自分があの神隠月に何をなさったか、おわかりのはず!」
セナが何かを言う前に、怒りに満ちたフオルの声が飛んできた。
皇帝相手に、小さな身体をぶるぶると震わせ、睨み付けている。
この場で殺されても構わない意思を、身体全体で表していた。
まさか侍従がこれほど強い口調で責めてくるとは思わなかったのか、皇帝は一瞬驚いた顔をした。ジグルトの方が先に怒りを示した。
「無礼者!」
「いい、ジグルト。小人、お前に訊こう。これは夏の赤月に、発情しなかったか。抑制薬は無くなったと報告があったらしいが、夏には、飲んだのか」
淡々とした皇帝の口調に、フオルは言葉を紡ぐだけで精一杯の様子だった。
「何を、何をお疑いになります。子は、受胎の一年後に生まれてくるのですぞ。不貞があったとしたら、一目瞭然でわかります。もし不義の子であったとしたら、平気で生むと思われますか!?」
「惹香嚢の発情期が、己の意思ではどうにもならぬことぐらい、お前もわかっているだろう。惹香の匂いは全てを惑わす。どんな男でも惑わすだろう」
鋭い皇帝の目が向けられる。セナはそれを受け止めながらも、呼吸ひとつできなかった。息も、血も止まり、身体が硬く、固まっていく。
「妊娠につい最近まで気づかなかったらしいな。腹の膨らみに個人差はあれど、とても産み月近い腹とは思えん。春赤月まで残り二十日弱、それで生まれてくるとも思えんし、神隠月に生まれてくるとも思えん」
「お生まれになったらどうします。神隠月に、竜王が誕生なさる次の神隠月に、間違いなく御子がお生まれになったら、どうなさいますか!」
フオルの叫びに、皇帝は少しも顔色を変えなかった。
「その時は、余の子であると認めてもいい」
セナは、自分の足元を見つめながら、少しずつ、少しずつ身体の奥から息を吐き出した。
震える身体を、必死で抑える。
呼吸しろ。血よ、巡れ。
こんな言葉で、傷つけられるものか。
皇帝の後ろに控えていたジグルトが、一歩前に出てフオルに告げる。
「陛下がこちらにいらっしゃったのは、惹香嚢体ゆえの配慮だ。医師の報告を受けてすぐに確認をと思ったが、誰にも知られずに陛下がお忍びで来られるには、時間の調整が必要だった。本来ならば、疑いがあるだけでも幽閉されてもおかしくない。陛下自ら、確かめに来られたというのになんという態度だ」
「……陛下も、私の身体を、淫売と思われるのですか」
我ながら、落ち着いた、はっきりした声音が出たと、セナは頭の片隅でそう思った。
だが、セナの理性は、そこまでだった。
──淫売。
兄の王太子らにも、言われていた言葉だ。
他の連中からも、視線の裏側に含まれていた言葉だ。男も女も狂わせる、惹香を発する身体。
獣を従わせ、発情させ、意のままに操る匂い。
「……あなたが、この身体を求めたんじゃないのか」
獣になって。狂ったように求めたのは、どこのどいつだ。
惑わす者が悪いとでも言うのか。
「ふざけるな……!」
ふと、セナの脳裏に、闇夜でも光り輝いていた瞳がよみがえった。
神隠月での交わりのさなか、煌めいていた皇帝の瞳。
どんな水色をしているのか、ちゃんと見たいと願ったことを思い出した。
日差しが部屋の中を照らしている。ちゃんと見つめれば、その色がわかる。
屈辱の底から、哀しみのような感情が湧き上がってくる。だがセナはそれを振り払うかのように、叫んだ。
「あなたが孕ませたんだろう! 欲したのは誰だ! 人の身体に種を植え付けて、人の身体を変えておいて、認めてやってもいいだと!?」
惹香嚢持ちの身体なんぞに。
誰が、生まれてきたかったものか。
男としての生を全うできず、男を受け入れ、子を孕むなど。
そんな人生など、今すぐ捨ててしまいたい。
「セナ様っ……」
振り払った哀しみに気づいてくれたのか、呼びかけてくるフオルの語尾が震えていた。
セナは自分を止めることができなかった。
もはや哀しみはなかった。激しく何度も突き上げてくる怒りとともに、涙でかすむ皇帝を見据え、叫んだ。
「不貞を疑うのなら、今すぐ私の身体を子どもごと、その剣で貫くがいい。私の首をはね、ネバルに送りつけるがいい! 硬直状態の国との関係も、それでどうにかなろう。早く、殺すがよかろう!」
目の前が赤く染まる。
なぜなのか、セナにはわからなかった。激しい怒りゆえか、頭がどうにかしてしまったのか。
まっすぐに見据えているはずなのに、皇帝の瞳の色はわからなかった。
目の前のレスキア皇帝は、動かなかった。
だが、鋭く人を射貫いてくるその瞳は、獅子のそれだった。
百獣の王の、大国の皇帝そのものの瞳だった。
* ・*・ *
春赤月の訪れは、全てを新しく変える。
全ての生物が家庭を持ち、母親になり、父親になり、命が芽生え、そして誕生する。
春の陽光が降り注ぐ中、花嫁の喜びの笑い声と赤ん坊の生まれる声が、柔らかな日差しに包まれる空に響く季節だ。
町から遠く離れた離宮にあっても、その気配が感じられるようだった。
セナは、雲がけぶるように広がる空を眺めた。
レスキアに来て、一年を迎えていた。
「荷物が届きましたよ。お生まれになる赤さまの産着を頼んでいたのですが、王宮、無視! です」
フオルが寝椅子に寄りかかるセナの腹に毛布を重ねる。春赤月に入り、セナの腹は、急激にせせり出てきた。あまりの急な変化に、セナは腰が痛むようになった。
「このお腹を陛下がご覧になっていれば、少しは違ったんでしょうけど」
「いいよ。もう」
本当に、セナにはどうでもよかった。
あれだけのことを言ったのだ。今更許されるとは思っていない。
「荷物を届けに来た従者に聞いたのですが、皇太子殿下はこの春赤月に、北のネスタニア国の姫君とご婚約されたらしいですよ」
「へえ」
北のネスタニアは、四大国の一つであり、レスキアに次いで力のある国である。
「幼いので、形式だけらしいですけどね。皇太子殿下はまだ後宮を持ちたくないと拒否なさったらしいですよ。なんでも勉強がお好きで、学都に留学なさりたいんだとか」
「学都?」
いくらなんでも皇太子が留学とはありえないだろうとセナは驚いた。
「陛下はお許しになるかもしれないとかで」
「まさか」
「さすがにあの方も、跡継ぎには弱いらしいです」
羨ましいことだとセナは素直に思った。
自業自得とはいえ、自分の子とは、雲泥の差である。
セナ自身、父王には好かれてはいなかったが、我が子ほどではあるまいと自嘲した。
生まれてきても祝福など誰からもされまい。誕生後、どうなるかもわからない。
これからの未来など何も見えない。
そこまで考えてセナは、いつものように寝椅子の傍に椅子を置き、そこに座りながらセナの足をさするフオルを眺めた。
足のだるさを一度セナが訴えたところ、毛布の上から頻繁にもんでくれるようになった。その手を見つめ、セナは告げた。
「……すまないな、フオル。俺のせいで、散々な目に遭わせて」
「いやあ、散々ってほどじゃないですよ」
「ここから逃げることは不可能だろうが、機会があったら、お前だけでも何とか国に戻すようにするから」
「セナ様」
フオルは苦笑しながら首を振った。
「私はもう、どこにもいけませんよ。あなた様の初夜に立ち会ったあの時から、覚悟はできております。生きるも死ぬも、あなた様とご一緒するしかない」
「しかしフオル、お前にだって、望む夢はあっただろう?」
王宮から毎回書物を取り寄せて学んでいる。
頭のよい侍従である。体格に恵まれない小人族は、侍従としての職を得ても軽んじて見られ、雑用に甘んじることが多い。だが、中には才を発揮して出世した者もいる。そうなりたいと切 磋 琢 磨 してきたに違いないのだ。
「そりゃあ、ありました。ネバル宰相だったウルド様は、私を認めてくださいましたしね。最初、私はあなた様に、無理やり同行するように命じられたように話しましたが、断ることだってできたんです。もう二度と、ネバルには戻れない。それでもいいのかとウルド様は念を押してくださいました。行く、と私が決めたんです」
レスキアとの友好派だったウルドは、今は宰相としての地位を追われ、蟄居中だと聞いていた。思い巡らしているのか、しばしフオルは黙った。
「ここであなた様が皇帝の寵を受け、子を身ごもれば、私がネバルに発言する立場になれるかもしれない。ネバルとは雲泥の差の、レスキアの文化にも触れてみたかった。欲は、たくさんありました」
「だが結果、こんな有様だ。何度もお前は忠告してくれたのに」
腹の上に置かれたセナの手を、フオルは握りしめてきた。
「セナ様、大丈夫ですよ。いろいろご不安でしょうが、大丈夫ですから心配しないでください」
セナがフオルの顔を見つめると、フオルは安心させるように微笑んだ。
「私は、人間と小人族の間に生まれましたが、父が死に、人間の母が獣人族と再婚しました。義父の連れ子である兄らは、皆獣人。クソのような奴らでしたよ。体格もよく力があるがゆえに、腕力で虐げることしかできない頭空っぽのばかばかり。私は獣人が大嫌いでした。今だって大嫌いです」
それで獣人の特性にやたらと詳しいのかとセナは合点した。
「再婚した母が妊娠したのは、神隠月でした。獣人族らはほとんどが赤月に生まれてきます。発情に忠実ですから当然なんですけどね。だから、母が神隠月に妊娠したとき、養父は忌み子だと罵りました。ええ、あの時の皇帝そっくりの顔でね。ふざけんじゃねえってね。孕ませたのはてめえだろうって、セナ様、その通りですよ」
手を握りしめてくるフオルの力が強くなる。セナは自分よりはるかに小さなその手を見つめた。
「皆が冷たい目で、誰も母の出産を喜ばない中、月が消えた神隠月の夜に、私の弟は生まれました。小さな耳がついてましてね。ああ、獣人だな、と思いましたけど、可愛くて可愛くて仕方ありませんでした。セナ様、赤ん坊は、可愛いんです。可愛く、生まれてくるんですよ。望まれずに生まれてきたって、親が、周りが、愛情をちゃんと持てるように、赤ん坊ってのは、可愛く生まれてくるんですよ」
だから大丈夫だ。
そう告げるフオルの顔は、くしゃくしゃになっていた。
「今は、可愛いと思えなくても、きっと、可愛いと思えるから大丈夫です。生んでからもやっぱりそう思えなくても、私がちゃんと育てるから大丈夫です。弟は一歳にならないうちに死んでしまいましたが、母が産後の肥立ちが悪かったので、私が何から何まで面倒を見たんです。赤ん坊の扱いは覚えていますから、大丈夫です」
セナにはもう、フオルの顔を見ることができなかった。手を握りしめてくるフオルの手の上に、嗚 咽 を漏らしながら、突っ伏すことしかできなかった。
「セナ様、神隠月の子だって、赤さまはちゃんと生まれます。ちゃんと育ちます。育てましょう。誰が何と言ったって、私とセナ様だけは、赤さまを愛してさしあげましょう。この世に生まれてきてくれて良かったってね、思えます。きっと、思えますとも」
こんな情けない、親としての自覚など持てない未熟な人間でも、子は親を選べずに産まれてくる。
弱くてすまない──と、己への嫌悪にさいなまれる。
それでもいいと、フオルは言ってくれる。
生まれてくる子は、少なくとも一人からの祝福は、約束されている。
それに縋ろう。
それを、産む力にしよう。
どんなことが待ち受けているかわからない。
生まれてくる子がどんな子かもわからない。
それでも確実に、祝福を受けられるのであれば、命を生み出す意味はある。
一年前と同じように、十五日間の春赤月の次は、わずか九日間の春白月で終わった。
そして世界は、月のない夜へと入った。
一年前に死んだ竜王から分卵された新たな竜王の卵が、孵化しようとしている。
世界は、神の誕生を、沈黙とともに待っている。
不気味な静けさが世界を覆う中、セナの分 娩 は、微弱な陣痛から始まった。
腹の大きさは、結局普通の妊婦の半分ほども膨らまなかった。
あれから医師は診察にも来ないので、胎児がどれほどの大きさになっているのかもわからなかった。
少しずつ、少しずつ陣痛は強くなっていったが、三日、この微弱な陣痛が続いた。
四日目にしてかなり苦しい痛みが長い間続くようになり、五日目には食事も、陣痛の間に少しの仮眠もとることができないほど、長く強い痛みが襲った。
セナは陣痛が始まってから寝台に横になっていたが、上体を少し上げ身体を横にしたほうが楽だったため、五日目からはずっと寝椅子の上で過ごした。そしてフオルも、セナが眠れなくなってからは一睡もせず、腰をさすったりセナに水分を補給させたりしていた。
神隠月七日目。
セナは寝椅子の上で身体を横向きにし、毛布を抱きかかえるようにして痛みに耐えていた。
「王宮から医師は!? また催促して!」
セナの横で、フオルは何度も同じ事を繰り返していた。フオルはセナが身をよじらせるたびに寝椅子から落ちそうになるため、必死に身体を支えていた。
普段は寡黙な使用人の妻が、足の方に回り、夫にあれこれ怒鳴るように指示をしているのがわかった。
もう五十を越える使用人の妻は、六人の子持ちであり、娘の出産に三回立ち会った経験があるそうだ。一度は産婆が間に合わず自分で取り上げたと話していた。
「お方様、呼吸を止めてはいけません。苦しくとも、息を吸って、吐くんです。赤さまの呼吸が止まってしまいます」
そんなことを言われても、身体が勝手に異物を出そうと力が入ってしまう。結果、息が止まってしまう。
ずっと横に向けていた身体を、あおむけにする。フオルが寝椅子と背中の間に毛布を押し込み、上半身を支える。セナは寝椅子の背もたれを握りしめ、唸り声をあげた。
生まれ出てこようとする我が子の状態を気にかける余裕もなかった。
早く。早く出てきてくれ。
この状態から解放させてくれ。
それしか願わなかった。
「セナ様! セナ様、しっかり!」
ああ、お前。
必死に出てこようとしているのか。
それとも出たくないと駄々をこねているのか。
頼むから出てきてくれ。もう母を解放してくれ。
ああ、そうだ。俺が、お前の母親だ。
何からだって守ってやる。懸命に、愛してやる。
だから──。
ずるりと何かが下がった感触がした。
硬直した力が、一気に抜ける。
赤子が出たことがわかったが、泣き声は、聞こえなかった。
「フ、フオル」
不安と焦燥で、泣き声のような声が出る。
だが、そんな母親の心を吹き飛ばすような産声が、突然響き渡った。
「……皇子様です」
身体を軽く拭かれただけの状態で、赤子は顔の横に差し出された。
顔と身体を真っ赤にして、声を振り絞っている。
臍 の緒は軽く結ばれていたが、その下に、瘤 があった。
産まれた赤ん坊の、拳ほどの大きさのそれが、何なのかセナは知っていた。
だがそれを見ても、セナには、安 堵 感しかなかった。
安堵の次に胸の内に広がったのは、幸福な、愛おしさしかなかった。
「……良かった……元気だ」
「はい。お元気ですね」
フオルは赤ん坊のように顔をしわくちゃにして、すすり泣きながら言った。
使用人の妻は、わざわざセナの見えるところで、赤ん坊を優しく湯に入れて洗ってくれた。
腹がそんなに膨らまなかったこともあり、予想通り赤ん坊は通常の赤子の大きさよりずっと小さい。しかし元気に手足をばたつかせる赤子を見つめて、セナは思わず笑った。
「元気だなあ。あれだけ手足を動かしていたら、そりゃあ腹を蹴飛ばすわけだ」
「それにしては母上様は、なかなか妊娠に気づきませんでしたけどねえ」
冗談を言い合いながらも、互いにぼろぼろと涙がこぼれるのを止められなかった。
セナはフオルと二人、身体を寄せ合わせあい、声を上げて笑った。
腹にしっかりと、惹香嚢の存在を示した赤子を見つめながら、幸福感に包まれていた。
同時期、世界は新たな神の誕生に沸いた。
無事に竜王が孵化し、この世の存続は約束された。
……そして、これより始まる。
●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・●・○・
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