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Ⅲ 誕生-1

 レスキア帝国の帝都・ギドゥオンより馬車を走らせること一刻(一時間)ほどの場所に、タレスの森と言われる静養地がある。  三代前のレスキア皇后が病にかかったため、当時の皇帝が作らせた宮である。非常に小さい宮なので、静養地としても代々の皇帝や皇后が用いるのは好み次第だった。 「なんだ、聞いていた話よりも、大きいではありませんか!」  小さいという感覚は、レスキアとネバルではかなりの差があるらしい。  緋宮の二間しか用いられなかった空間の、十倍以上の広さだった。部屋の一つ一つが広く、部屋も応接室、読書室、食事部屋、と用途ごとに分けられている。  白と緑を基調とした美しい宮だった。少し離れた場所に、使用人の棟と(きゅう)(しゃ)まで建てられている。  いつ使用されるかわからぬからだろう。敷き詰められた芝生も、噴水の周囲も綺麗に掃除されており、薄汚れたところはどこにもなかった。  整えられた部屋の調度品ひとつ比べても、ネバル国王の部屋よりも(ごう)(しゃ)である。馬小屋のような場所に連れて行かれると思っていたフオルは狂喜しているが、セナは逆に落ち着かなくなった。  遊びで用いるような離宮一つに、これだけの金をかけられる母国との圧倒的な差に、セナの不安は募るばかりだった。  タレスの離宮に移される直前、ネバル国の大使・コーサが、緋宮を訪れることを許された。  レスキア入りしてから初めての母国の者との謁見である。セナは緊張を隠せなかった。緋宮の一室に大使が入ってきたときには、思わず立ち上がり近くに寄ることを許した。  仮にも皇帝の妻と他の男を二人きりになどさせられず、慣例に従って後宮侍従が部屋の入り口に立っている。同様にフオルも入り口付近で控えていた。  セナは山ほどあった質問を矢継ぎ早に訊いたが、どれも目の前が暗くなる話ばかりだった。 「国王様は伏せられてから症状が悪くなる一方で、王太子様が摂政として政務を執られるようになってすぐ、宰相・ウルド殿は更迭されました。今はご自分の別荘で(ちっ)(きょ)なされているとのことですが、おそらくは幽閉でございましょう。大臣らも王太子様の考え方に同調し、次々とバルミラ派に傾きました。私も宰相と同じく、レスキアとの関係を重視する派です。国に帰れば同じ目に遭うかもしれません」  この程度のことは、とっくにレスキアも知っているからだろう。レスキアの侍従の前だが、コーサは隠す様子もなくセナの質問に答えていった。  こんなに母国の情勢が変わっている現状を知り、セナは混乱するしかなかった。  次兄の王太子がバルミラ側にすり寄っていたことを、セナは初めて知った。  王太子はウルドを煙たがっていたが、父王の右腕として長年ネバルに身を捧げてきたその忠誠心や政治力は評価していると思っていたのである。まさか更迭という処置をとるとは、セナは兄の愚かさに眩暈がした。病床の父は知っているのだろうか。知ったとしたら、どれほど衝撃を受けるだろう。  亡くなった長兄と違い、父王に何も言えず王としての才覚もないと次兄は思われてきた。それに対する不満があったのだろうか。父王が弱ったのを機に、その鬱憤を晴らしたくなったのだろうか。 「皇帝陛下より、セナ王子をいったんは離宮へ移すが、それはこちらに宮を建てるための処置であり、ネバルの忠義は認めるとのお言葉を賜ることができました。セナ様の妃の位は守られたと国に急ぎ報告しましたが、王太子様から、レスキアに忠誠を誓うというお言葉を聞くことはできませんでした……」  おそらくコーサは、セナが後宮入りし、初夜が成された時から必死に働きかけていたのだろう。バルミラに向けようとするネバルの目をレスキアに戻すために、大声で宮の建立を、妃の称号を訴えていたに違いない。緋宮の奥に押し込められて現状を知らなかったとはいえ、何もできなかった自分をセナは責めた。 「すまん、大使。私がもう少し動けていたら……」  今までは母国に手紙を出すことすら許されていなかったが、大使との謁見が許された今なら可能だろうか。  だが、兄が自分からの手紙など読んでくれるかどうかはわからなかった。死んだ長兄からは邪険にされたことはなかったが、次兄は常に侮蔑の視線を向けてきた。弟と思ったことなど一度もあるまい。 「いいえ、王子。後宮からは何もできないことはわかっております。だからこそ動くのは私の仕事なのです。せめてあと数カ月、国王陛下の身体が保たれていたら……。しかし、嘆いていても仕方ありません」  コーサは疲労で(くぼ)んだ目に力を戻し、セナを見据えてきた。 「レスキアはまだ、ネバルを信じております。それはひとえに、あなた様がここに嫁がれたからです。もし後宮入りしていなかったら、兵を向けられていてもおかしくありませんでした。まだ、まだ間に合います、セナ王子。私は長くレスキアとの外交を担ってきましたのでレスキア派と言われておりますが、何より大事なのは母国。バルミラに従属すれば、必ずやネバルは死に絶えます」  セナは王族として各国の情勢を教えられて育ったが、正直レスキアに対し、傾倒はおろか、さほどその関係を重要視していなかった。  これはセナだけでなく全てのネバル国民、ネバル国王でさえ同じ考え方だった。  ネバル国最大の輸出品は金である。  所有する金山が、文字通り宝の山だった。金は最も手間がかからず鋳造することが可能なため、古来よりネバルは金の採掘で財を成した。  レスキアの従属国となってから、ネバルは大量の金を捧げてきた。それに対して不満を募らせる一派は常に絶えなかった。  ──レスキアに金が流れなければ、国庫が潤い発展できるのに、レスキアはそれを許さない。  ──レスキアに従属するべきではない。また、バルミラに従えばいいのだ。  そんな声が一部では絶えない。  バルミラはネバルと同じように金が豊富で宝石の採掘場もあり、レスキアほど金を巻き上げてこない。  では何を求めるか──土地である。 「絶対にこれ以上土地を渡してはなりません。ここ数年続く(かん)(ばつ)の影響で、バルミラの農耕地は徐々に少なくなっている。オアシスも減少し、人が住まう場所さえ失われているのです。再度ネバルがバルミラに従属を許せば、我が国最大のオアシスと農耕地が奪われます。生産力を失っては、国は確実に絶えるのです。金をいくら要求しても、レスキアは土地と人間だけは奪いません。レスキアを裏切りバルミラと手を組めば、必ずやバルミラは我々を浸食します」  これがレスキア派の考え方だった。  同じ砂漠国だが、ネバルに比べてバルミラは砂漠化がかなり進んでいるらしい。  そういっても、セナには実感できなかった。目の前の金をざっくりと奪われる方が腹立たしいに決まっている。こうして装飾豊かな王宮を見ると、ここにどれほど巻き上げられたネバルの金が使われているのかと想像し、不快になる。  どんな資源も無限ではない。国を発展させたくとも、献上する金の量が多すぎて国庫に回せない現実があった。  ──レスキアはそうやって、いつまでも南を栄えさせないようにしている。  そんな声が民からは聞こえてきたし、王族もそう思ってきた。 「王子。お若いあなた様にはおわかりにはならないかもしれませんが、国とは、農地と人を失っては生きることはできません。レスキアが発展したのはまず、水と緑があったからです。私と宰相は父王様に、レスキアを裏切れば国は滅びると再三申し上げて参りました。父王様は、金の量を年々増やされる屈辱に耐え、それを守ってこられました。しかしもう、私と宰相では策が尽きました。あとは、ネバルがレスキアと繋がっていられるのは、あなた様の存在のみでございます」  コーサは、最後にどうか、と祈るように頭を下げた。 「レスキアの王宮に無事戻られて、御子を、授かりますように」  父王と宰相に見捨てられる形で嫁がされたと思っていたが、父王は父王で、老いた身体を酷使しながら、この婚礼に賭けていたのかもしれない。  一国の王子として生まれた以上、それが国のためになるのなら、どんな状況だろうが甘んじて受けるのが当然だった。不満を漏らした自分を、愚か者と罵った父王の気持ちが、今ならわかる。  自分にはまだ、やれることがあるはずだ。  こうして離宮へと移されてきたが、王宮に戻れると大使は言った。ジグルトからは何も言われなかったが、まだ、ネバルのために生きることができる。  戻ったところで皇帝の寵を得られるとは思えない。ただ、少しでも良い関係を築きたいとセナは心から願った。 「えー、私はここでずっと過ごせるならここの方がいいです」  フオルは豪奢な部屋にすっかり機嫌を良くしている。 「王宮は、何が起こるかわからないから、気が落ち着きませんし」 「そんなことを言ったら、ここだって何が起こるかなんてわからないんだぞ」 「まあそうですね。けど、私はちょっと安心しています。総合的に見て陛下は、決してセナ様を悪く思っていませんよ」 「本当に? ど、どうしてそう思った?」  思わず前のめりになったセナは、フオルのおや、という表情に顔を赤らめた。 「陛下を慕わしく思われるのは、良いことですよ、セナ様」  もう二度と獣人化したくないであろう皇帝は、赤月には自分のもとを訪れないだろう。  子に、恵まれることはないかもしれない。ただ少しでも、心を通わせてみたい。  国への責務からそう思うのか、それとも神隠月に肌を合わせたことで、自分の中の何かが変化したのか。  闇夜でしか見たことがない皇帝の顔を、陽の光の下で見てみたい。  闇の中でも光り輝いていたあの瞳が、どんな色をしているのか、確かめたい。  恒久の空の色か、それとも恵み溢れる水の色か。  セナはその想像に、胸を膨らませた。  長く伸びた夕日の影が、夏の終わりを告げる。  厩舎に馬を戻したセナは、帝都ギドゥオンからの荷物が運び込まれるのを目にした。  タレスの離宮にいる使用人は、長年この場所の管理を任されている老夫婦二人だけだ。彼らが食事や身の回りの世話を行い、馬の世話や庭の管理は、外部から人が入ってくる。  離宮にも一応衛兵が交替でやってくるが、警備が緩いのはセナの目から見てもわかる。外部からの侵入者を警戒するより、監視のための配置だろう。  侍従のフオルが嬉々として荷物を確かめている。ほとんどが、フオルが注文した書物だった。  セナは必要以外の書物を好んでは読まない。教養は一通り身につけさせられたが、どちらかといえば身体を動かす方が好きだった。ネバルにいた頃は、一日中馬を走らせても飽きなかったくらいである。だが、今は森と庭を軽く走ることしかできない。 「多分王宮では、俺が注文したと思っているんだろうなあ」 「でしょうね。律儀に送ってきますから。『勉強好きの妃様でっ! スバラシイですなっ!』って、思われているのでは? まさか顔を真っ黒にして馬で駆けたり剣を振り回したりしているなんて、誰も想像もしてませんよ」  セナは焼けた顔を手のひらで撫でた。  小さな身体のフオルに代わって、セナはフオルの部屋に本を運び入れた。 「王宮からの連絡は?」 「何もないですねえ。宮の建立がどこまで進んでいるかもわかりません。まあ、竜王が薨去なされたばかりですし、新たなことは慎めとお達しが出ているさなかです。なかなか進まないかもしれませんね。……あっ!」 「どうした?」  フオルが荷物を再度確かめる。届けられた食材や衣類をひっくり返し、そのうち唇を突き出した。 「入ってない~。あれほど言ったのに!」 「何が」 「分泌抑制薬です。夏赤月で飲んで、なくなったじゃないですか。あれから再三、王宮には送るようにと言っておいたのに!」  夏赤月を最後に、セナがネバルを発つ時に用意した分泌抑制剤はきれてしまっていた。  今日で夏流月の十七日目、明日には月が赤く変わっていてもおかしくない。  竜王が薨去したからといって、夜が一年先まで闇に包まれる訳ではなかった。七日間の神隠月以降、また月の暦は元に戻った。一年後、新たな竜王が孵化するとともにまた月が隠れる七日間が現れるらしい。 「多分、ないんだろうな。分泌抑制薬なんて調合できる薬師が見つからないんだろう。獣人の発情抑制薬とは、厳密には扱う薬草も調合も違うらしいから」 「まあ、獣人にも効きましたけどね。効きは、弱かったかもしれませんが」  緋宮でのことを思いだし、二人で目配せし合う。 「レスキアは惹香嚢持ちが珍しいですからね。セナ様の薬は、ネバル王宮の薬師が調合を?」 「いや、俺の乳母夫が獣人族だったんだ。兵士だが薬に詳しくて、傷病担当になっていたらしい」 「ああ、ジド……とかいう御方ですか。へえ、あの方獣人族で? 確か、五十歳くらいの容貌ではなかったですか?」 「そうだよ」 「ずいぶん長生きですよね。獣人族は、四十過ぎると寿命が来るのに」  そういえばジドは長生きだと、セナはいまさら気がついた。 「薬に詳しかったからかなあ」 「そんなんで長生きします?」 「でも、妙な知識を知っていたよ。俺がレスキアに嫁入りする時、もし万が一、子どもを産むことになったら、その胎盤を食べなさいと言われたんだ」 「はああ!?」  フオルは思い切り顔をしかめて身を引いた。 「何ですか、それ!?」 「身体の回復にいいらしい」 「古い獣人族の考え方なんですかねえ? 聞いたことないけど」 「さあ。だが、ジドは薬師に直接教わった時期があるらしく、幼い頃から俺の分泌抑制薬はジドが作ってくれたよ。多めに持たせてくれたんだが……」 「申し訳ないですが先の春赤月の騒動で、かなりの量を服用してしまいましたから。袋ごと渡してしまいましたし」  破棄してしまったものもある。そう言いながらフオルは肩をすくめた。皇帝はおそらく性欲をなんとか抑えるために、めちゃくちゃな飲み方をしたのだろう。 「とにかく、再度お願いしなくては。七日間しかセナ様の発情はないとわかりましたが、明日には赤月がやってくるかもしれないので」  フオルは毎日のように、手紙を王宮に向けてしたためた。  だが、王宮からは抑制薬が届くことはなかった。 「陛下に、お手紙をしたためては?」  フオルはそう言うが、手紙を書いたところで無事届くとは思えない。 「陛下に届く前に開封されて、ジグルトや宰相らの物笑いの種になるかもしれないじゃないか。おかげさまで快適です、なんて書いたら嫌味にしか聞こえないぞ」 「もう! そんなこと言っている場合ですか。(こび)が大事なんですよ、セナ様。どんな高慢ちきな姫様でも、皇帝陛下には媚びるしかないんです。可愛げがない妃様は捨てられて当然ですよ」 「……だったらあの発情をガマンしたほうがマシだ」 「厄介ですね、王族の方ってのは。じゃあお好きになさい。私は知りませんよ」  フオルに呆れた目を向けられ、セナは意地になっていた。一人で部屋に閉じこもればいいのだろう、来るなら来い、と構えていたが、秋赤月に入っても発情は起こらなかった。  空に浮かぶ赤い月に内心おびえていたが、いつまで経っても発情期がやってこない。秋赤月七日目には部屋から出て、フオルと外で茶を飲みながら首を傾げあった。 「神隠月があったりしたから、狂っているのかな」 「そうかもしれませんねえ」  そうしているうちにとうとう秋赤月は終わりに近づいていった。  セナが分泌抑制薬を飲まなかったのは、春赤月での皇帝との初夜のみで、それ以外はちゃんと服用していた。  飲まなかった時の状態はどうなるのか、春赤月の状態でわかっている。  だがこの秋赤月は、分泌抑制薬を服用せずとも、少しも発情しなかった。 「この間の春赤月の発情が、たまたまだったんだろうか?」  最も分泌し、発情が促されるのが春赤月である。もしかしたらあんな狂った状態に陥るのは、春赤月だけなのかもしれない。  セナはそう結論づけたが、フオルはしばし考え込んで書物をひっくり返し始めた。  そうこうするうちに秋も深まり、緑は見事な赤に変化していった。  庭の景色が一日一日に変わるのを、セナは毎日驚嘆しながら見つめた。風景というものは、色が変わるだけでここまで様相を変えるのか。焦る心を幾度となく鎮めてくれた緑の色は、心を浮き足立たせる妖艶な赤や黄色となり、セナは、日に幾度となく窓の外を眺めた。 「美しいなあ、フオル。砂漠には、秋に紅葉する木々は少ないから。緑も見事だと思ったが、秋がこんなに美しいなんて」 「はあ、あぁ、そうですね」  窓辺に座るセナの足元で本を広げながら、どうでもいいようにフオルは返した。美的なことに関してはまるで興味がないらしい。 「セナ様、もしかしたら、妊娠したかもしれませんよ」 「……はあ?」  いきなりそんな言葉をフオルが投げてきた時、セナはとっさに反応できなかった。 「惹香嚢に関しては書物が極端に少ないのでなんとも言えませんが、もともと性欲を促す惹香が分泌を止めたというのなら、その一番の理由は妊娠じゃないかと思うんです」  まだ期待をしていたのかと、セナは困って視線をそらした。 「フオル。あの赤月から何カ月経ったと思っているんだ。もう、冬赤月が訪れようとしているんだぞ」 「お腹、膨らんでません?」  セナは無言で服の留め具を外し、中の下着までたくし上げて素肌を晒して見せた。 「……こりゃまた見事な筋肉で……」 「乗馬と剣の鍛錬しかやることがなかったから、今まで以上に腹が固くなったな」 「どうやっても膨らみようがないくらいかちこちですね。私のほうがぽっこりしてます」  女の生理がもともとない身体のため、妊娠しているかどうかなどわかるわけがないが、この腹を見る限りそれはありえないだろうとフオルも納得してくれたようだった。  フオルはなんだかんだ言いながら王宮にずっと分泌抑制薬を要求していたが、それからは王宮に向けて分泌抑制薬をよこせとしたためることはしなかった。  ネバルよりもはるかに寒い冬が訪れようとしていた。薪を、毛皮を早くよこせと騒ぐことはあっても、届けられる荷の中に分泌抑制薬が入っているかどうか、フオルが確認することもなかった。  そしてその年最後の赤月も、セナは分泌抑制薬を服用することなく終えた。  続く冬白月に、セナは明らかに、自分の身体の異常を感じ取った。  腹の中で、何かが動くのである。  最初は腹の調子がおかしいのだろうと思っていた。寒い冬の訪れに、身体が弱っているのかもしれない、と。  だがその動きがどうもおかしい。  フオルが妊娠、という言葉を持ち出していなかったら、セナは気にとめなかったかもしれない。  なぜなら、腹が少しも膨らんでいないのだ。平らな下腹に何も変化はない。  余計なことを言って、フオルに期待をさせてしまうのも心苦しい。セナは、内側の臓器が動くのをはっきりと感じながら、口を閉ざしていた。  毎日毎日腹を眺めていたが、一向に変化はないように思われた。  寒い冬の夜に大きな月が浮かぶ冬宵月、フオルは初めての積雪にうんざりし、一歩も外に出ず動くのも困難なほどに着込んでいた。 「セナ様は雪に喜んで、外で遊ぶのかと思っていましたよ」  人を犬みたいに、と思ったが、セナはここしばらく気分が塞いでいたので無言のまま、毛布をかけて寝椅子に横になっていた。セナのそばに椅子を持ってきて読書をしていたフオルが、セナの反応がないので本から顔を上げる。 「どうしました、セナ様。気分が悪いですか?」 「フオル」 「はい?」  何度も迷ったが、セナはフオルの手を摑み、自分の下腹にそっと当てた。  腹の動きに、フオルは仰天して身体を反らし、椅子から落ちそうになった。 「セ、セナ様!」 「これは、何なのか、わからないんだ」 「み、見せてください!」  セナの毛布の中にもぐりこんで、フオルはしばしじっとしていた。  腹の中でかなり大きな動きがあったと思ったら、フオルは声を上げて毛布から飛び出してきた。 「は、腹が、今、ぐぐぐっと動きましたよ!」 「でも、腹は少しも膨らんでいないだろう?」 「けど明らかにこれは御子がいらっしゃいます! なぜ教えてくださらなかったんですか!」 「だって、膨らんでいないじゃないか」  妊娠したとしたら春赤月である。  今は冬宵月、あと出産まで三十日たらずしかない腹とは、とても思えない。 「卵で産まれてくるわけじゃあるまいし、惹香嚢体だからといって、握り拳以下の人間を産むわけないだろう。小人族だって、出産の時にこんなに小さく産まれまい。腹が動くだけで、少しも外見は変わっていない」 「腹の大きさなど、人それぞれですよ! それにセナ様、三十日ではありませんよ。ご出産まであと、六十日以上はあるはずです!」 「は?」  フオルの言葉に、今度こそセナは首を傾げた。 「いや、時差があったとしても、次の春赤月までは三十数日……」 「神隠月の御子です!」  興奮状態のフオルは、怒っているのか喜んでいるのか判別がつかなかった。  ただ、顔を真っ赤にして、必死で訴えてきた。 「あの、神隠月の時に身ごもられた御子です! 腹が膨らむのはこれからの可能性がある。もともとセナ様のお腹は筋肉でかちこちなんですから、そう簡単にせせり出るはずないんです!!」 「フオル……フオル、ちょっと落ち着けって」  セナは身体を起こし、フオルの肩をなだめるように叩いた。 「神隠月に、人が生まれるわけがないだろう。神隠月に生まれるのは竜王だけだ。全ての生物が繁殖も誕生もしないというのは言い過ぎだろうが、人間は、闇の七日間には生まれない」 「生まれます! 明らかにされていないだけです。闇の七日間に生まれたら体裁が悪いから、隠しているだけです。早世しましたが、私の弟は神隠月に生まれました!」  フオルの必死の訴えに、セナは言葉を失った。 「生まれます。神隠月に、御子がお生まれになります。やはり、惹香嚢が分泌を止めたのは、惹香嚢が、御子を育む器官に変わったからなんです! セナ様、春の神隠月に、竜王ご生誕と同時期に、御子がお生まれになります!」       ◆・◆・◆  タレスの離宮から至急医師を派遣して欲しいと要請があった時、ジグルトはさほど気にとめなかった。  雪が降らないネバルから来た王子にとって、初めての厳しい冬である。風邪をひいてもおかしくなかったが、医師を向かわせたのは、冬宵月の終わりにさしかかった頃だった。  だが離宮から戻ってきた医師が報告した内容には、耳を疑った。 「……間違いなく妊娠なさっておられます」  医師の様子は明らかに困惑していた。言い出して良いものかどうか、迷っている様子である。 「……どうした? はっきり申せ」 「胎動から、妊娠中期以降であることは間違いありません。ただ、お腹があまり目立ってらっしゃらないのです。男性体ですし、惹香嚢の位置も、女性の子宮とはわずかに違うでしょう。なので本来なら、子宮が下がる位置を計ることで胎児の大きさや妊娠周期を予想するのですが、これが読めないのです」  ジグルトは無言で医師を見つめた。医師は言いにくそうにしていたが、はっきりと口にした。 「春赤月には、お生まれにはなりません」  後宮内の妃らの診療も行っている医師には、後宮内の事情もある程度伝えられている。  ネバル国の王子が、皇帝と閨を持ったのは春赤月のみ、続く春白月には皇帝は別の妃らのもとを訪れており、神隠月以降は離宮へ移されたと知っている。  ジグルトはしばし思案した。  これは、皇帝への報告の前にタレスの離宮を探ったほうがいいのだろうか。  王宮から離れた場所にいるとはいえ、ネバル王子の管轄は後宮であり、ジグルトが管理を任されている。タレスの離宮で不貞が生じていたとしたら、ジグルトも責任を追及されるだろう。  ジグルトの頭に、ネバル王子の名を聞こうとした皇帝の表情がよぎった。  ──あれの、名は。  今まで、どんな妃の名も聞こうとしたことはなかったのに。  これを告げたら、陛下はどんな顔をなさるだろう。  責任の所在より、ジグルトは沸き上がった思いを優先した。これで、皇帝も目が覚めるに違いない。 「侍医、陛下の前でそれを申し上げろ」  ジグルトはすぐに皇帝に謁見を申し出た。皇帝は皇太子と時間を過ごしていたが、さほど待つことなく通された。  十二歳の皇太子・アスキンが、書物を胸に抱えながら皇帝の部屋から出てきた。  この長子を、皇帝は何よりも溺愛している。  皇帝が十七歳の時正式にレスキア皇太子として認められたのは、大貴族ランド家出身の令嬢と結婚し、強力な後ろ盾ができたからである。その一年後、皇帝がレスキア国王として即位したのとほぼ同時に皇后は男子を産み、生後すぐに長子は皇太子として認められた。  容貌は皇帝にあまり似ておらず、髪は金髪だがうねりはなくまっすぐである。柔和な顔立ちで微笑みを絶やさない。利発で穏やかな性格の皇太子は、ジグルトを見てニコリと微笑んだ。 「申し訳ありません、殿下。父上様とのお時間をお邪魔してしまって」 「ううん、いいんだ。父上から、本をいただいた。とても美しい外国の本だよ」  勉学好きの皇太子は頬を染めて喜んでいた。宰相ダリオンから見れば、いささか覇気が足りないらしいが、ジグルトはこの皇太子の、下の者にも優しく、素直な性格が好きだった。皇帝も皇太子の性質を非常に可愛がっている。 「ねえ、ジグルト。父上にね、学都(オルタヴィオン)にいつか留学したいって、またお願いしてみたんだ」 「ほお、それで、どうでした」 「この前ほど反対はなさらなかったよ。考えてみる、っておっしゃってくれたんだ」  さまざまな国の秀才が集う学都に留学することを、勉学好きの皇太子は夢見ている。  世界中から第一級の学者らが集まるため、皇太子の家庭教師らも皆、学都の教授陣である。彼らの話を聞いているうちに、皇太子も留学したいと望むようになったのだ。  しかしいくら勉学好きとはいえ、一国の皇太子が留学した例はない。どの国の王族も学都に入学していない。専門的な学問を学ぶ場所なため、幅広く学ぶ必要がある王族には不要、あれは役人や専門家を育てる場所だと言われているが、最大の理由は入学試験が難問すぎるためである。  王族や貴族だからといって優遇されない。国から推薦された優秀な人材だけが試験を突破し、学べる場所なのだ。  第一書記官は全て学都出身者である。ジグルトも、勉強漬けだったが自由で豊かな学都での青春時代の話を、皇太子にせがまれるままに語ったことがある。 「学都は神山の領地内にあります。殿下が学都に留学される際は、私は神山の外交官となりたいものです。いろいろお助けできると思いますので」 「そうだね。実現したら楽しみだ」  皇太子と別れ、ジグルトは医師とともに皇帝の書斎に入った。  レスキア国内の本だけでなく各国から献上される珍しい書物を集めたこの書斎は、読書好きの皇太子のお気に入りの場所で、皇帝が皇太子と会う時によく使う場所である。  机には山のように本が積み上げられていた。皇帝が腰かけている椅子のすぐ向かい合わせに、皇太子が先ほどまで座っていたであろう椅子があった。その距離から、父と子が膝を突き合わせて語り合った様子が見て取れた。  部屋の中はかなり暖かく、皇帝はくつろいだ様子だった。皇太子と過ごした時間が非常に有意義だったらしい。珍しく、微笑みをまだ顔に残したままだった。 「お休みのところ、申し訳ございません」 「いや、いい。長く話し込んだのだ。冬はいいな。暖をとりながらゆっくり息子と向き合える」  皇帝の機嫌の良い顔を見つめながら、ジグルトは話をいきなり切り出した。 「ネバルの王子が妊娠なさっております」  ジグルトは皇帝の、次第に無表情になっていく顔を、じっと見据えた。皇帝は言葉が頭に入っていかないかのように、わずかに眉根を寄せた。 「……何……?」 「医師が確かめて参りました」 「……なぜもっと早く報告しなかった? 今はもう冬だぞ」 「……春赤月にお生まれになる御子ではないとのことです」  今度こそ、皇帝の目が泳いだ。明らかに混乱しているその表情を見つめた後、ジグルトは医師を振り返り、前に促した。医師は恭しく礼をしながら、視線を下げたまま話した。 「恐れながら陛下、タレスの離宮の(かた)にお通いになったのは、春赤月の頭だけですか?」  皇帝の妻は与えられる宮の名前で呼ばれる。ネバル国の王子は離宮に住み、まだ妃の称号も与えられていないため、呼称としては『方』だった。 「男性体のため、腹の下がり方で特定はできませんでした。あの方は生理もございません。ご自分でも、今の今まで気づかれなかったそうです。まだ一向にお腹が膨らんでおられませんので」 「……腹が膨らんでいない?」 「恐れながら触診させていただきましたが、あと二十日では生まれません。私もはっきりと申し上げることはできないのですが」  皇帝の視線が横に流れる。考え込むように見据えられた瞳が、何かを映していた。 「……竜王が身罷られた神隠月に、一度閨を持った。……婚礼の時と、その時だけだ」  感情を抑えこもうとしているが、声に焦燥がにじみ出ている。次第に顔を曇らせていく皇帝の横顔を、ジグルトは見つめていた。  皇帝の言葉に、医師は、ああ、と納得した顔をした。 「というと、あとおよそ五十日ほどですな。そうだとしたら、計算が合います」 「神隠月だぞ? 子など、孕むのか?」  皇帝ではなく、ジグルトの方が声を上げてしまった。  月の出ない夜になど、子が宿るとは思えない。 「あり得んと言われておりますが、実際は生まれております。およそ十数年に一度の周期で月が消えますが、このレスキアでも、実際産婆や医者は神隠月にかり出されているのですよ。神隠月では生命が生まれないというのは迷信です」 「しかし、まだ腹が膨らんでいないのに、あと五十日で生まれるなんてあり得るのか」  皇帝の顔に苛立ちが急速に広がっていく。 「腹の膨らみは人それぞれですから、何とも。あんなに鍛えられた下腹をした女性はおりませんしなあ……」 「はっきり申せ! ネバルの不貞を疑ったからこそ、お前はここにいるのだろう!」  皇帝の手が、卓の上にあった硝子の杯を倒す。医師はびくりと身体を強ばらせた。 「か、神隠月のお渡りを私は存じませんでしたので、赤月ではありえぬ日数に疑問を持ち思いましたが……」 「お前の予想ではいつに生まれると考える!」 「いや、これは、私も惹香嚢の出産は、経験したことがありませんので……」 「役立たずめ、下がれ!」  医師が慌てて深く頭を伏せたまま後方に下り、部屋を出る。椅子から立ち上がった皇帝は苛立ったように大股で部屋を歩き回っていたが、やがて椅子に勢いよく身を落とした。卓に肘をつき、片手でぐしゃぐしゃと髪をかき回す。  その姿を横目で見ながら、ジグルトは皇帝に告げた。 「私はすぐに離宮に行って参ります」 「俺も行く」  ジグルトは皇帝が「俺」という言葉を使ったのを、久しぶりに聞いた。  一介の皇子時代、膝をつき合わせてこの国について語り合ったあの時代以来である。 「陛下……」 「神隠月に身ごもるなど、俺には信じられん。しかもあの時、あれの身体は容易に俺を受け入れられる状態ではなかった。あの、惹香が止まらぬ時ならまだしも……」  こうもあけすけに皇帝が房事を語るのもありえないことだった。相当、混乱している証拠だろう。ジグルトも、医師がなんと言おうと、月が不在の夜に、命が育まれるなど考えられなかった。  しかも今回の神隠月は、()()が死んでいるのである。 「ジグルト。お前、やけに落ち着いているが、何か思い当たることがあるんじゃないか」  髪をかく皇帝の手が止まり、乱れた髪の間から皇帝の目が射貫いてきた。  不信に満ちた瞳が、自分まで疑っているのをジグルトは察した。 「離宮は、どんな状態なのだ。後宮から離したとて、ネバルの王子のことはお前に任せているのだぞ!」 「は……乗馬を楽しんでおられて、自ら馬の世話をなさるほどと聞いております。しかし、離宮の敷地内からは一歩も外へ出てはおられません」 「馬? あそこに厩舎があったのか。世話をしているのは?」 「庭師らが……交替で」  皇帝の目が見据えてくる。  不貞を疑っているのは確かだった。ジグルトさえ、すぐに疑った。だからこそ、医師に直接話をさせようと思ったのだ。  ジグルトと皇帝は、惹香の恐ろしいまでの支配力を知っている。  男の本能を狂わせ、理性を破壊させ、獣にさせる。飢えた臓器の恐ろしさを。 「……実は、夏赤月に入った頃、惹香嚢の分泌抑制薬がなくなったので、至急送れと離宮より手紙が届きまして」  目の端に、皇帝の手がぴくりと動くのをジグルトは捉えた。 「しかし王宮の薬師では、分泌抑制薬を作ることはできませんでした。レスキアには惹香嚢持ちすらまれです。帝都の年老いた薬師なら知っているかもしれないと探させましたが、なかなか。秋赤月には間に合いませんでした」  椅子に座った皇帝の身体が、ゆっくりと前屈みになる。組まれた手の上に、顎が埋まる。これは、考え事をしている時の、皇帝のクセだった。次第に、目が据わる。 「……夏にあれは、発情していたかもしれぬということか」 「夏……はわかりませんが、秋赤月には、服用はできなかったはずです」  管理不足を責められても仕方ないが、何よりも問題は、腹の中の子どもが本当に皇帝の子かどうか、である。  窓に叩きつけられる雪を見つめながら、ジグルトは、この冬の厳しさがまだまだ明けぬことを思った。

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