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Ⅱ 神隠月-2

 まどろみの中を浮遊するだけで、なかなか意識は深く落ちていかなかった。  わずかな光がなければ、人は安心できないらしい。  火事を防ぐために、眠りにつくときは燭台の灯を落とす。神隠月で月の明かりが全くない夜は、闇しかない。  寝所の扉と窓は全て重いので、外の音を少しも拾わない。無の空間の中で、セナは眠ることに集中した。  ガチャ、と無機質な音がして、ふと顔を上げると、寝室の扉から光が漏れた。隣の部屋で眠るフオルが蝋燭に灯をつけたのだろう。  フオルに声をかけようとしたセナの耳に、フオルの慌てふためいた声が届いた。 「陛下……! お、お待ちくださいませ!」  困惑するフオルの姿は、見えなかった。  セナには、わずかな光を背に立つ、レスキア皇帝の姿しか見えなかった。  どういうことかとセナは混乱した。  皇帝の顔は、あの異常な婚礼でも、認識ぐらいはできた。  間違いなく、目の前にいるのはレスキア皇帝である。  では皇帝が、なぜここにいるのか。まさか皇帝自らの手で、(ちゅう)(ばつ)されるのか。  セナは、どんな態度を示せば良いのかわからなかった。慌てて寝台から降り、衣服の乱れを直しながら皇帝がたたずむ扉のほうへ向かう。わずかに頭を下げ、皇帝に訪問の意味を問うた。 「陛下、今宵は……」 「寝台へ」  わずかな光の中でも、その黄金の髪と、玉石のような瞳は、光り輝いていた。 「お前を抱きに来た。寝台に案内せよ」  寝台に案内しろという言葉は、房事を行うと告げる後宮の隠語である。セナは皇帝の意図が読めず、茫然とするしかなかった。 「陛下!」  声を上げたのはセナではなく、皇帝の足元にひれ伏したフオルだった。皇帝の前には出ず真横に手をつき、顔を上げずに告げた。 「緋宮には侍従長より何も通達されておりませぬ。お迎えする用意をしておりません。なにとぞ、日を改められますよう」 「個人的に来たことだ。侍従長はもとより、ジグルトも知らん」  セナを射貫くように見ていた皇帝の視線が、足元のフオルに向けられる。だがフオルは引かなかった。小さな身体を地に押しつけるようにして、訴える。 「神隠月でございます。後宮へのお渡りは、禁忌のはず。今宵のことを、誰が証明してくださいますか」  その場で殺されても文句は言えぬ不敬であった。  しかし、セナの立場を必死で守る言葉だった。正式な手続きなしに閨を持ったりすれば、こちらが咎められてもおかしくない。  本来ならば主である自分こそが、それを考えねばならないのだ。  下の者に、命をかけさせるなど、あってはならないことだ。常に現状を打破しようと考えを巡らせてきたフオルとは逆に、流されていただけの自分を、セナは嫌悪した。 「たかが小人の分際で、余の行動の意味を問い、あまつさえ注文までするか!」  激高する皇帝の身体がフオルに向けられる前に、セナは声を張り上げた。 「陛下、寝台にご案内いたします!」  皇帝の瞳が闇夜に輝く。  焦りと苛立ちしか、そこにはなかった。以前のような発情は浮かんでいない。欲望だけに精神が支配された状態ではない。理性が完全に飛んだ、あの時の方が恐ろしいはずだった。なのに、以前とは比較にならぬほどの恐怖が、セナを包んだ。  セナは寝台に身体を向けた。足を引きずるようにして、そちらに向かう。  寝台までわずか数歩の距離でしかなかったが、動かぬ足は何度か寝着の裾を踏みそうになった。  フオルが重ねてくれた毛布に手をかけようとしたとき、フオルがセナの横から突如何かを差し出した。自分の部屋に行き、急いで取ってきたのだろう。身体を滑りこませてくるような勢いだった。  それは、硝子の小瓶だった。なぜこんなものを渡したのか、セナはフオルに目で訊いた。フオルが小声で、素早く伝える。 「香油でございます」  それを聞いても、セナにはまだわからなかった。  香油?  伝わらないことに、フオルは苦痛を感じているような表情をした。香油を受け取ろうと伸ばしたセナの手を握りしめる。 「発情期でなければ、お前の孔は濡れんのか?」  皇帝がセナとフオルの重なった手から、小瓶を奪い取った。  それでようやくセナは香油の意味に気づいたが、皇帝にそのまま寝台に押し倒された。  皇帝はすでに服の留め具を全て外し、腰の帯革も緩めているが、全て脱ぐつもりはないようだった。見下ろしてくる目が、まるで観察でもしているように細かく動いている。  フオルが静かに部屋を去ったのを感じながら、セナはこの状況で、どう動き、どう発言すれば良いのか、恐怖を押し殺しながら考えた。  このまま妃の位が与えられなかったら、ネバルはどう処遇されるのか。  皇帝が何を考えて今夜ここにやってきたのかわからないが、それを知る、千載一遇の機会だった。 「……陛下」  皇帝の目が泳ぐ。なぜか驚くように、瞬きをした。  閨では、女性は一言も口を利いてはならないのだろうか?  不安を感じながらも、セナは言った。 「私の母国へは、婚礼の儀が成されたと報告されたのでしょうか」  皇帝の目が一気に冷えた。閨で語ることではないと鼻白んだ皇帝の顔に、それでもセナは縋った。 「陛下、どうか、ネバルの従属を示す心だけは、お疑いにならないでください」 「だからそれを今、確かめようというのだ。黙れ」  苛立った皇帝の声に、もうこれ以上セナは聞き出すのを諦めた。  皇帝の手が、寝着の裾をたくし上げてくる。セナは上体を起こすと自分の手で寝着をまくり、頭から脱いだ。そのまま素裸になり身を横たえると、真上の皇帝の顔が茫然としていた。 「陛下?」  皇帝の身体が下がる。闇の中でも、その顔が困惑しているのはわかった。まともに男の身体を見て、気が引けたのだろうか。  それならそれでも仕方ない。セナは再び上体を起こし、皇帝の行動を待った。  皇帝の目が、どこを見ているのかわからなかった。しばし皇帝の身体は置物のように動かなかったが、上半身から勢いよく服を脱ぎ始めた。  初夜に見た皇帝の身体は、金色の体毛で覆われていた。あの異形の姿より、自分と同じ男の身体の方が恐ろしく思えるのは、どういうことなのだろう。素裸になった皇帝の身体が覆い被さってきた時、セナは反射的に身を固くした。  確かめるように動く手の動きは、快感を導かなかった。爪を立てられ、牙で傷つけられたあの時の方が、夢中になれた。  おそらく、同じ事を思っているだろう。この方はそれを確かめに来たのだ。  惹香の匂いに惑わされたあの時は、あまりに狂った時間であり、もう二度と存在しないのだと。  後孔を指で突かれても、男を誘い、迎え入れる愛液は少しも分泌されなかった。  今は神隠月。身体は、生命を作り出す活動を止めている。  全ての人間が、動物が、生命が、繁殖の呼吸を止めている。  勃起すらしない。セナは心だけでなく肌も冷えていくのを感じた。触れ合った肌がこすれあっても、熱を生まない。セナは顔を背け、目をきつく閉じた。  なんの意味も成さない行為だ、という思いが頭をよぎった時、生温かいものが頬をかすめた。  それは、唇だった。  思わず正面に顔を向けると、皇帝の顔が目の前にあった。  覗きこむ瞳は、闇夜だというのに煌めいていた。  なぜか、とセナは思わずその瞳に見入った。燭台の灯もない。月光は存在せず、星の光も遠い。それなのに、なぜこの瞳は輝いているのか。  先ほどは冷たい石のように感じた瞳が、宝石のように見える。  セナは皇帝の瞳を見つめ、思った。  この瞳の色は、何だっただろう。  水色だったと思ったが、それは空の色だろうか。それとも、豊富な水の色か。  それぞれの国の民は求める色を瞳に宿すというのなら、レスキアは太古の昔から、何を欲し恋焦がれてきたのか。  何を求めれば、これほど光り輝くのか。  皇帝の瞳が、次第に見えなくなる。  受けたのは、口づけだった。  重ねられた唇は、最初は触れては離れた。  呼吸が熱い、とセナが感じた時、静かに皇帝の舌が入りこんだ。  舌は、セナを導くように口内を動いた。絡み合う舌の動きに、セナの意識はすぐに持っていかれた。休む間もなく上あごを撫でられ、舌先を突かれ、口を塞がれ、セナは息をするだけで精一杯だった。思わず、皇帝の両腕を摑む。 「はっ、うっ、ううんっ、はう、んっ」  肌と肌が自然にこすれあい、いつの間にか勃起していた男根までが触れ合う。大きく固くなったそれを感じても、恐怖を覚える暇も与えられなかった。窒息してしまいそうなほど、舌を口内の奥に入れられ、唇を塞がれる。 「んっ、んんんっ、んんんんっ……」  ある種の快感なのか、苦しさゆえなのか、セナはわからぬまま皇帝の腕にしがみついた。背中から尻にかけて愛撫を繰り返していた皇帝の手がいったん離れたかと思うと、ぬるりとした液体が、指とともに後孔の中へと注がれた。  一体何の花を浸した香油か。芳しい花の香りが、内側の熱と擦れ合って、鼻腔を突いてくる。  セナは口づけを受けたまま背中を支えられ、上半身を起こされた。足を大きく開かされた格好で、胡坐(あぐら)をかいた皇帝の膝の上に乗せられる。  その際、身体の均衡を崩したセナは思わず皇帝の首に腕を回した。皇帝に抱きつく格好になり、慌てて身体を離そうとしたが、皇帝の腕はそれを引き戻した。きつく抱きしめられ、()()を嬲られる。 「んっ……あっ……」  この程度の刺激でも声を漏らしてしまったことに、セナは赤面した。身体中が、敏感になっている。惹香嚢は眠っているというのに、なんということか。セナは思わず首を振り愛撫を避けようとしたが、皇帝の腕は緩まず、耳の穴にまで舌が侵入した。  と同時に、後孔に指が香油とともに入ってきた。耳の穴を舌で突かれ、孔を指で突かれ、二つの刺激にセナは自分の陰茎がぶるりと震えるのを感じた。  その拍子に皇帝のそれと触れ合い、セナは恥ずかしさで思わず皇帝の首にしがみついた。皇帝の腕が緩み、背中が静かに撫でられる。  いつの間にか指は二本になり、それが孔を広げてきたときには、セナは何本の指が己の孔に収まっているのかわからなかった。快感が背筋を這いあがり、達しそうになるのをこらえる。  陰茎から睾丸、後孔まで香油にまみれ、ぐちゅくちゅと卑猥な音を響かせながら、セナは皇帝の男根を受け入れた。 「んっ、んんっ、んんぁっ……」  痛い、というよりも苦しい、圧迫感が襲ってきた。やはり発情期以外は、男の身体を受け入れられないのか。反射的に逃げようとするセナの腰を、皇帝が摑んで引き寄せる。そして腰と背中を支えられ、寝台の上に身体を戻された。 「ああ、嫌、無理です。抜いて」 「ばかを言うな」 「陛下、むり……抜い、抜いて」  だが皇帝の返答は、挿入した男根を突き上げることだった。  受けた衝撃に、体内の惹香嚢がびくりと反応する。 「あっ、ああっ!」  眠っていた臓器が目を覚ます。  繰り返される刺激に、揺れ起こされる。  熱を帯びてくる身体の奥を、皇帝も感じているに違いない。セナは困惑と羞恥で顔を覆った。  ああ、この身体。この身体は。 「あぃっ、あっ、んんっ、んぁっ、んんっ」  頭の上にあった寝具を引き寄せ、それを噛んで声を立てまいとしたが、両腕を取られる。そのまま両腕を引っ張られる体勢で、セナは激しく突かれ続けた。  皇帝の律動は、わずかでも緩むことはなかった。もしも動きを止めたら、惹香嚢の目覚めを止めてしまうとわかっているかのように。 「はっ、あっ、あぃっ、あぁ、ああっ、あっっ、ぃうっ、ううう、んんゃっ……!」  セナが達した震えに応えるように、皇帝の腰も震え、精が奥深くで放たれる。  目覚めた惹香嚢が、それをしっかりと受け止めたような気がした。       * ・*・ * 「閨では互いに服を全て脱いだりしませんよ」  フオルが呆れたように言った。 「自ら服を脱いで横たわるなんて、陛下もさぞ驚かれたことでしょう」 「……それはそうだろうと思った」  セナは今更ながら羞恥心で赤面した。さぞ大胆な行動だと思っただろう。 「それと、おしゃべりも禁止です。閨で何かを要求するのはご法度ですから」  閨入りと同時にネバルのことを聞き出そうとしたときの、皇帝の不快そうな表情をセナは思い出した。  セナは腰のだるさに閉口し、朝から寝椅子に横になったままだった。恥ずかしさで寝椅子に顔を伏せたが、昨晩の様子を詳細に語れと言わんばかりに、フオルは床に膝をついて顔を近づけてくる。 「というかセナ様、閨のしきたりとか、教えてもらっていないんですか?」 「当たり前だろう。なぜ男の身で、そんなことを知る必要がある。俺は後宮など持つ予定も、入る予定もなかった。知るはずがないだろう」  輿入れが決まってからレスキア帝国に向かうまでも間がなかったので、誰も教えてこようとしなかったのである。  昨夜は房事が終わってすぐ、セナが寝台の上で脱力している間に、レスキア皇帝はさっさと部屋を出て行った。 「夜明けも訪れていないのにまあ早いと思いましたが、人目につくわけにいかないからでしょうね。見送る気もなかったんで、私はすぐにセナ様のところへ飛んでいこうと思ったんですが、出ていったかと思われた陛下にふと、呼び止められましてね」 「何て?」 「()()を、聞かれました。セナ様の」  セナは思わずフオルのほうへうつ伏せていた顔を向けた。目の前にフオルの顔があり、目を輝かせている。 「首尾良くいった、と、私は期待していいのですかね。神隠月に来るなんて、人を何だと思っているんだと腹が立ちましたが、うまくいったのなら喜ばしいことですよ」 「……どうだか……」  その時、力強く扉を開く音が、部屋に響き渡った。反射的にセナは身を起こした。  大股で部屋の中に入ってきたのは、ここしばらくとんと姿を見せなかった第一書記官だった。書面を片手に、礼儀をかなぐり捨てた態度で近づいてくる男の表情を見て、セナは察した。 「すまん、フオル。首尾良くはいかなかったようだ」 「どうもそのようで」  ジグルトは、両手で書面を広げ、声高に言い放った。 「ネバル国セナ王子に申し伝える。本日を以て王宮を去り、タレスの離宮へと移るべし」       ◆・◆・◆  皇帝が一人で後宮を渡ったという報告ほど、ジグルトを仰天させたことはなかった。  いや、正確には、後宮までは行っていない。  その手前の、緋宮である。  だがそれは明らかに閨が目的であり、手順を踏まずに皇帝が房事を求めたということに他ならない。  皇帝の行動に、第一書記官らは騒然となった。書記官らが集う執務室で、ジグルトは同僚らに囲まれていた。 「つまり、あれだ。意中の方、ということなのか?」  ヴァントが詰め寄る。 「いや、そこまでは……」 「はっきり言え、ジグルト。陛下のお心ひとつで、方針が変わってくるんだぞ」 「少々、気にかけられていたのは事実だ」  少々じゃねえだろ! と第一書記官らが声を揃えるが、ジグルトはその声に大声で返した。 「少々だ! 男で、後宮に宮も持てない従属国の王子だ。白月が九日で終わってしまい、まだ後宮は落ち着いていない。意中、などと後宮に伝わったらどうなると思う。ヴァント、言葉に気をつけろ!」  日頃の冷静さをかなぐり捨てて言い合う執務室に、のんびりした声が飛んだ。 「まー、待て待て待て」  振り返らずとも、誰が入ってきたのかジグルトにはわかった。第一書記官らの声が重なる。 「宰相!」 「陛下も、このたびの行動は反省なさっておられる。俺が、ネバル国の処遇を早めさせたのが原因なんだ。陛下のお考えを直接伺おうと思う。外交と後宮にも関わることだ。ヴァント、ジグルト、一緒に来い」  ダリオンの言葉に、ヴァントが納得したように居住まいを正した。情報が下りてこず、ジグルトだけが把握しているからこの状態なのだと思っているのだから、場を収めるダリオンのやり方は正しい。だがジグルトは、これでは皇帝の本心を伺えないと忌ま忌ましく思った。  皇帝は自らの意思で、ネバルの王子を求めた。  発情しない神隠月のさなかにそれを求めたということは、その性欲は、雄としての本能ではない。  ではなぜに求めたか──。  皇帝の宮に入った三人は侍従らが控える部屋の横を通り過ぎ、皇帝が身支度を整え食事を取る部屋に向かった。この時間帯なら、まだ皇帝は朝食を終えたばかりのはずである。  皇帝が居住する宮は政務の中心であり、余暇を過ごす場所だろうがどこだろうが書記官らは許可なく入ることができる。皇帝自身、己の寝室以外の場所でならどこでも報告を聞くという考えを示している。  ジグルトらが部屋に入ろうとしたとき、朝食の食器を下げる侍従らが出ていった。本日の謁見で使用する衣装を掲げた侍従らが入れ違いに入ってくる。  皇帝は、着替えの前に食卓から窓辺に移動し、侍従に髪を梳かせていた。侍従が食後の茶を淹れているが、皇帝がそれを優雅に飲み干すとは思えなかった。足を組んで椅子に腰かけ、報告書に視線を落としたまま微動だにしない。ジグルトらが中に入っても、視線を書から上げようとしなかった。  クセのある髪なので、後ろに梳くだけで簡単に流れていく。黄金の髪は、陽の光を受けてつややかに輝いていた。  ダリオンが、声が届く距離まで進み、無言でその場に立った。そしてそのまま皇帝の言葉を待つ。訪問の意図はすでに伝えているのだろう。ジグルトとヴァントも、同じようにダリオンの後ろで何も言葉を出さずに控えた。 「……ネバルは」  書面が卓に置かれる音とともに、皇帝の口から言葉が紡がれた。 「後宮の近くに別宮を設けさせろ」  ヴァントの頭の中で、外交地図が描かれたのがジグルトにはわかったが、ジグルトの頭の中に浮かんだのは王宮内の地図だった。 「ネバル国王の容態が回復せず、レスキアとの外交を重視する宰相は、ネバル王太子によって更迭されましたが」  ダリオンの言葉に、皇帝は前方に向けていた視線をダリオンに移した。 「それでもだ。妃と宮の称号を与え、あくまでネバルが離反するというのなら、また考えれば良かろう。あちらは一度忠義を示したのだ。それに応えねばならん。帝国の行動を、他の従属国も見ているだろう」  ダリオンは了解したというように顎を少し引いた。それでヴァントは何も言うことはなくなった。 「後宮の傍に、新たな宮を建てる場所はありません」  皇帝の視線を含めたその場の目が一斉に注がれるのを、ジグルトは感じた。  皇帝は、ジグルトが想像した答えを返した。 「緋宮をそのまま用いれば良かろう」 「他の妃様が、母国の大使らと謁見することができなくなります。いくらなんでも後宮侍従らの詰め所を用いるわけにはいきません」 「まあ、そこはお前たちの考えに任せる」 「王宮外の離宮ではいけませんか」 「仮にも妃の位を持つ者を、王宮から追い出すことはできん」  皇帝は、髪を梳かせる手を止めさせ、椅子から立ち上がった。 「余の宮の周りなら、小さな宮を建てられるだろう」  そこにいた人間で目が泳がなかったのは、ダリオン一人だった。衝撃を押し殺し、ジグルトは努めて、冷静な声を絞り出した。 「……それはなりません。後宮は政務と切り離されるべきです。皇帝陛下のお住まいには政治が入ります。その近くに妃様の宮を建てるわけにはいきません」  皇帝の表情が、不機嫌そうに翳る。苛立った視線がジグルトに向けられる前に、ダリオンの静かな声が間に入った。 「ひとまず、予定通り離宮へお移りいただきましょう。タレスの離宮なら、昔王族の静養地に用いられていた場所です。小さい宮ですが、どうせ侍従は一人だけ、ネバルの王子にしても、そのほうが良いでしょう」 「しかし、タレスは遠い」  皇帝の声は低かった。 「人気の少ない場所のほうが、王子にとってもよろしいと思われますよ。惹香嚢持ちは発情期があります。人の通りの多い緋宮では、落ち着かれないでしょう」  ダリオンの言葉に、皇帝は静かに鋭い視線を向けた。言葉の裏には、皇帝の秘密が含まれている。ジグルトは息を呑んだが、ダリオンは全く表情を変えず、皇帝の視線を受け止めた。 「ネバルには、後宮内に王子の宮が完成次第、妃の称号を授けると伝えましょう」  ダリオンから示された折衷案に、皇帝は無言を貫くことで諾を示した。  緊迫した場の空気が緩み、隣のヴァントが静かに肩で息を吐く。  だがジグルトは、少しも気を緩めることができなかった。なぜこんなことになったのか、頭の中が落ち着いていない。  だが今考えるべきは、これからどうすれば良いのかということだ。考えを張り巡らそうとしたジグルトの前に、急を告げる侍従の甲高い声が響いた。 「申し上げます! ただ今、神山外交官のハスバル様が、急なお話でこちらにいらっしゃいました」 「陛下!」  神山外交官・ハスバルが、来訪を伝える侍従を押しのけるようにして部屋に入ってきた。  外交官でも、神山の担当官は最高位に就いている。  大臣並みの地位を与えられているが、それでも侍従の案内より先に皇帝の自室に乗り込んで来られるほどではない。  貴族出身で物腰の柔らかなハスバルとは思えぬ行動に、ジグルトらも驚き部屋の左右に分かれた。  ハスバルからはいつもの穏やかな表情が消え失せていた。多忙を極めるため神山に常駐し、滅多に母国に戻らない男が、帰国を伝えもせず戻ってきた。ただならぬ雰囲気を感じ取った皇帝が、数歩ハスバルに近づく。 「どうした、ハスバル」  ハスバルは皇帝の周囲に侍る人間らをざっと確認し、差し支えないと思ったのかそのまま膝をついた。 「竜王が……竜王(シェヴァイリオン)が、お隠れになりました」  皇帝が驚きのあまり身体を強ばらせる。 「まことか!?」 「神山の上位神官より、各国の王に伝えよとの言葉がありました」  皇帝は身体を前のめりにして詰め寄った。 「して、分卵は? 成されたのか!?」 「はい。成されたとのことです」  皇帝の身体が二・三歩後ろに下がり、そのまま椅子に落ちる。  無理もない。『暁の皇帝』の称号を与えてくれた神である。己の治世の間は、竜王の御代が続くと思っていただろう。  ダリオンの表情も、さすがに固くなっていた。視線を泳がせながらハスバルに問う。 「この神隠月は、竜王(こう)(きょ)ゆえだったのか。だがなぜ、こんなに早く。現竜王の御代は、まだ百五十年ほどだぞ」 「しかし分卵は成されました。新たな竜王の卵は、これから一年後の神隠月に孵化なされます。世界は沈黙し、竜王ご生誕を待つべしとのことでした」  世界の神である竜王は、一世代が二百年から三百年となっている。  竜王は基本()(たい)であるが、雄を必要としない無性生殖により、自らの身体から卵を産み落とす。これが分卵である。  その分卵は、必ず神隠月に行われる。  卵を産むと、竜王は死ぬからだ。  月が失われ、一切の生命が沈黙する時に、新たな神は誕生する。  そしてそのまま、古い神は死ぬ。  竜王の卵が孵化するのは、一年後の同じ神隠月になる。  それまで世界は、神のいない時を過ごすのだ。  竜王が途絶えれば、この世界は消滅すると言われている。  無事に新たな神が産声を上げるまで、世界はその誕生を祈り、沈黙の中にいなければならない。  これから一年多くのことが自粛され、同時に、来たる新たな神の御代のために、さまざまな準備をしなければならない。  帝国の政治家たちは、静かに始まった騒動の音を、じっと息をひそめて聞いていた。

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