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Ⅱ 神隠月-1
腹から下の身体は、とうに失われているのかもしれなかった。
動かそうと思っても、動かない。視線を向けることすらできない。
途切れそうな意識が浮遊する。浮いた直後に液体が口の中に注がれ、沈んだと思ったらまた浮き、口に入る液体を飲み込み、むせる。咳き込むと身体が強ばり、がちがちに固まっているのがわかる。痛い、というよりも固い、という感覚だった。そしてやはり、下半身は感覚がない。
おそらく、喰いちぎられてしまったのだろう。
金色の獣に。
「陛下……陛下、これ以上は。三日目の朝にしてようやく、もとのお身体に収まったのではないですか。すぐにお戻りください。この機会を逃しますと、またお身体が変わってしまわれるかもしれません」
飲み込むことができなかった液体が、拭かれる。ああ、フオルの手か、と思ったら、口の周りを柔らかいものが這った。
この肉の感触は、舌か。
獣だ。また獣が、喰おうとしてくる。
「陛下……! いけません! もう、もう王子から離れてください!」
「黙れ」
「陛下! お鎮まりを。日が高いうちにこの方から離れませんと、四日目まで緋宮から離れられないことになるやもしれません。これ以上、外部の声を抑えられません。どうか、お身体が人のままのうちに、ご自分の宮殿にお帰りください」
けもの。
もう、俺の身体からは、惹香が消える。
お前も、人に戻るがいい。
「王子……! 王子、わかりますか!?」
発情は終わりだ。
去れ、けもの。
これ以上は、お前を受け入れることはできない。
「……俺の身体は今は収まっているが、鼻に染みついたお前の惹香はまだ消えん。どうしてくれる」
いつか、忘れる。
匂いなど。
すぐに、風に、飛ばされていくだろう。
お前は、この身体を喰い尽くしただろう。
もう、俺の身体は、役になどたたない。
「陛下……お願いします。どうか。三日目でございます。三日目の夜こそ、明けてはおりませんが、三日の婚礼は、これで終わったと、報告させてください。ここまでの錯乱、この方も、これ以上は持ちますまい」
身体が浮く。
何かに、抱え上げられた感触を覚えた時、セナは、下半身がまだ残っていることに気がついた。
だが、そこまでだった。
誰の腕だったのか、誰の顔だったのか、視界は、何も映さなかった。
セナはそれから、三日三晩、ただ昏々と眠り続けた。
◆・◆・◆
十五日間の春赤月が明け、春白月となり、ようやくジグルトは皇帝を後宮へ渡らせる手配をした。
誰に何と責められようと、ジグルトは残りの春赤月に皇帝を後宮に向かわせなかった。
ネバル国王子との婚礼三日目の朝に、ようやく獣人化が収まった皇帝を自室に戻したものの、誰の目にも触れさせることはできなかった。赤月が空に浮く時間、惹香を思い出したのか、またしても身体が獣人化したからである。
つくづく、ネバルの王子から離してよかったと思いながら、ジグルトは皇帝の血走った目をなだめた。皇帝は呻き声一つたてなかったが、寝室にこもり、じっと己を抑えていた。
あんな姿を見ては、残る赤月の夜、後宮へ向かわせるなどできるわけがない。
後宮に入る直前に、ネバル国王子のいる緋宮がある。また匂いを思い出して、そちらに向かってしまうかもしれない。
結局皇帝は、緋宮から自室に戻って四日間、日中も外に出なかった。春赤月七日目、緋宮から戻った翌日の夜には獣人化はしなかったが、病を得たという理由をつけて人払いをさせたのである。
春赤月中、皇帝が後宮を訪れなかったのは、ジグルトが心配したからだけではない。
皇帝が、後宮に向かうことを嫌がったからである。
「……またあの状態になるやもしれんと思うとな」
皇帝が己の責務を拒否するのは珍しい。良いのではないかとジグルトは頷いた。後宮の妃らの不満など、ネバルの王子へそのまま向けてしまえばいい。
そして後宮は、ジグルトの考えた通りになった。混乱と怨 嗟 の声に溢れているらしいが、皇帝に害がなければそれでいいのだ。ネバルの王子がどうなろうと知ったことではない。どうせもう二度と、陛下はあの王子と関わらない。
「何にやついてんだよジグルト。春赤月の間、ずっと陛下を独り占めできたことがそんなに嬉しいのか?」
気安くこんな言葉かけをしてくる宰相・ダリオンを、ジグルトは一発殴りたくなった。
「宰相。陛下のお加減の悪さを、そんな風におっしゃるのはいかがなものでしょうか。後宮は非常に昂っている状態、お控えください」
優美な微笑みを向けて去ろうとしたが、ダリオンのほうはマントまで摑んでくる勢いだった。
「待て待て待て勝手に去るな」
「今宵より、陛下は後宮へ渡られます。その準備に忙しいので、これにて」
「ネバル国への対応だ。ヴァントとも調整しろ」
ダリオンの後ろに控えていた第一書記官・ヴァントが、思いっきり顔をしかめている。ヴァントはバルミラ国から頼まれていた、皇帝と宝玉の妃の閨が成されなかったため、面目丸つぶれにされた。面倒なのでジグルトはヴァントから逃げていたが、ついにヴァントはダリオンに泣きついたらしい。
第一書記官らが集う執務室で膝をつき合わせる羽目になり、ジグルトはうんざりしつつ早口で告げた。
「今宵の閨は宝玉の妃様だ。それはもう間違いない。二日連続のお渡りは無理だが、今宵、必ず」
「当たり前だ。もしも違う妃だったら、許さんところだった。それよりももっと大事な話だ。ネバルの王子に、妃の位を与えられるのかどうか」
ヴァントの仕事は、各国との外交調整である。
「ネバル国は当然、王子であろうとも妊娠可能な惹香嚢体を花嫁として差し出したのだから、これで従属の証しとして、宮と、妃の称号を与えよと言ってくる」
「だろうな」
「しかし、帝国の後宮で、男子に妃の称号が与えられた例はない」
「……」
「立会人が死に、初夜が成されたか確認が取れず、陛下は三日目の夜は緋宮で過ごされなかった」
ジグルトはまじまじとヴァントを見てしまった。こいつの考えていることは読めてきたが、さすがにあんまりではないだろうか?
「妃の称号を与えないとなると、愛人と同じ扱いだぞ。仮にも従属国の正統な王子だ。ばかにしているのかとネバルが怒り狂ってもおかしくないぞ」
「ネバル国王が健在ならばそうするところだが、どうも、容態が悪いらしくてな」
春赤月に入ったとたん、ネバル国王がついに伏せったと噂が流れた。
「王子を帝国に差し出して、これで従属の証しとなると安心したのかもしれない。しかし同時に、不穏な動きが出始めた。もともとこっちは、ネバル王太子がバルミラ国と繋がっているのを察して、娘をよこせと要求したからな」
バルミラを通して、ネバルの王子が皇帝の不興を買い、婚礼が台無しにされたという情報は、ネバルに伝わっているらしい。
「それでまた、揺れ始めた。王女を差し出していればこんなことにはならなかったものを。幼い王女が成人するまでこちらで大事に養育し、老王が死に、ボンクラ王太子が跡を継いで国が混乱に陥ったところで、堂々と内政干渉ができたんだがなあ」
それが嫌だったからこその王子の嫁入りだったのだろうが、ヴァントはあくまで自国目線でしか語らなかった。
「だったらよけいに、妃の位を与えた方がいいんじゃないのか」
ジグルトの言葉に、ヴァントは眉をひそめた。
「お前、後宮があれだけ妃の称号など与えるなと騒いでいるのに、なぜネバルの肩を持つ? 俺はてっきり、お前はあっさり了解すると思っていたのに。妃の位につけなければ、後宮の妃様方の溜飲も下がるだろう?」
肩を持つつもりはない。同情もしない。だが、ネバルの王子がなんとか婚礼の責務を果たしたのは事実である。三日目はこちらが行かせなかった。
半死半生のような状態で、獣を受け入れたのは確かなのだ。
「あの婚礼で、ネバルの王子はもしかしたら子を孕んだかもしれぬ。そうなると、妃の称号を与えんのは不自然だ」
ジグルトの言葉に、ヴァントは顔をしかめた。
「惹香嚢ねえ。男が孕むなど俺には信じられんが、確かに婚礼の夜に孕んだとなると、やっかいだな。しかし宰相も、妃にするのはまだ先延ばしにしたほうがいいとお考えだ」
ジグルトは目を見開いた。ダリオンが、ネバル王子に関して何かを指示してきたことはない。
「宰相は、ネバルの動きがはっきりわかるまで、妃位を与えるのは延ばした方がいいとおっしゃった。そのためにも、ネバルの王子を離宮へ移した方がいいだろうと」
「離宮へ?」
「位が与えられんと、王宮内に宮も与えられんからな。いつまでも緋宮に隔離しておくのもおかしい話だ。後宮の侍従たちは、妃らに遠慮して緋宮に近づかないらしいじゃないか。緋宮は本来、各国の大臣大使らが後宮との連絡に使う場所。そこに王子が閉じ込められていては、政務も滞る」
しかし名目はどうあれ、この状態から王宮の外の離宮へ移すのは、幽閉も同然である。
離宮になど当然、皇帝は足を運ばない。
ダリオンは飄々としていたが、皇帝が獣人族であると他の人間に知られたことを、警戒しているのだろう。
当然かもしれない。今まではダリオンしか知らなかったことが、ジグルトと、ネバル国王子、そして小人の侍従にまで知られた。
ネバル国の信頼を失っても、王子を何とかしたいと思っているのか。もしかしたら王子は離宮にて、秘密裏に消されるかもしれない。
書記官らの執務室を出たジグルトは、そのまま皇帝の宮へと向かった。
午後の政務を終えた皇帝は、侍従らに給仕されながら後宮へ通う前の軽い食事を取っていた。陽が落ちる直前の強い光が、皇帝の黄金の髪をいっそう輝かせ、ジグルトは、金獅子の姿を脳裏に思い浮かべた。
目にしたときには恐ろしいと思ったが、こうして振り返るとあれは、なんと美しいたてがみだったことか。
全身が黄金に光り輝き、あれほど強く、神々しいものはないように思われた。
「今宵は、宝玉の妃か」
皇帝は、果実酒を口にしながら、ジグルトの提出した書面に目を落としていた。
「はい。後宮も久々でございますな。ごゆるりと、お過ごしください」
春白月中に後宮へ渡る順番が、ずらりと書面には記されている。ジグルトが、混乱を収めるために頭をひねらせて決めたものだ。
今まで皇帝は、その順番に異を唱えたことは一度もなかった。
「……白月に、ネバルのもとへは渡れんか」
ジグルトが知る限り、ただの一度も、なかった。
「空いている日があるだろう。そこに、緋宮を入れろ」
「陛下、なりません。それは、お身体を休める大切な日でございます」
ジグルトは片手を振り侍従らを下がらせ、許可もなく皇帝に近づいた。皇帝は書面に視線を向けたまま言った。
「別に何もしない。ただ、様子を見に行くだけだ。身体を労るだけなら……」
「余計、なりません」
ジグルトは皇帝の膝元まで近づき、跪いた。ジグルトが距離を縮めてきたことに気がついた皇帝が、驚いた顔を向ける。
「陛下。あの方にはもう二度と、お会いできません。後宮の妃様方は、春赤月の訪れがなかったことを、緋宮の婚礼ゆえとお思いです」
「余の体調が悪かったのを、後宮は不満に思っていると?」
皇帝は不快そうに眉をひそめた。
「陛下。お妃様方のお気持ちもお察しください。皆さま、陛下のお身体をずっとご案じなさっておられました。今宵の訪れでどれほど安心なさることか」
そんななだめ方をしたところで、皇帝はばかではない。どうせ欲しいのは子種だけだろうとでも言いたげに顔を背けるだけだった。
「ネバルの政情が安定していないことは、もう宰相からお聞きになりましたか。宰相は、王子に妃の称号を与えるのは、現状の落ち着き次第だとお考えです。それまで、ネバル国の王子は離宮で過ごしていただきます」
皇帝の顔がジグルトに戻る。驚いたように見開かれた瞳を見て、ジグルトは決意した。明日にでも移す離宮を決めなければ。
「陛下。あの方は、形だけ後宮入りした方でございます。これから先、ネバルとの関係が安定し、もしあの方が妃として認められたとしても、妻として処遇する必要はございません。あちらとて、御子の誕生まで望んではいないでしょう」
「……ジグルト」
「錯覚でございます」
「ジグルト、あれの、名は」
「陛下」
ジグルトはいつの間にか皇帝の手を握りしめていることに、気がついていなかった。
「そのお気持ちは、錯覚でございます。ただ、匂いに、惹香の匂いに惑わされているだけでございます。お気を確かに。あの方は、男でございます。通常陛下が、相手にするなど考えられない、男の身体なのです」
ジグルトは、自分の口から流れる言葉が、自分の内側をずたずたに引き裂いていることを感じ取っていた。
それでも必死で、ジグルトは言葉を紡いだ。
「あなた様があの方を気にかければ、不思議に思う者も出てくるやもしれません。なぜあなたがそこまで惹香の匂いに惹かれるのか、疑問を抱く者も……」
ジグルトの言葉に、皇帝の目が据わる。
ジグルトは、そこで初めて、自分の手が皇帝の手の上にあることに気がついた。それをしばし見つめた後、ジグルトは手を、己の膝と、床につけた。
「陛下、どうか。この世の栄華が、あなた様の下にあるために。今少し、冷静になられてください」
一体自分がどんな立場から、これを言っているのか、ジグルトにはわからなかった。
ただひたすら、体温すら感じられるほどの距離から、皇帝の足の傍で、頭を下げていた。
◆・◆・◆
春赤月が明け、ちまたでは婚礼と誕生の賑やかさがようやく終わり、またいつもの生活が始まると思われた。
ここから世界は、最も穏やかな春を迎える。冬が明けた直後の春赤月で、受胎目的の婚礼と一年前の婚礼で授かった出産が行われ、続く春白月で、土を起こし、種を蒔く農作業が始まる。
世間では家庭を持った男女が新しい生活を始めたというのに、レスキア帝国後宮は、いつまでも春赤月の混乱を引きずっていた。
「まあ無理もないんですけどね。ネバル国から後宮入りした王女は実は惹香持ちの王子で、初夜に立会人が皇帝の勘気に触れて誅 され、その後気分を害した皇帝が政務を放り出して丸二日花嫁の部屋に閉じこもり、かと思ったら三日目の夜の勤めを果たさずに皇帝の宮殿に戻ってしまったのですから」
茶を淹 れるフオルの手つきは丁寧だったが、口調は苛立っていた。
緋宮でも奥にあるセナとフオルの部屋は、二間続きしかない。フオルが寝起きしている小さな部屋は侍従の控えの場所だ。普段、フオルはセナの部屋でほとんど過ごしている。
外は気持ちのよい陽光で溢れていたが、セナとフオルは締めきった部屋から一歩も出ることを許されなかった。窓の外には兵士が立ち、ほんの少し窓を開けて換気することすら許されない。
セナはフオルが三度ほど訴えてようやく手に入れた茶を受けとった。
「ありがとう」
後宮が大騒ぎになったのは、花嫁が男で、立会人が殺されたことでも、婚礼が不成立になったことでもない。
無論それらも大騒ぎだったが、皇帝がその後、春赤月に一度も後宮を訪れなかったことが問題なのだ。
今回の春赤月は十五日間あったのだから、ネバル国との婚礼後は、それぞれの妃のもとへ渡るはずだった。
ところが皇帝は、気分を害したという理由で、誰のところにも向かおうとしなかった。
「気分を害したのはこっちだっつうんですよ。あの役立たずの第一書記官が」
フオルは顔をくしゃくしゃにして後宮付き第一書記官のジグルトを罵った。
「もう少しまともな理由を考えればいいのに。これじゃ、セナ様一人が憎まれて当然ではありませんか」
自分で気づいているかどうかはわからないが、フオルはいつの間にか「王子」から「セナ様」とセナを名前で呼ぶようになっていた。
皇帝との初夜の後から、フオルとの距離が近くなっているのをセナは感じていた。
「陛下を悪い立場にできるわけがないのだから、ジグルト殿の行動は責められない」
他の妃へのお渡りがなされなかったのは、おそらく獣人化を懸念したのだろうと思われた。他の妃のもとへ通い、万が一にでも発情が獣人化を促したら、取り返しのつかない事態となる。
だが後宮の妃たちにとって、春赤月の皇帝との閨は、何よりも大事だったものだ。最も妊娠する月だ。一年、この日を待っていた者もいるだろう。二十人の妃の怨嗟は当然、春赤月で皇帝の不興を買い、婚礼を血で汚したネバルの王子に向けられた。
特に、先の冬赤月で失態を犯し、この春赤月が挽回のいい機会だったバルミラ国王女の怒りは凄まじかった。ネバルは歴史上、バルミラ国の属国であった時期が長かったため、余計に怒りは激しかった。
後宮では、妃らが率先して、ネバルの王子を王宮から追放しろ、後宮手前とはいえ、緋宮に男がいるだけで不快だ、と叫んでいる。政治に口を出してはならない立場の後宮が、声を大にして叫んでいる有様に、皆が困り果てていた。
後宮を統括する皇后自身がそれを止めないのだから、増長に拍車がかかっている。
侍従控えの間の向こうには、衛兵二人が立っている。衛兵なので、何を訊いても答えないし沈黙している。しかし彼らがいるおかげで、直接的な嫌がらせはされてこない。食事を止められたり、洗濯が滞ったりするくらいだ。洗濯ぐらいは、フオルが入浴の際にさっさと済ませてしまう。
「皇后様は賢い方と聞いていましたが、そうでもないですよね」
相変わらずフオルは容赦ない。しかし、セナの考えは違っていた。
「賢いよ。女性にとって、春赤月の存在がどれほど大切か、皇后様はよくわかっていらっしゃる。国の期待を背負って嫁いでいるんだから、妊娠したくて当たり前だろう。それを反故にされては怒って当然だ。ここで妃様方を鎮める方に回ったら、皆さま、バルミラの妃様についてしまうかもしれない。後宮の空気を読んでいるだけだ」
「そのせいで緋宮には誰一人寄りつかず、私たちの食事さえ滞る有様ですぞ。レスキア帝国王宮で飢え死になど、ばかばかしくてやっていられません。三食出るなら、牢の方がマシでは?」
全くフオルは強いとセナはつい笑ったが、確かに、緋宮の奥深くに閉じ込められて一歩も外に出られず、行動を禁止されているのだから、牢と変わりがない。
「……皇帝の秘密を知ったのだ。ジグルト殿にとって、私たちを生かしておく理由は、後宮の非難を向けられることぐらいだろうよ」
「本来ならあいつらが受けるべき非難ですけどね」
「しかしまあ、レスキア皇帝も第一書記官も、えらい言われようですな」
いきなり部屋の中に響いてきた声に、セナは中腰になった。いつものクセで腰に手をやるが、そこに剣はない。後宮で佩剣は許されていない。
乳母夫のジドに鍛えられ、そこそこ剣の腕はある方だと思っていたが、部屋の扉が開いていたことにも気がつかないとは、腑 抜けたか、それともこのやってきた男が相当手練れなのか、セナにはわからなかった。
なぜなら、やってきた男は、
「初めてお目にかかります、ネバル国王子。レスキア帝国宰相・ダリオンでございます」
まだ四十代前半に見えるが、本当に大国の宰相か、わかりかねる雰囲気を醸し出していたからだった。
「先程、皇帝のヒミツとか何とか聞こえましたが、駄目ですよ。こうして私のような地獄耳もおりますから。陛下のモノは思った以上の大きさじゃなかったなんて、噂になったらどうします。アハハハハ」
ダリオンは一人でウケて膝を叩いているが、セナはどう返せば良いのかわからずに困惑した。フオルにいたっては、あからさまに苦虫を噛み潰したような顔を向けている。
セナは自分が座っている場所から近い椅子に座るようダリオンに勧めた。ダリオンは椅子を軽く持ち上げ、勝手に距離を縮めて椅子を置き、そこに足を組んで座った。それを見たフオルは、セナのおかわりの茶を淹れても、ダリオンには何も出さなかった。
レスキア帝国の宰相は、若かりし頃から皇帝に重宝され、宰相へと大抜擢された切れ者だと聞いていたが、目の前の男は人を食ったような雰囲気を漂わせているだけで、威圧感が少しもない。
文官上がりなのだろうが、体つきはすらりと引き締まり、腰の落ち着け方はまるで武官のそれである。先程、気配を感じさせずに近づいてきたことからわかるように、剣術は極めているだろう。顔つきは穏やかだが、中身はかなり警戒すべき人物のようだった。
「実は私は、異性より同性の方が好みなのですが、残念ながら純血種なものですから、惹香の匂いと言われても全然わかりません。お姿には反応しそうなんですけど。アハハハハ」
何を言われているのかセナは頭が回らなかった。
フオルが「あの、すみませんが帰っていただけますか?」と吐き捨てなかったら、冗談とも思わなかっただろう。
「ばかにされています」
フオルの耳打ちにダリオンは慌てて手を振った。
「してませんしてません、私なりの距離の縮め方です」
「失敗しています」
「気の強い小人と聞いていたが本当だなあ」
「ご用件は」
「うーん。ここの生活は、困っていないか? ジグルトはほったらかしにしているし、何かと王子は不自由なさっているだろう?」
「飯だけでもちゃんとください」
自分を無視してやりとりされる言葉の応酬に、セナはついて行けなかった。ひたすらダリオンとフオルの顔を追う。
「飯ね。了解した。生活は困らないようにしよう。その代わり……」
そこで、フオルに向けられていたダリオンの目が、セナの方に向けられた。
「この王宮を出て、離宮へ移っていただきます」
事実上の、幽閉だった。
* ・*・ *
この世界の暦は、月の現れ方でその日数に変化が生じるが、一年はだいたい二百七十日前後である。
そして胎児が、母親の胎内にいるのも、およそ一年間だ。春赤月に宿った子どもは、一年後の春赤月に生まれてくる。
一年に四回ある赤月の中でも、春赤月の期間はおよそ十九日で、最も長く月が赤い。他の赤月は十八日、それ以外の月は十七日前後となっている。
今回の春赤月は十五日間だった。いつもに比べると、少ない日数である。
「その前の流月も、早かったですよね。十四日で月が変わってしまったんですよ」
フオルが空に浮かぶ白月を見上げながら呟いた。
王宮は広々としているせいか、庭先まで出ていかなくても緋宮の窓から月の姿をはっきりと捉えることができた。
「そうだな。レスキアに来る途中、赤月の入りが早まると言っていたものな」
フオルに頷きながら、ふと、セナは最後にネバルで過ごした冬赤月が、やたらと早く終わったことを思い出した。
「月の暦に、誤差が生じているんですよ」
「そういえばフオル、前も同じようなことを言っていたな」
窓辺で月を見上げていたフオルは、寝椅子に身を横たえ、書物をめくっていたセナに近づいてきた。
「春赤月から、今宵で二十二日ですが、お身体に、変化は」
子を身ごもっていないかどうか訊いているのである。
セナは何とも答えようがなかった。もともと女の生理のない身体である。どう自覚して良いのかもわからない。
悪阻などではっきりとした変化が出るのも人によるだろうが、二十二日ではまだ早すぎると思われた。
フオルが早く知りたい理由は、もしも子を身ごもっていれば、ここから追い出されずにすむかもしれないからだ。
「……しかし、子を孕んでいたとしても、妃の位が下 賜 されるとは思えない」
「少なくともお立場は守られます」
フオルには申し訳ないと思う。ここを出て、離宮へ移るとなると、どんな生活が待っているかわからない。
ダリオンが離宮行きを告げに来てからは、食事など生活面は困らなくなった。まだ正式には通達されていなかったが、離宮に移すとダリオンが後宮に伝えたのか、後宮の妃らも少しは苛立ちを収めた様子で、嫌がらせをしてくることもなくなった。
皇帝も以前のように後宮に定期的に通うようになり、混乱もようやく落ち着いたところだ。
「何の役割も果たせず、国にも申し訳ない」
国を思うとセナは心が沈むが、フオルはそれに対してはあっさりとしていた。
「けど、こうなるの、わかりきっていませんでした? そりゃあ私も、あわよくば陛下が惹香の匂いに夢中になって、無事に妃となることができれば御の字と思っていましたけど……夢中になりすぎ。こっちの責任じゃありませんよ」
ネバルもレスキアも、無理難題を押しつけすぎだとフオルは言い切った。
「それを、全部ご自分のせいにすることなどないんですよ。あとは、どうやってこの局面を乗り切るかです」
だがセナは王子という立場から、母国の状態が気になって仕方なかった。婚礼が成されなかったと見做され、新たに姪を差し出せなどと、レスキアはネバルに無茶を言ってはいないだろうか。
何の役にも立たない惹香嚢持ちが、またしても役に立たないどころか、国を窮地に追い込むことをしてくれた──そんな声が、聞こえてくるようだった。
いや、聞こえたとしても構わない。母国がいまどういう状態になっているのか、教えて欲しい。だが、後宮の侍従らはここには寄りつかず、母国の大使すら訪れない。禁じられているのかもしれないが、セナは焦燥でどうにかなりそうだった。
唯一答えられる立場にあるのはジグルトのはずだったが、あれから一度もここを訪れていない。宰相のダリオンがやってきたときは、離宮に移される衝撃で何も訊けなかった。
「御子さえできていたら、万事解決しますよ」
そうフオルは言うが、セナはどうしても子どもという存在を思い描くことができなかった。
惹香嚢持ちとして育ち、惹香嚢が子を孕むとわかっていても、男を受け入れるなど、ここに来るまで想像もしなかったのだ。
男として産まれ、男として育ち、男として死ぬ一生を、疑いもしなかった。
ふと、部屋に翳 りが走った。月に雲がかかったのだろうか。
部屋の灯 火 をつけるようにフオルに告げようとすると、フオルは何を思ったか、窓辺に小走りで向かった。
そして、窓の外の月を見上げ、動かなくなった。
「フオル? どうした」
「……白月が、流れます」
「え?」
「……白月が……終わる」
白月は、その名の通り白く、この月が浮かぶとき、夜は最も明るい。
白月の次に現れるのが宵月で、空に滲むような大きな円を描く。
「白月が終わる……まさか……今日でまだ、九日間しか経っていないというのに」
フオルが顔をしかめて月を食い入るように見ている。
「神隠月に入るのか?」
十数年に一度、空に、月が浮かばない闇の七日間が現れる。
月の暦に乱れがあると、神隠月が起こりやすいと言われている。世界の神・竜王が眠りにつくからだと言われているが、フオルはそれを単純に暦のズレだと言っていた。
「いや、単なるわずかな日数の誤差ならば、それは単純な暦のズレのはずなんですよ。ですが、七日間以上もこんなにズレが生じるなんて、おかしいですよ」
フオルは月を見上げながら、おかしい、おかしいと繰り返した。
暦が大きく狂えば農作物に影響が出るのかもしれないが、セナはフオルほど不穏にも思わなかった。
「前の神隠月は、ちょうど十年ぐらい前じゃなかったか? これも定期的なのかもな」
「十年前の神隠月は、いきなり月が変わったりしませんでしたよ」
本当にフオルの観察力はすごい。フオルはしばし月を睨んでいたが、腰に下げている袋から筆記用具を取り出し、何やら記録し始めた。
書くことに熱中してしまった侍従のかわりに、セナは部屋の灯火をつけて回った。
「しかしフオル、こんなに早く白月が明けて、もし神隠月に入ってしまったら、またも後宮は不満で騒がれるだろうな」
「ああ! そういえばそうですね!」
神隠月は、生命が一切誕生しない月と言われている。
人間どころか、動物も虫すらも誕生しないと言われているが、まさかそんなことはないだろうとセナすら疑っている。
だが世間ではその七日間は生命が生み出されないと信じられている。ゆえに、後宮も閉ざされるのだ。子が成せないのに、後宮へ通う意味などないというわけだ。これは、セナの国ネバルでさえそうだったのだから、レスキアの後宮など当然だろう。
「神隠月で誕生するのは、竜王しかいない。それが通説ですからね」
「民は沈黙せよ、だ」
「また後宮からの風当たりが強くなりそうな。明日の朝は、念のために食事の量を多めに注文しておきましょう」
そこまで八つ当たりしてこないだろうと思ったが、フオルは月の記録のためにペンを走らせるのを止め、別の紙に差し入れの注文を記し始めた。
そして次の夜から、世界は闇に包まれた。
神隠月の七日間の始まりだった。
神隠月が始まってから、後宮への皇帝の渡りはなくなったが、またしてもその鬱憤が緋宮に向けられることになった。
神隠月二日目の夜の食事が運ばれなかったが、フオルは衛兵に訴えることもせず、取り分けておいた肉やパンを皿に丁寧に盛り付けた。
「ほらね。食事を多めに頼んでおいてよかった」
「七日間だけだから。多少、我慢すればな」
フオルはスープの代わりに、酒をいつも以上に杯に注いだ。
「これが春でよかった。冬だったら、薪を止められます」
「そうだなあ」
あっけらかんとしているフオルのおかげで、嫌がらせを受けても悲惨さがない。
月がないと、時間の感覚がなくなる。日が昇り、太陽が光を届けるまで、やたら長く感じられる。早めに就寝しようと、セナは寝台に横になった。フオルが毛布をいつもより重ねてくる。
「月がありませんと、冷たい夜に感じますからね」
「そうだな……ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
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