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Ⅰ 後宮-3

 ジグルトは、春赤月最初の皇帝の閨が行われている緋宮に入った。  人払いされているため閑散としており、緋宮最奥にある今宵の寝所まで、ジグルトは赤い月の誘導だけで進んだ。  緋宮は名の通り、廊下に敷き詰められている石まで緋色である。それが赤月の光を受け、隠れた血のしみがぽつぽつと浮き上がっているかのようだった。 (どうやら俺は不安を感じているらしい)  ジグルトは、花嫁が惹香嚢持ちの王子だと皇帝に告げなかったことを、今更恐れている自分に(わら)った。  あの陛下が、本当に男を抱けるのかどうか、職務を忘れ、興味を優先させた。第一書記官にあるまじき行動である。 (それを知ったところで、どうにかなるわけではあるまいに)  つくづくばかなことをしたと思ったが、どんな怒りを向けられようが、甘んじて受けようという覚悟は定まった。  衛兵二人が守っている扉を開けると、寝所の手前で、王子の侍従の小人が身を固くさせて椅子から立ち上がった。 「立会人は、まだ出てこないか」 「まだです」  長くはないかとジグルトは眉をひそめた。もう夜半過ぎ、皇帝が緋宮へ入って四時間は経過しているはずである。  なかなか、行為に及ぶことができなかったのだろうか。それとも、やはり男相手では、責務とはいえ陛下も遂行できなかったか。  その時、寝所の扉がわずかに動いた。小人が扉の取っ手にしがみつくように開ける。  次の瞬間、扉の向こうから流れてきた匂いに、ジグルトは眩暈(めまい)を覚えた。  濃厚な、甘い、むせかえるような匂いが、吹き出してくる。  熱と湿度で高まった部屋から解放された空気は、ジグルトの方へ襲いかかってきた。 (何だ。なんだ、この強烈な香りは)  瞬時に鼻を覆ったが、濃密な香りはジグルトの身体にべっとりと貼り付いた。あっという間に脳が刺激され、血流が激しく騒ぎだす。混乱の中で、ジグルトは悟った。  惹香の恐ろしさを。  開かれた扉の隙間から、立会人の後宮侍従が顔を出す。  両性体である。これほどの匂いの中にいても、影響は受けまいと思えたが、その顔は蒼白、顎は震え、視線は泳いでいた。 「しっかり、報告しろ。成されたか」  ジグルトが鼻と口を覆いながら詰問すると、立会人は歯をガチガチと鳴らし、声を絞り出した。 「じゅ……獣化」 「何?」 「陛下が、金獅子獣人に」  次の瞬間、立会人の声は消えた。  ジグルトが見たのは、立会人の心の臓をまっすぐ突き刺している剣先だった。  それがずるりと引き抜かれるとともに、立会人は絶命し、床に倒れ込んだ。  緋色の床に血が広がるのをしばし見つめたジグルトは、扉の向こう側に立つ男にゆっくりと目を向けた。  うねりを描く黄金の髪が、肩を覆い、広がっていた。  顔は人間のままだったが、髪を分けて頭の上に突き出ている耳は、動物のそれだった。  荒々しく息を吐く口からは牙が見え、剣を握りしめる腕はいつも以上に太く、指先からは鋭い爪が生えていた。切り裂かれたような布を腰に巻きつけているだけの恰好で、筋骨たくましい身体には玉の汗が浮いていた。  ジグルトは、自分が目にしているものが何なのか理解できなかった。見慣れている顔のはずなのに、脳が拒絶しているのか認識できない。  この男は、この獣人は、陛下なのか。それとも全く別の獣なのか。狂気を孕んでいるかのような目を向けられた時、思わず悲鳴を上げそうになり、唇をみしめた。 「……初夜が成したか、成されなかったか、立会人はそれだけを報告すれば良い。余計な事を話せば、殺されて当然だ。そう思わんか、ジグルト」  ジグルトは、血走った目で己を見据えてくる皇帝の、それだけはいつもと変わらぬ声音を聞いた。 「惹香嚢持ちの男と、なぜ教えなかった?」 「……陛下」 「ダリオンに俺が獣人族だと聞いたのか?」  ジグルトは頭を殴られるような衝撃を受けた。震える唇を開き、やっとの思いで声を出す。 「宰相は、ご存じなのですか?」  ジグルトの反応に、皇帝は睨み据えていた目をわずかに改めた。 「これの侍従は」  小人が弾かれたように立ち上がる。殺された立会人と、皇帝の姿に、腰を抜かしていたらしい。それでも反応したことにジグルトは驚いた。まだ、自分は衝撃で身体が動かせない。 「見てやれ。……殺してはいないと思うが、わからん」  扉の向こうに戻った皇帝に続いて、小人が中に飛びこんだ。  許可はもらっていなかったが、ジグルトもふらふらと中に入った。  目の前の光景が歪んで見えるのは、この現実に頭がついていかないからか。それとも、人を狂わせる、惹香の濃厚な空気が漂っているからか。どちらにせよ、ジグルトは立っているだけで精一杯だった。 「王子、王子! お気を確かに!」  天蓋つきの寝台は布で覆われており、中の様子はジグルトからは見えなかったが、小人が寝台の周りをぐるぐる回っていることはわかった。寝台に眠っている主に声をかけているが、目を覚ます様子はないらしい。天蓋の布がめくれあがり小人が飛び出してきたかと思うと、水差しを持ってすぐに戻ってきた。  皇帝は布一つ巻き付けただけの姿で、窓の傍に立っていた。興奮が収まらないのか、背中の筋肉が激しく上下している。肩を覆う髪は背筋にも続いており、黄金のたてがみが揺れていた。 「身体は! けがはしていないか!」  苛立ったように皇帝は小人に叫んだ。 「ご、ご無事です。命にかかわるほどのおけがはなさそうですが、陛下、恐れながら、き、牙と爪を、収めてくださいませ」 「どうやったら収められるのかこっちが訊きたいくらいだ。惹香の匂いが消えぬうちは、人間の身体に戻ることもできぬ!」  激高した皇帝が、天蓋から寝台に下がる薄衣を爪で裂いた。そのまま、力任せに布を引く。  小人の悲鳴とその有様に、ジグルトは身動きできなかった。あの冷静沈着な皇帝が、こんなに興奮するとは。獣人の血が騒いでいるとはいえ、ジグルトには信じられなかった。  裂かれた布が翻り、寝台に横たえられた肢体があらわになった。  すらりとした足の間は、血にまみれてはいないようだったが、足にも手にも身体にも、細かく獣の爪痕が浮かんでいるので損傷の程度がはっきりとわからない。白濁した液体にまみれ、日に焼けた身体は、月明かりを受けて煌めいた。  惹香の匂いが、王子の股間からあふれ出ているのが、見えるようだった。わずかに開いた足の間から、まるで煙のように漂っている。香気は淫靡にゆらめき、またしても雄を誘う。 「……どけ……出て行け」  香りに誘われた発情する獣が、ふらふらと近づいていく。小人は悲鳴を上げながら、寝台の上に乗り、ひれ伏した。 「後生でございます、どうか、どうか、これ以上は! 婚礼でございます、これは婚礼でございます! 死に至らしめるものではございますまい!」 「どけ! 噛み切られたいか!」 「抑制薬を飲んでいただきます! このままでは(らち)があきません。惹香が分泌される間ずっと性交を続ける羽目になり、陛下は獣化を止めることはできませんぞ! 抑制薬を!」  小人が腰に巻き付けていた袋を差し出す。 「お飲みください。王子の、惹香の分泌を抑える薬ですが、獣人族の興奮を抑えることも可能なはず。一つといわず、二つ、三つ、お飲みください!」  小人がぶるぶると震える手で握りしめる袋を、皇帝はもぎ取るように奪った。袋の中のものを手のひらに受け、口の中に放り投げる。  皇帝の手から零れ落ちたものを小人は拾い上げると、気を失っている王子の口に運び、そこに水を注いだ。 「王子、王子、起きてくださいまし、抑制薬を、飲まなければ」  小人は必死だった。このままでは主が殺されてしまうと思っているのだろう。半開きの口に少しずつ水を注ぐが、主の口からは水がだらだらと流れるだけだった。(えん)()すらしない。  窒息するから止めろとジグルトが告げようとした時、先に皇帝の身体の方が動いた。小人から水差しを奪い取り己の口に注ぐと、王子の身体を片手で抱え上げ、口移しで水を飲ませた。反応しなかった王子の身体が、わずかに動く。  口を塞がれる息苦しさに身体をくねらせているだけだというのに、皇帝の膝の上に抱え上げられたその肢体は、眩暈がするほど()(わく)的だった。足が、指が、寝台の上を泳ぐ。わずかな動きだけでも濃密な色気を放っていた。  これは、自分が惹香の匂いにやられているからそう見えるのか。混乱の中で、ようやくジグルトは自分の股間に気がついた。この恐ろしさからか、それとも純粋な性欲か。己の男根は、屹立し震えていた。 「王子」  皇帝の腕の中で、王子は目を覚ましたようだった。おそるおそる、小人が声をかけている。  皇帝は、身動き一つしなかった。腕の中にいる者を、初めて目にするかのように、まじまじと見つめている。そんな皇帝を、ネバルの王子がどんな目で見つめ返しているのか、ジグルトからは見えなかった。  その時、焦燥と混乱しかなかったその場に、言葉が放たれた。 「レスキア皇帝は、獣人族であらせられたか」  先程まで死人のように気を失っていた人間とは思えぬほどの、はっきりとした口調だった。  いや、事の重大さに、ジグルトの耳がそう捉えたのかもしれない。  侮蔑もない。恐怖もない。ただ、事実を淡々と述べるがゆえに冷めた、まるで天からの詰問のようであった。  それを皇帝がどう聞いたのかわからない。背中のたてがみが増え、唸り声が放たれた時は、王子が殺される、とジグルトは思った。だが皇帝がした行動は、王子の身体を抱え上げ、その中心を貫いたことだった。王子の悲鳴が唸り声に重なる。 「陛下!!」 「出て行け!」  ジグルトは皇帝の、金獅子となった顔を見た。  獣の鼻、獣の口、獣の牙、獣の目。もはやそこには、ジグルトの知る皇帝はどこにもいなかった。  黄金の獣に転がされた小人の襟首を摑むと、ジグルトは寝所から飛び出した。扉を閉め、小人を床に放り出した時、そこに倒れている立会人と血の広がった床が目に入った。  どうする。どうなる。どうすればいい。  ジグルトは、混乱する頭の中を必死でまとめようとした。  床に手を突いた格好で、小人が自分を見上げているのがわかった。恐怖と混乱で顔は蒼白だったが、視線だけは力強くジグルトを睨み付けてくる。お前、この状況をどうする気だと語るその目を見て、ジグルトは冷静さを取り戻した。  そうだ。何を恐れる。  母の身分が低い一介の皇子を皇帝の座につけようと、ダリオンと闇の中を走り回っていた時に比べれば、どうということはない。 「お前、ただの小人の侍従にしては、見上げた奴だ。殺すには惜しい。俺はこの立会人を片付け、これからの調整をする。お前はここから、陛下と王子のお世話をするのだ。一任するぞ。レスキア皇帝のあの姿を、今後誰かが噂でもしたら、お前しか俺は疑わない。わかっているな?」  小人はジグルトを見据えたまま、無言で頷いた。ジグルトは身をかがめ、小人に訊いた。 「獣人族については詳しいか。俺はあまり良くわからない」 「抑制薬の効果は明日には出るかと。しかし、王子側がどこまで抑制されるかはわかりません。惹香は赤月に七日間放たれると言われておりますが、それも確かではありません。一つわかっているのは、惹香が収まらなければ獣人は収まらないということ。あのご様子では、陛下は日中、公務に戻ることすらできませんよ。抑制薬が効き、興奮が収まるまで、牢にでも隔離しておくしかありません」 「皇帝にそんなまねできるか」 「王子を、ですよ。実際あの方は、ネバルでは赤月の間、牢に閉じ込められておりました。ネバルは王宮にも獣人族が多いので」 「お前、主を牢になど、よく言えるな」 「殺されるよりはマシです」  確かにあの様子では、皇帝は花嫁を喰らい尽くしてしまうだろう。 「よし、わかった。お前、中の様子をうかがいながら、お世話に入れ」  まずは立会人を片付け、ハーモンにこの事態を取り繕ってからだ。  ジグルトは身体を起こし、緋宮から出ようとした。  だが、緊張と恐怖で硬化した足は思った以上に強ばり、一歩前に進み出すことも困難だった。もつれそうになるのを何とかしながら、一歩、一歩、意識しながらジグルトは進んだ。  やって来た時よりも、緋宮の廊下には、赤い斑点が広がっているように見えた。  赤月はすでに傾き、朝の光が訪れようとしていたが、緋宮の赤は、濃さを増していくようだった。       * ・*・ *  立会人が皇帝に殺害された理由は、惹香による錯乱により、皇帝の怒りを買ったとジグルトは後宮侍従長・ハーモンに告げた。 「なんと! 両性であっても惑わされたと!?」 「詳しくは陛下に伺わないとわからない。だが緋宮はまだ誰も近づいてはならない。ネバルの王子も不興を買い、どうなるかわからない。後宮はしばし、沙汰を待て」  立会人が死に至り、婚礼が血で染まった事態に、後宮は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。もはやネバル国からの花嫁が何者であるか、隠してはおけなくなった。  後宮の混乱はハーモンに任せ、ジグルトは朝になっても皇帝が戻らない王宮へ走った。皇帝が後宮にて体調を崩し、本日は戻ることができないと(ほう)(ぼう)に語るだけで数刻、時が飛んだ。ようやく宰相・ダリオンの下へ報告に来た時には、もう太陽は真上にあり、皇帝が緋宮にて初夜に及んだのは惹香嚢体の王子だったと皆が知るところとなっていた。 「あほう」  人払いさせた宰相の執務室で、ダリオンは椅子で足を組みながら、入ってきたジグルトに開口一番そう言った。 「……だって教えてくれなかったじゃないですか」  ジグルトの口から、つい昔のような口調がこぼれた。ここにきて気が緩んでしまったらしい。ジグルトは唇を噛みしめたが、ダリオンはいつもの飄々(ひょうひょう)とした笑みを浮かべているだけだった。  執務室とはいえ、ここは主に大臣や各国の要職を招く場所なので、壁紙や調度品も華美である。花ひとつ飾られていない皇帝の執務室とは正反対のきらびやかな空間だが、各国からの献上物も精巧な作りの(しょく)(だい)も、じっと息をひそめているようだった。人の気配を完全に排除している。 「他には?」 「俺だけだな」  皇帝が獣人族であることを知っているのは宰相ダリオンだけであると、言葉少なに確認し合う。  ダリオンの人払いは完璧だったが、どこに耳が貼り付いているかわからない。  それほど、皇帝が獣人族であるという事実は、秘匿しなければならないことだった。  この社会では、異能種獣人族は純血種の人間に比べ、能力的に劣っているとされている。  あからさまな差別こそないが、獣人は階級的に労働者や一般兵士に多く、レスキアの貴族や富裕層階級にはおそらく一人もいないので、獣人というだけでその血統を煙たがる者は多い。良家の子女で、獣人と結婚したいと言い出す者がいたら、親は顔をしかめるだろう。  レスキアは、四大国の中で、最も社会の階層が厳密化されていない。  レスキアはいち早く能力至上主義を訴え、貧民の出であっても、才能さえあれば出世させてきた国家である。だからこそ、最も大きな国土と経済力、軍事力を築き上げてきた。発展させる力は、剣からだけでは決して生まれない。  出世さえすれば、貴族の娘を(めと)ることもできたし、貧民から智謀の将軍にのし上がった者もいれば、策謀により宰相にまで成り上がった者もいる。  ダリオンなど、その典型だった。  ダリオンは平民出身ながら、学都に推薦され、卒業後は第一書記官にまでなった。  そして、前皇帝の死後、大混乱に陥ったレスキア王室を影で翻弄し、皇帝の素質は随一であっても、母親の身分が低いせいで(ちち)(おや)に煙たがられていた第三皇子・アリオスを皇太子へと押し上げたのである。  母親を早くに亡くし、父親に疎まれたアリオス皇子を前皇帝の皇后は気にかけていた。皇后の生んだ皇太子が早世した後、皇后派がアリオスに流れたのは、そうした理由があった。 「今考えると、俺もよくこんな危ない橋を渡ったと思うが」  三年前に満を持して宰相の座に就いたダリオンは現在四十五歳、少しも危ないなどと思っていない声音で淡々と語った。 「ボンクラどもを崇める理由はないからなあ。……しかし前帝は嫌ってらっしゃった。理由は、その血、だな」  完全な獣化はせず、尻尾、耳のみしか変わらない半獣人もいるが、普段は皆それを隠しているため、獣人族かどうか判別できない。  おそらく皇帝の母は、獣人族の血が濃かったのだろう。そして前皇帝は、生まれた子が母親の血を強く受け継いでいることを知っていたに違いない。  皇帝の母はもとは王宮に出入りした踊り子で、その美貌に皇帝が愛妾にと望んだが、当然妃の位までは得られなかった。病に(かか)り、ひっそりと息を引き取った皇帝の母を知る者は少ない。  種族の血は母親から受け継がれることがほとんどだ。レスキア皇帝の子は六人いるが、獣人族の血が出ている者はいない。万が一、子どもにその血が現れていたら、どうするつもりだったのか?  おそらくは先祖返りを理由に、母方の血であると言うつもりなのだろう。もとを辿れば、どこかで獣人族の血を引く。辺境ならば、三代前が獣人であってもおかしくない。 「しかし……万が一にでも明るみに出れば」  皇帝の称号を失うのは確実。レスキア国王の地位さえ、追われることにもなりかねない。  ジグルトの声は自然に掠れたが、ダリオンの口調は変わらなかった。 「神山(シド・ザム)は絶対に許すまいな。あそこの階層意識は、何千年経っても変わることがない。下層は上層に絶対服従だ」  神山とは、世界の神・竜王が鎮座する場所である。  そこには竜王と、古来より竜王に仕える神官一族しかいない。  厳格な身分社会で構成されており、竜王に侍り、時に四大国に対して口出しまでする階層は、上位神官の家柄に限る。  四大国の王族は、この上位神官の家系と一緒と言われている。上位神官は、もとは四つ、今は三つの家柄しか残っていない。  四つの大国から皇帝を選ぶのは竜王であり、ひいては神山なのだ。  彼らにとって下層の種である獣人族が皇帝などと知られては、問答無用で廃帝となるだろう。 「しかし、明るみになどならんだろう? お前のことだからな」  ダリオンの飄々とした笑みの裏側に、冷酷さがにじみ出る。それを片目で捉えながら、ジグルトはこの秘密は、絶対に封じなければならないと固く決意した。  これを知ったネバルの皇子と侍従をどうするか。 「ジグ」  これからの算段を練っていたジグルトの頭は、久々に呼びかけられた呼称に、思考が中断された。 「……は?」  思わず間抜けな返答をする。 「お前、どうして陛下に、王女ではなく王子なんだと話さなかったんだ?」  ダリオンの表情からは、冷酷さがなくなっていた。薄ら笑いは残したまま、おもしろそうに訊いてくる。 「王子を抱いたからといって、あの方が男に興味を持つとは限らないぞ? あの方はこの国と皇帝の地位にしか関心がない」  このクソ狸、と内心吐き捨てながら、ジグルトはいつもの態度を取り戻して淡々と返した。 「男であると知れば、初夜が成立しないことを懸念したまでです。浅はかでございました。陛下のお怒りは、どのような形でも受けるつもりです」  ダリオンは喉の奥で笑いを噛み殺したような声を立てた。 「これからのことを話し合おうか? 久々に俺の邸に来い」 「この程度のことで宰相の手を煩わせることはいたしません。報告は、忘れずにいたします。では、失礼します」  家で飼っている男娼相手に赤月を過ごしていろ、と裏で呟きながらジグルトは恭しく礼をし、マントを翻した。背中で受け止めたダリオンの笑い声は、機嫌が悪いものではなかった。  何も持っていなかった貧民街出身の子どもが、学都に留学して第一書記官の地位にまで就けたのも、ダリオンの庇護がなかったら到底無理だった。無論、役職を得てからは昔の関係は絶たれた。先程のような呼び方をされたのも、本当に久々である。  ダリオンが昔の態度で接してきたのも、つい気が緩んで情けない様子を見せた自分が悪い。ジグルトは寵童時代の記憶を振り払うようにして大股で歩いた。 (相変わらず、あのオヤジにとっては、俺は力のない寵童のままか)  今に見てろよ。ジグルトは己の失態を取り戻すべく、駆けるように後宮へ向かった。  二度、様子を見に中へ入ったが、惹香の匂いは収まっていないと小人は答えた。 「王子が気を失ってどうにも反応しなくなったと、陛下が私を呼びつけたので中に入りました。その際に食事を運びました。しかし陛下は、人間の姿に戻られていましたが、水を飲まれるくらいで食事すらなさらない。王子には私が何とか果汁と水を飲ませました。王子の汚れた身体を水場で洗っておりましたら、また陛下が発情なさり獣人化してしまって、追い出されました」  動物のように言うなとたしなめると、フオルという小人は顔をしかめた。 「他になんと言えば? あれは獣の反応ですよ」  最初は礼儀を知っている侍従かと思ったら、不遜な態度を少しも気にする様子はなかった。何かが吹っ切れてしまったらしい。 「ではやはり、獣人のままなのだな」 「陛下を寝室に閉じ込めて、王子をこちらに隔離するしかありません。このままでは精も根も尽き果ててしまいます」  興奮状態の皇帝に、そんなまねできるわけがない。 「ひとまず……落ち着かれて、話ができるようなご様子になるまでは待てば良い」  フオルの目が突き刺さるが、正直ジグルトは、王子がどうなろうと構わなかった。  皇帝の秘密を知ってしまった王子は、これから先扱いに困る存在でしかない。 「もうすぐ陛下の精も尽きよう」 「尽きませんよ。発情期なんですから」  ジグルトの言葉に、フオルはそっぽを向いた。 「だから、動物のように言うなというのに」 「単純に尽きないって話ですよ。惹香嚢は獣人にとって、興奮と発情を促す存在だけではありません。惹香嚢を持つ身体は、獣人の活力を増幅させるんです。なんで陛下が水だけで過ごし、食事を必要としないかわかります? 王子の精液を飲んでいるからなんですよ」  その説明に、ジグルトは絶句した。話の中身にもだが、フオルが動物の行動特性を淡々と語るかのように話すので、頭がついていかなかったのである。 「惹香嚢の身体は、体液全てが獣人の餌であり、薬でもあると言われています。存在全てが魅惑そのもの。食い物にされる惹香嚢持ちは、たまったものではありませんね」  精力活力を与える、とハーモンが話していたことを、ジグルトは思い出した。  存在そのものが、魅惑。  自らの意思さえも支配されてしまう、惹香という存在。  婚礼二日目の夜、ジグルトは、固く閉ざされた扉を見つめるしかなかった。

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