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大型新人降臨
「俺が教育担当ですか⁉︎ 新卒の⁉︎」
三月末、毎年恒例となった上長面談の最中に思わず声が上擦った。大体期末面談といえば新しいプロジェクトや人事異動の話が多い。しかし、まさか新人の面倒を見ることになるとは思っていなかった。突然の大声に驚いた部長の肩がわずかに跳ねる。
「お前今やってるプロジェクト、ひと段落しただろ。それに朝霧 の下は働きやすいって声が結構上がってくるもんだから、よろしく頼む」
「皆適当に言ってるだけですって、真に受けないでくださいよ。……ちなみにその新卒、どんなやつなんですか」
部長が腕を組んで少し唸る。なんだよ、そんないわくつきみたいな新人、俺に寄越さないでくれ。
「どうやらT大法学部を出ているみたいでな。なんでうちを志望したのかよく分からないんだ」
「えっ、本当ですか? 俺、底辺私大出身だから全然ついていけないと思うんですけど」
「面接を担当した人事からは特に問題報告は上がっていないから、まあ大丈夫じゃないか」
聞けば聞くほど問題しかないように思えてきた。T大法学部といえば、官僚や弁護士を多数輩出していることで名が通っている。そんなエリートの指導なんてまっぴらごめんだ。
「正直無理ですよ。俺みたいな頭も良くなくて適当な人間には荷が重すぎます」
「頭が良ければ下がついてくるってわけでもないんだぞ。まあマネジメントについてはまたおいおい教えるが。細かいスケジュールは別日で打ち合わせしよう」
軽く躱されてしまった。最悪だ。その後業務についてのフィードバックをもらってミーティングルームを出ても、依然気は晴れない。季節の変わり目だからか曇りの日だからか、窓から見える景色もどんよりとしていた。
新人は社内研修やらビジネスマナー研修やらを終えた四月の中旬頃にコンサル部に来るらしい。人事担当の佐藤さんが色々と入社後の段取りを教えてくれた。
佐藤さんは数少ない女性同期の一人で、すれ違ったときに立ち話をする程度の仲だった。最近人事部に異動になったばかりとは思えないほどに仕事ぶりが冴えている。
「貸与パソコンとスマホの初期設定はIT部とこっちでやっておくけど、コンサル部で使うアプリ設定とかは朝霧くんがやってね」
「分かった……ていうかさ、俺の担当する新卒ってどんなやつか知ってる? 天下のT大法学部卒ってことしか部長が教えてくれなくて」
「顔写真も見てないの? 教育担当には履歴書見せても良かったと思うけど……今出すよ」
佐藤さんがわざわざパソコンを開いて履歴書データを見せてくれた。名前は「東 亮丞 」というらしい。
名前の横に添付された顔写真を見る。綺麗な顔だな、というのが第一印象だった。しかし、なんだか覇気がない。前髪重めのマッシュヘアで就活用の写真を撮っていることが関係しているのかもしれなかった。昨今のリクルーターはこの辺りを注意してくれないのだろうか? さすがに入社するときには前髪切って来いよと願ってしまう。
前髪から覗く太めの眉と、ぼんやりした目。さらに口元の黒子も相まって、二十代前半とは思えない妙な色気がある。俺の言うことを素直に聞きそうな顔では無かった。大丈夫なんだろうか、本当に。
「正直この大学出てうち来るって、就活よほどサボったかしくじったかの二択っぽくない? あとは文房具が大好きとかそういう理由しか考えられないなあ」
「佐藤さんもそう思う? 俺、変なやつ来ないかすげえ心配でさ」
「まあ、ここで上手く育てられれば朝霧くんも部長に認められるでしょ。コンサル部でマネジメント得意そうな人いないし、いい機会だと思ってやってみたらいいと思う」
「俺は昇進とか本当に勘弁してほしいんだよ、なんで部長も俺に頼んだかな……」
履歴書に貼付された顔写真をもう一度眺める。リクルートスーツを着てすました顔では、人柄は分かりそうにない。佐藤さんに礼を言って人事部のフロアを後にした。
──新人が来るまで、あと三日。相変わらずため息の数は減りそうにない。
自分の仕事を片付けながら受け入れ準備を進めていると、あっという間に新卒がやってくる日だ。午前中に最後のオリエンを済ませた後、新卒が各部の教育担当に引き渡されることになっている。午後に東とかいう新卒と初対面というわけだ。
適当に買ってきた弁当を自席で食べながら昼休憩を取っていた。本日何度目か分からないため息を聞いて、隣に座っていた同僚の仁科 が呆れた調子で話しかけてくる。
「朝霧、お前どんだけ教育担当嫌なんだよ」
「仁科は人の面倒見るの嫌じゃないのか? プロジェクトリーダーやりながら元々やってた案件担当の日報まで確認して、本当にすげーよな。俺は無理だ」
「俺の把握してないところで何かある方が嫌なんだよ。俺も面倒見てもらった立場だから、何とも思わないな」
「信じられない。仕事ばっかの水無瀬 主任と付き合うやつはやっぱ言うことが違うな、お前が東の世話してやった方がいいよ」
「バカ、それ職場で言うなよ! 俺が怒られるんだから。……教育担当って教える側が色々学ぶことが多いから、やっといて損ないと思う。きっと終わる頃にはそう思えるはずだ」
俺の周りには真面目な人間が多い。なぜそういうやつらが教育担当を任されないのか本気で不思議だった。しばらく二人で話をしているうちに、昼休憩の終わりを告げるチャイムがフロアに響く。パソコンを開いてチャットを確認していると、背後から声を掛けられた。
「朝霧くん。東くん連れてきたよ」
振り返ると、佐藤さんと“東”と呼ばれた男が立っていた。
──え、デカくね? 身長いくつなんだ、こいつ。
小柄な佐藤さんと並んでいるからかもしれないが、ものすごく背が高いように見えた。それよりも気になるのが、東の顔周りだ。履歴書の写真通り、重めの前髪。さらに加えて襟足まで長くなっていた。入社前より悪化してんじゃねえかよ!
「今日から東くんの教育担当になる、朝霧くんだよ。しばらくは朝霧くんが色々教えてくれると思うからよろしくね。じゃあ、私はこれで」
佐藤さんは東に貸与パソコンとスマホを渡してさっさと立ち去ってしまった。東は前髪の隙間から俺のことをじっと見下ろしている。
「……佐藤さんから紹介があった通り、教育担当になる朝霧 詢也 です。よろしく」
東は小さく頷いて「こんにちは、よろしくお願いします」と挨拶しただけだった。ここで自分も名乗らんかい。ていうかオフィスで『こんにちは』って言うやつ、見たこと無いんだけど。無理矢理笑顔を作って話を続けた。
「今週のスケジュールとか簡単に説明するから、隣に座って」
「はい」
椅子に座ってすぐに東が口を開いた。
「あの……佐藤さんにコンサル部配属って言われて来たんですけど、俺は何をすればいいですか?」
隣で仁科が吹き出した。気が短い俺はあっという間に我慢の限界を超え、説明しようとしていた事柄が全部頭から飛んだ。
「あのなあ、お前こういうときは最初に名乗るもんだぞ。俺が先に名乗ってんだから、『東といいます、これからよろしくお願いします』の一言くらい言ったらどうなんだよ」
東は心底驚きました、みたいな顔で俺を見つめ返してきた。今の新卒って、こういう社会常識から教えなきゃいけないんだろうか。
「すみません……俺、東亮丞っていいます。朝霧さん、よろしくお願いします」
「分かればいいよ。あと一個聞きたいんだけど。髪型について人事から何か言われなかった?」
「え、髪型ですか? あー……就活の時にこれで問題なかったので、特に気にしてませんでした」
おそらく人事から指摘されたとしても、一切覚えていないような口ぶりだ。
「お前、すぐに美容院行って前髪と襟足切って来い。今の東の見た目だといらない反感買うぞ、おっさん世代にその髪型は印象が悪すぎる」
「了解しました。今週末とかに予約してすぐ切ります」
「上司とか先輩に返事する時は『承知しました』とか『かしこまりました』っつーもんだって。……まあ、気長に教えていくからちゃんと覚えろよ」
はい、と小さく東が返事をした。理解できれば案外素直に話を聞くところは安心だ。自分のカレンダーを開いて、今週の予定をようやく説明し始めた。スケジュール機能の使い方も一緒に教えてやると、時々メモを取りながら話を聞いている。ペンを走らせる横顔を見ると、写真では分からなかった細かいパーツが髪の隙間からちらりと見えた。ぼけっとしてるかと思いきや、目の奥には強い光が宿っている。するとメモを書き終えた東が急に振り向いた。少しグレーの混じった黒目が俺を捉える。
「朝霧さん、メモ終わりました。続き、お願いします」
「うわっ、びっくりした。ごめんごめん、じゃあ次は会議の招集かける時のやり方だけど──」
自分の目をまっすぐに見つめられると、他意はないと分かっていても少し身体が熱くなる。頭を振って無理矢理切り替えた。
しばらく夢中になってOJTをしているうちに、終業時間が迫ってきた。
「じゃあ明日は九時にこのフロアに来てな。俺の隣に座ってくれればいいから」
「はい、りょ──承知しました。明日もよろしくお願いします」
頭を下げる度に東の前髪がぱらぱらと顔に散るのが鬱陶しかった。しかし、言ったことを一度で覚えるのはさすがというところか。業務の説明をしている最中も、飲み込みはかなり早かった。
「夜更かしすんなよ。じゃあまた明日」
一礼してさっさと東はフロアを後にした。姿が見えなくなったのを確認してから、デスクの上に倒れ込む。疲れた。
「あれ、新人はもう帰ったのか。初日、お疲れ」
パソコンの隣にカフェラテが置かれた。東と入れ替わりで仁科が帰ってきたようだ。
「定時で帰らせた。もうこれ以上面倒見切れねーと思って。てかこれ、俺の分のカフェラテ? マジで助かる、仁科が年上好きじゃなかったらお前に抱いてもらいたいわ」
「何言ってんだよ、そうやってすぐ冗談言うよなお前。そんなことより、どうだった? 新卒。自己紹介もせずに『何すればいいですか』なんて言うから、思わず笑っちゃったけど」
「そうなんだよ! あいつ、マジで常識ねえんじゃねえかって思ってさ。バイトもしたことないんかな」
勢いよく体を起こして仁科に同意した。
「そもそも髪型がもう舐めてる。まあやっぱ頭は良いから、説明の飲み込みが早いところだけは評価できるな」
仁科は「ふーん」と適当な相槌を打ちながらパソコンを開き始めた。立ち上がるのを待つ間、カフェラテを飲みながらオフィスチェアに背を預ける。
「朝霧って東の顔はタイプなの? お前の好きそうな系統ではあるけど」
正直東の顔は好きな方だ。しかし、数か月前まで学生だったガキとわざわざ恋愛したいとは思えなかった。
「あー、まあタイプではあるけどな。相手するには若すぎるわ」
「東ってノンケなのかな。あんだけ顔良くて背も高ければ、男だろうが女だろうが相手に困んないだろうけど。水無瀬主任とはまた違ったタイプのイケメンだから、そのうち社内の人に告白されまくると思う」
「面倒くせえなあ、モテる部下ほどダルいもんはねえよ。社内不倫なんかしたらぶっ飛ばしてやる」
喉が渇いていたからか、あっという間にカフェラテを飲み干してしまった。仁科の方もパソコンが立ち上がったようで、早速キーボードを叩いている。今日は業務報告を書いたらさっさと帰ろう。明日からの研修、何事もありませんように。祈るような気持ちでパソコンに向き合った。
朝八時五十五分。コンサル部のフロアで一人、時計を見ながら俺はイライラしていた。始業五分前だというのに、東がまだ出社していないのだ。たまたま通りかかった課長が東の不在に気付いて俺に話しかけてくる。
「朝霧、東はどうした? まだ姿が見えないが」
「いや、俺も分からなくて。業務用端末に何度も電話している最中です。休みの連絡は無いので、出社はすると思うんですけど……ご心配おかけして申し訳ありません」
まあ電車の遅延だろうと課長は一人得心して歩いて行った。
五十七分。マジでどうなってんだよ。業務用端末に鬼電してんのに全然出ねえし! まさかいきなり飛んだ? 入社研修が終わった途端に辞める新卒の話をニュースで見たことがある。自分には関係ないと思っていたが、担当する新人がそうだとしたら? 諦めて部長に報告しようと席を立った瞬間、入り口からぬるっと東が現れた。目が合うと、ちょっと笑って俺の方に歩いてくる。
「朝霧さん、おはようございます。今日もよろしくお願いします」
そのまま何事も無かったかのように俺の隣席に腰掛けた。謝罪の一つもないことに腹が立ち、思わず大きな声で東に詰め寄った。
「おい! 今何分だと思ってるんだよ、なんでこんなギリギリに来た? 俺の連絡も無視しやがって、いい度胸してんじゃねえか」
東は肩をびくりと震わせる。
「朝霧さんって声、大きいですよね」
誰のせいだよ! 俺だって好きで朝からデカい声出してるわけじゃない。東は鞄から業務用端末を取り出して電源を入れていた。……もしかして、業務時間中にしか電源入れてないってことか? だから俺の連絡も無視してたのか?
「あの、始業って九時でしたよね。時間には間に合ってると思うんですが、何かまずかったですか?」
呆れて物も言えない。黙って再度椅子に腰を下ろした後、思わず頭を抱えた。こんなの、一緒に取引先に連れていくまで何か月かかるんだよ。
「あのなあ、始業は確かに九時だけど。大体会社員は最低でも十分前に席に着いてないといけないわけ。だから逆算して十分前に間に合うように家を出ろ」
東はパソコンを立ち上げながら、こちらをじっと見つめてくる。この時点で既に九時を過ぎていた。
「すみません、気をつけます」
「お前バイトとか大学の講義もギリギリに行ってたタイプ? マジで仕事に限らず何でも余裕持って行動しないと詰むぜ」
「ギリギリでも何とかなってたので……朝霧さんが色々教えてくださるので助かります。ありがとうございます」
舌打ちしそうになるのを必死に堪えた。助かりますって何だよ。俺は助かってねーから。
「パソコン立ち上がったか? 今日は議事録取る練習してもらうから、リノベ課のフォルダ開いて」
下手に雑談でもしようものなら東へのイライラが募りそうだったから、さっさと業務の話をして気を紛らわすことにした。過去に俺が出席した打ち合わせの録音から議事録を取らせてみて、話の要点を捉えられるか確認するつもりだ。
「会議室を一つ潰してフリーデスクを設置したいって趣旨の打ち合わせだったはず。テンプレコピペして、一回好きに書いてみな」
「承知しました」
東はイヤホンをつけてすぐにキーボードを叩き始めた。ああ、ようやくこいつから解放される。東に手を取られる前に自分の仕事を片付けよう。話し声が響くフロアの中、二人で黙ってパソコンに向き合っていた。
どれくらい経っただろうか。午前中のタスクを一通り終えて、スケジュール帳に予定を書き込んでいると急に肩を叩かれた。
「はい──って東かよ。終わりましたって一声かければ良いだろ」
「集中してらっしゃるようでしたから、声掛けるのをためらってしまって。議事録、終わりました」
「分かった、確認するからちょっと見して」
椅子を寄せてパソコン画面を覗き込んだ。東と距離が縮まる。新卒の癖に一丁前に香水つけてきやがって。俺の好きな系統の香りということにすら腹が立つ。
上から議事録を読み進めていくと、東は思った以上に分かりやすく、かつ要点のまとまった文章を書けるようだった。朝の行動とのギャップが凄まじくて、少し面食らってしまう。このまま及第点をやってもいいかなと思っていたところで、ある部分が引っかかった。
「……この『業務遂行環境の最適化を目的とした設備再配置の試み』っていう文、何? フリーデスク化をこんなに回りくどく書く必要ないだろ」
「そうでしょうか? なるべく分かりやすくしたつもりです」
「これで分かりやすい方⁉︎」
東の書く文章は分かりやすいかと思いきや、とにかく漢字が多くてところどころ何を言っているのか理解できない部分があった。何度も読み返せば理解はできるものの、これでは読み手に不親切すぎる。読み進めると、さらに漢字は増えていった。
『当該会議室は使用頻度が著しく低く、物理的資源としての活用可能性を欠いていることが確認された』
『配置替えの蓋然性は高いと考えられるが、什器移動に要するコスト負担の帰責性については、今後の検討余地が残る』
コンサル部にいると横文字を使って会話することが多い分、久しぶりに漢字ばかりの文書を読んで頭が痛くなってきた。『蓋然性』って書いてある議事録、あんま見たことないぞ。
「東、お前文章要約すんのは上手いと思うわ。取引先の会話とかもちゃんと全部書いてるし。ただな、いかんせん文章が堅すぎて読みにくい。なんでこんな漢字ばっかなんだよ」
「学部生時代に論述の書き方ばかり学んできたので、自然と漢字が増えてしまいます。平易にすると良くないかなと思いました」
「平易な文章は必ずしも悪じゃない。分かりやすさと読みやすさ、その上要点を押さえた書き方が必要なんだよ。議事録読むのはお前の指導教授じゃないんだから、そこ直せばもっと良くなると思うけど」
「承知しました、修正します。アドバイスありがとうございます」
指摘をすると必ず礼を言ってくるのは良いところなんだけどな。この調子でビジネスマナーもさっさと直してくれれば言うことないんだが。
東の評価は既に大きく揺れ動いていた。良いところと悪いところの振り幅が大きすぎて、気を抜くとこっちが消耗しそうだ。議事録を直す東の横顔を見ながら肩を竦めた。
東の教育担当になって三日目。今日は金曜日だから、この日を乗り越えればなんとかリセットできる。早く休みになってくれ、その一心でジャケットに袖を通して席を立った。
どうせ東は今日もギリギリに来るのだろうから、コーヒーでも飲んで気を落ち着かせよう。給湯室でぼんやりドリップバッグに湯を注いでいると、女子の会話が耳に入った。
「ねえ、さっきすれ違ったイケメン誰? 見たことないんだけど、あんな人このフロアにいたかな」
「もしかしたら新卒じゃない? 今年はちょっと多めに採ったって課長に聞いたよ」
そういえば東以外にも新卒がいたはずだ。コンサル部には一人だけだが、他の部署では何人か採用になったと聞いている。イケメンがいるなんて羨ましい部署だ、一回は顔を拝んでみたい。
コーヒーを持って自席に戻ると、隣に知らない男が座っていた。一瞬立ち尽くしているところで男が振り向く。
え、もしかして……東?
「朝霧さん、おはようございます。今日は十分前に間に合いました」
「東⁉︎ お前、髪切ってきたのか⁉︎」
髪を切っていたから全く気が付かなかった。隣に座っていたのは東だったのだ。
重めの前髪はだいぶさっぱりして、シースルー気味のセンターパート分けになっていた。ちょっとだけ溢れる前髪が目元を強調していて、新卒とは思えない色気が倍増している。長かった襟足もサイドの髪もスッキリした。これなら清潔感もあるし、おっさんの前に出しても文句はまず言われないだろう。
何より。髪で隠れていた綺麗な顔と光を放つ強い目元が前面に出てきたから、正面から見ると何故か照れてしまう。こいつ、ガチで髪型で損してたタイプじゃん。さっき給湯室で聞いた“イケメンの新卒”ってのも、もしかしたら東のことなのかもしれない。
今までたくさんの男を見てきた。見た目が整ってるとか好みの顔だとか、そんなことくらいじゃ心が動くわけないと思っていたのに。髪で隠れていた部分が露わになっただけで、どうしてこうも意識してしまうのだろうか?
東の顔から目が離せなかったが、始業を告げるチャイムで我に返った。こいつは数日前まで“ただの非常識な男”という印象だったのだ。見た目に釣られて中身のイメージまで上方修正したら、俺が痛い目を見る。コーヒーをデスクに置いて、素知らぬ顔で東に話しかけた。
「髪型、だいぶマシになったじゃん」
「朝霧さんが指摘してくださらなかったら、あの髪型が良くないと気づけませんでした。感謝してもしきれません」
「これくらいでどうってことねえって……まあいい、しばらく同じ美容師に切ってもらえよ。お前素材は良いんだから」
東は一瞬だけ目を丸くして、それからわずかに表情を和らげた。
「朝霧さんに褒めてもらえると、やっぱり嬉しいです。ずっと同じ人に頼みます」
髪を切ったからなのか、東の表情がよく見えるようになった。笑うと年相応の可愛げがあることに初めて気がつく。こんな些細なきっかけで意識してるとか、そういうんじゃない。そういうんじゃ、ないはずなんだけど。椅子を引いた振動で、コーヒーの表面が微かに揺れた。
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