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朝活開始
「クソっ、前言撤回だ……!」
月曜日の朝、八時五十五分。またしても東は始業時刻ギリギリでもやって来ない。先週金曜日、時間に余裕持って出社してきたから、見直してやっても良いと思った矢先の出来事だった。手にしていたボールペンのペン先をカツカツと机に打ち付けていると、東がエレベーターホールから姿を現した。五十八分、もはや遅刻レベルである。すたすたと俺の隣に腰を下ろした東の顔が涼しげなのが余計イライラを増幅させる。そうだ、こいつ先週髪切ってきたんだった。
「おはようございます、朝霧さん。今週もよろしくお願いします」
「よくもまあいけしゃあしゃあと挨拶できるなお前は! 二分前出社は重役出勤にも程があるだろ!」
「今日は結構早く出てこれたと思ったのですが、結果ギリギリになってしまいました。大変申し訳ございません」
謝るくらいだから悪いとは思っているのかもしれないが、行動が伴っていない。いまいち思考回路が掴めなかった。俺を舐めてるわけでもなさそうだし、何か別の理由でもあるのだろうか? まず一週間様子を見て、それから考えても遅くないのかもしれない。
「明日は早く来いよ。じゃあ今日のOJTの話だけど──」
手のかかる新卒だ。月曜日の朝はただでさえ気が重いのに、東のせいでさらに憂鬱になる。思わず指でこめかみを押さえた。
その後も数日様子を見ていて分かった。おそらく、東は朝が弱くて起きられないだけなんじゃないかということが。
午前中、特に十時頃までのパフォーマンスが異常に低くて目を丸くしたことが何度かあった。眠そうだし返事もぼんやりしているし、集中力も続かない。しかし、朝早く起きられた時や午後からのアウトプットの質は段違いに高い。なんというか、書く文章も発言も切れ味が鋭いのだ。人格が変わったのかと思うほどに。
一度東が何時に起きているのか知りたくて、スマホのアラーム画面を見せてもらったことがある。その時、六時から七時まで一分単位でアラームが並んでいて驚愕したのも理由として大きい。単純計算で六十回くらいアラームを鳴らしていることになるから、もはや意味ないんじゃないかと思うが。
極め付けは東の手帳に書いてあるメモだ。東はタスク管理を付箋で行っているようで、それを手帳に貼って書いたり消したりしていた。一度ものすごくデカい字で『明日は朝頑張って起きる』と書かれた付箋がパソコンに貼ってあった。おそらく貼る付箋を間違えたのだろうが、毎日何かしら努力はしている形跡が垣間見えた出来事だった。
こうなってくると自分も頭ごなしに叱りつけることができない。何か対策を考えてやった方がいいような気がしてきた。
昼休憩終わりギリギリになって、隣の席に東が戻ってきた。休憩室で時間いっぱいまで寝ている東は、午後の始業チャイムが鳴るまではぼーっとしていることが多かった。目が半開きの東に声を掛ける。
「東、ちょっといいか」
返事は無い。確実にまだ寝てる。
「あ・ず・ま! ちょっといいか」
「うわっ! ……すみません、始業まだだったのでちょっと寝てました」
飛び上がりそうな勢いで東がこちらを振り向いた。笑えるくらい焦っている。
「ちょっとどころじゃねえだろ。気になってたんだけど、お前結構朝弱いよな?」
「あー……はい。おっしゃる通りです。俺、あまり朝が得意ではありません」
「でもたまに早く来る時もあるじゃん。そんときは朝から意識もはっきりしてるから、起きさえすればパフォーマンスは問題ないのか?」
「そうですね、起きてから頭が覚醒するまで二時間くらいかかります。早起きできた日はおそらく、会社に着いた時点で二時間経っていると推測されます」
なんか分かったかも。九時にオフィス来いって言うんじゃなくて、余裕持って出社できるように工夫すればいいんじゃないか。
「明日から駅集合にして、一緒に会社行くぞ。俺がコーヒー奢ってやるから、飲みながら出社したら朝も冴えるだろ」
「えっ、そんな恐れ多いです。朝霧さんのお時間を頂くことになるので、自分でなんとかします」
「この一週間でなんとかなってねえじゃねえか。朝起きる習慣さえつけば俺がいなくてもいいだろうから、それまでは付き合ってやる」
すみませんと頭を下げる東を見て、今更ながら自分がこんな提案をするようになったことに驚いていた。仕事はできるだけ避けてきた俺が、わざわざ面倒なことを提案して首突っ込んでいくなんて。まあ、自分以外の原因で評価が下がるのも嫌だし。そう納得したところで午後の始業を告げるチャイムが鳴った。
「東って私鉄ユーザーだったよな? 駅の北口で八時三十分待ち合わせでよろしく」
「承知しました、お手数おかけして申し訳ございません」
「こういう時はありがとうございますで良いんだって。お前も早く起きれるようになれよ」
「はい、ありがとうございます」
東の顔がふんわり柔らかくなった。こいつ、笑った顔はすげえ可愛いんだよな。調子狂うぜ、マジで。
東が北口に着いたのは八時二十九分だった。ギリギリに来るのは予想通りでも、さすがに限度というものがある。
「おはようございます」
「おはよ。間に合ってるけど先輩待たしてる時点でアウトだからな。じゃあ行くか」
二人で並んで歩き始めると、改めて東の背の高さに驚く。背が高くて顔も頭も良いのに、それを全て消す勢いで朝が弱すぎる。つくづく損なやつだ。
最寄りのコンビニに入ると涼しい風が側を通り過ぎた。五月といえど、ジャケットを着て歩くと少し暑い。
「東はブラックコーヒー飲めるか? 俺と同じで良いよな」
「すみません、俺ブラック飲めなくて……」
「はあ⁉︎ んだよ、じゃあカフェオレなら飲めんのかよ」
「はい、カフェオレなら」
馬鹿正直に『カフェオレなら』って返事するか? 俺だったら無理してコーヒー飲むけどな、という言葉が喉まで出かかったが、誘ったのは自分からだ。仕方ない。
缶のカフェオレを買って渡すと、東は大層喜んで受け取った。
「ありがとうございます。先輩からこうして飲み物とか、もらったことないです」
「変わったやつだな。部活とかであるだろ」
「俺、部活やったことないです。大学もずっと勉強ばかりでしたから、先輩に飲み物奢っていただく、みたいなのに憧れがあって」
少し恥ずかしそうに笑う東に、俺は思わず目を逸らす。……まあ、法学部いたなら仕方がないか。部活やったことないっていうのも今時珍しいけど。
「ていうかコーヒー飲めなかったらまずいだろ。打ち合わせで出されまくるぞ」
「気合い入れれば飲めます。ただ、カフェイン効きすぎて夜中眠れなくなるのが嫌なんです」
「あー、そういう体質あるよな。コーヒー以外の飲み物置いてる企業も増えたから、そういうとこが担当になると良いな」
返事をして東がプルタブを捻る。一口カフェオレを飲んだ顔は見たことがないほどに緩んでいた。数百円でこんな喜んでもらえるなら安いもんだ。
なんてことない話をしながら歩いていると、オフィスには八時四十分過ぎに到着した。
「東、大体こんくらいに着けば準備も余裕でできるだろ。目安は四十分前後だな」
「承知しました。カフェオレもご馳走様です。……明日も同じ時間集合で良いですか?」
少し言いにくそうにしながら、俺の顔をちらりと伺ってくる。
「習慣付くまで続けるぞ。お前が嫌って言っても辞めないからな」
「はい、俺からは絶対言いません」
そう言って東は席に着いた。これで早起きの習慣がつけばいいが。果たしていつまでこいつのお守りをしてやらなきゃいけないんだ。
しばらく“朝活”を続けていると、東は五分前くらいには駅に到着するようになった。しかし、到着が早まるにつれて目の下のクマが色を濃くしていく。いつも通りカフェオレを手渡して顔をまじまじと見つめると、東がちょっと身を引いた。
「朝霧さん、俺の顔そんなに見ないでください。どうなさったんですか」
「いや、お前目の下のクマ酷くなってねーかって思ってさ。本当にしんどいなら言えよ」
「……見苦しくて申し訳ありません。週末になれば寝て回復しますので、気にしないでいただけると」
「それならいいけど。まあ二十五分には駅に着くようになったし、そろそろ朝集まるの辞めても良いかもな」
言い終えた後、プルタブを捻ってコーヒーを飲んだ。なんだか苦味が口だけじゃなくて胸の中にも広がったような、得体の知れない感覚に襲われた。……あれ、何だこれ。いつもと違うコーヒーを買ったかと思って缶を見ても、特段変なところはない。不思議に思いつつも、歩いているうちにすっかり忘れてしまった。
オフィス到着後、コンサル部のフロアでエレベーターを降りると仁科と鉢合わせた。
「おはよ。今日は新卒と一緒なのか?」
「ああ、ここ最近ずっと一緒に出社してんだよ。ていうかまだ仁科に挨拶してなかったよな、リノベ課の新卒、東だよ。よろしく頼む」
「仁科さんですね、初めまして。東亮丞と申します、よろしくお願いいたします」
良かった。もう名乗らずにいきなり話し始めたりしなくなった。
「東か、よろしく。俺はコンサル課の仁科洸一 、同じ部だから一緒に仕事することもあるかもな。じゃあ俺はこれから打ち合わせだから」
「えっ! お前まだ始業前だぞ、そんな気合い入れて会議室行かなくていいじゃんか」
「今日は水無瀬主任がいる日なんだよ、分かるだろ?」
言い終わるや否や仁科はすたすたと会議室に歩いて行った。本当に好きな人には一直線だな、あいつ。
「仁科さん、かっこいい人ですね」
遠ざかる仁科の背中を見ながら東が呟いた。
「おっ、お前男見る目あるじゃん。仁科って顔も良いし仕事も出来るけど、出来るが故に仕事が人生の中心になってんだよな。プライベートでも仕事のことばっか考えてるみたいだし、もったいないよなー」
プライベートといえば、東と恋愛の話をしたことなかったな。コンビニからオフィスまでの道のりも、リノベ課社員の話とか好きなパンの話とか、そんなようなことばかり聞いていた。
「東って今付き合ってる人とかいんの? お前がどういうやつを選ぶのか地味に気になるわ」
東の視線が泳いだ。この顔で童貞ってことも無いだろうし、なんかまずいこと聞いただろうか。最近別れたばかりとか?
「…………俺は誰とも付き合ったことないです。人付き合いがそんなに上手じゃないので、告白されても断ってばかりでした」
「え! マジかよ、意外。選び放題かと思ってたけど、人っていろんな過去があるもんだな」
腕時計をちらりと見ると、始業時間まであと十分になっていた。このまま立ち話をしていたら、あっという間に時間が無くなってしまう。
「まあお前の昔話はまた後で聞かしてもらうわ。まずは仕事だな」
「朝霧さんのお話も聞きたいです、ぜひお願いします」
「あー、俺の話は酒入ってないとできないって。まあ追々な」
どうせ東は俺の過去なんて興味ないだろうし、と適当に話を流した。まだ東がノンケかどうかも分からないうちから自己開示する気にはなれなかった。
それからさらに数日経って、東はようやく十分前集合ができるようになった。
「今日は早いじゃん。金曜日だから気合い入ってるのか?」
「昨日全然眠れなくて、気づいたら朝になってました」
「なんだよそれ。まああと数回十分前集合できるようになったら、もう一緒に出社もしなくていいな。ようやく東から解放されるわ」
いつもの軽口のつもりで笑いながらそう言うと、東の顔が急に曇った。
「え、これ、もう少しでおしまいなんですか?」
「そうだけど? むしろ朝早く付き合わせて悪かったな、お前も駅から直接オフィスに行く方が良いだろ。目的は東が早起きの習慣付けることだったから、達成したらおしまいにするのは当然じゃん」
「……そうですよね、早起きに慣れるように引き続き頑張ります」
妙に歯切れが悪いな。少し早起きしたから、まだ脳が覚醒していないんだろう。
「お前まだ半分寝てるだろ。カフェオレ飲んで目ぇ覚ませよな」
返事はない。普段から活発に喋るタイプではないが、今日は一段と声のトーンが低いように思えた。まあ、そんな日もあるだろう。人間毎日同じ調子で生活なんてできないのだから。
「よーし、華金だからな、今日くらいは気合い入れて仕事するぞ」
軽い足取りの俺と対照的に、まだ眠そうな東の一歩は重かった。
「議事録の漢字も減ってきたし、時間前集合もできるようになってきたし。最初の頃はどうなるかと思ったけど、案外慣れるの早いなお前。独り立ちもすぐできるだろうって部長も褒めてたよ」
一日の業務を終えて荷物をまとめている東に話しかけた。いつもの東ならにこりと笑うところだが、小さく「ありがとうございます」と返事をしただけだった。なんか随分元気ないな。
「おい、お前大丈夫か? 独り立ちがそんな不安なら、業務の相談くらいは乗ってやるけど」
「いえ、大丈夫です……早く独り立ちできるようにもっと頑張ります」
「殊勝な心掛けだな。俺はもう少し残って仕事してから帰るよ、じゃあまた来週」
「はい。今週もありがとうございました」
いつものように小さく一礼して東はフロアを後にした。学生時代とは勝手も違うから、あいつもあいつなりに疲れているんだろう。まあ、週末に寝れば元気になるとか言ってたし、心配ねーか。そんなことより、今日は早く終わらせて飲みに行きたい。伸びをして途中の仕事に取り掛かった。
キーだけが鳴る数時間が過ぎ、最後のメールを送信。これでようやく俺の一週間も終わりだ。上着を肩にかけ、夜風に押されるようにオフィスを後にした。
日々東の対応に追われて疲れ切っていたから、最近は飲みに行く元気すらなかった。数か月ぶりに行きつけのゲイバーに連絡してみるか。馴染みの店員とのチャット画面を開き、『今日やってる?』とだけ打ち込んで送信すると、あっという間に返事が返ってきた。さすがの華金、早い時間でも既に何人か客がいるようだ。せっかくだし、今日はこのまま飲んで帰ろう。駅に向かう足取りがこれほどまでに軽いのは久しぶりだった。
「えっ、詢也? マジで来ると思わなかった、どうしたの」
重いドアを開けると、真っ先にバーカウンターから聞き覚えのある声が飛んできた。
「飲みに来た。久しぶり」
声をかけてきたのは槇 というスタッフだった。自分より年下だが、出身が一緒というだけで意気投合して仲良くなった。ここで働いているスタッフの中でも群を抜いて背が高くて、見た目が自分好みなのも良い。
スペインカールの黒髪にたれ目の甘いマスク、さらには一八〇越えの背丈! 自分が平均以下の身長だから、余計背の高い男に惹かれるんだと思う。
「数か月来てなかったでしょ、何してた? 心配で連絡しようかと思った矢先にそっちからチャット来てビビった」
「ごめん、仕事で全然余裕なくて。新卒の教育担当になったもんだから疲れて来れなかったんだよな」
「それは大変だったね」と返事をしながら槇がカウンターにドリンクを置いた。俺の名前でボトルも置いてもらったから、何も言わなくても勝手にハイボールが出てくるようになった。
「仕事嫌いの詢也が担当させられる新人ってどんな人なんだろ。ねえ、写真無いの? イケメンだったら今度連れてきてほしい」
「無理に決まってるだろ。まあ、顔はすげえ綺麗なんだよ、社内がざわつくレベルで。でもぜんっぜん常識が無くて困ってる」
「ウケる、飽きなさそうでいいじゃん」
なんにも面白くない。お前が東の教育担当やってみろよと喉元まで出かかった。
「そんなことよりもっと別の話しようぜ。仕事ばっかりだと息が詰まる。それこそ最近ここに良い男は来てないのかよ」
酒を飲みながら仕事の愚痴を言ったところで仕方がない。東の話をしたくてここに来たわけではないのだから。
「えー、最近かあ。俺のタイプはちょこちょこ来てるけど、詢也が好きそうなのはどうだったかなあ」
槇には俺の好みを事細かに伝えてある。前の彼氏と別れてからは、出会いも兼ねてこのバーに足繁く通っていたのだ。
「あ! それこそ今日来たお客さんで一人いたよ。あそこに座ってる背の高いお兄さんとか好きでしょ」
指差された方向に椅子ごと体を向けると、ソファー席で何人かが話しているのが目に入った。その中で一際背の高い男と目が合う。
「あれ、朝霧さん」
全身から血の気が引いた。急に胸の鼓動が激しくなって、飲んでいた酒の味が分からなくなる。なんでよりによって一番会いたくないやつがいるんだよ!
「なになに、詢也の知り合いなの? 今日初めて来たって言ってたけど」
「いや、ごめんけど今日帰るわ、支払いは明日絶対するからマジで帰らしてくれ」
「え、ちょっと詢也!」
鞄を掴んで出口へ向かおうとした瞬間、強く腕を引かれた。振り向いた先に立っていたのは──先程会社で別れたはずの、東だった。
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