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二つのお願い
「朝霧さんがここに通ってるの、知りませんでした」
腕を振り払って帰ろうとしても、東は手を離そうとしない。その様子を見ていた槇が「ヤバくね、修羅場?」と興奮して騒ぎ出すものだから、仕方なく店に留まることしかできなかった。
事情を説明してカウンターの端に二人で座らせてもらっている。ここまでわずか数分の出来事だった。
「言うわけないだろ、東がゲイだって知らなかったんだから。つうかお前、帰ったんじゃなかったのか」
「一回帰りました。家で眠ろうと思ったんですけど、ダメだったので調べてここに来たんです」
頭が混乱して気が付かなかったが、よく見たら東は私服姿だった。
「……眠れないからってゲイバー来る理由が分かんねえんだよ。ベッドで目閉じてれば自然と眠くなるんじゃねえの」
「俺、一人で眠れないんです。ここなら一緒に寝てくれる人がいるんじゃないかなと思って。都内で一番大きい店で、お客さんも多いみたいだから」
「はあ? ソフレ探しに来たってことか?」
「ソフレって何ですか? ティッシュ?」
額に手を当てて思い切りため息を吐いた。グラスの氷がカランと音を立てる。東は出された酒には手を付けず、また口を開いて話し始めた。
「あの、一つお願いがあるんですけど。……あ、二つかな」
「……一旦聞くだけ聞くわ」
「俺がここに来たこと、誰にも言わないでもらえませんか? 色々と面倒だから。あともう一つ、こっちを特にお願いしたいんですけど」
東の顔が近づく。暗めのライトに照らされた瞳がちらりと光った。
「俺と一緒に寝てもらえませんか。朝霧さんとなら、朝までゆっくり眠れそう」
頭に血が上る。バーの中ということを忘れ、思わず大声で返事をしてしまった。
「馬鹿にすんのも大概にしろよ! 教育担当っつったって、そこまで面倒見てやる義理はないからな」
ふん、と鼻を鳴らして東から顔を逸らした。とにかく腹が立って仕方なくて、勢いよくハイボールを飲み干した。
「お前が退勤後に何やってるかまではいちいち口出ししない。けど、俺を巻き込むのはやめろ。寝るだけの相手が欲しいならここに来るな。俺の安息の地を邪魔されてたまるか」
槇に「話は済んだからもう今日は帰る」と伝えて席を立つと、ものすごく話を聞きたそうな顔でコイントレーを差し出してきた。視線で牽制しながら財布を取り出すと、俺に続いて席を立った東が追いかけてくる。
「朝霧さん、怒ってますか? 今日朝霧さんが寝てくれたら二度とここに来ませんから、お願いです。本当に眠れなくて困ってるんです」
「怒るに決まってんだろ! 一緒に寝れるなら誰でもいいって言ってるようなもんだぞ、そこまで舐めたマネすんなら教育担当降りるからな!」
怒りに任せて代金を叩きつけると、衝撃で床にコイントレーが落ちて音を立てた。小銭が床に散らばったのを見てようやく我に返る。
……あれ。俺、なんでこんなイライラしてるんだ? 客の視線が俺と東に突き刺さっている。
「詢也。外出て頭冷やしてきたら?」
槇が視線でドアの方を指した。
「……悪い。必ず埋め合わせするから」
床の小銭とコイントレーを拾って槇に渡し、そのまま店を出た。日が長くなってきたとはいえ、外はすっかり暗くなっている。ただ楽しく飲みたかっただけなのに、なんでこうなったんだ。ドアを閉めてからすぐに東が後ろから追いかけてきた。
「朝霧さん、お願い、話を聞いて」
「勝手に付いてくんな!」
冷静になろうと思っても、東の顔を見るだけでまたイライラが戻ってくる。少しでも早く駅に戻るために、最短距離の裏道を早足で歩いた。それでも脚の長い東にあっという間に追いつかれ、また腕を掴まれる。
「いい加減にしてくれ! 何なんだよ、話聞いてもらうのも、寝るのも、俺じゃなくてもいいんだろ! 店戻って勝手にやれよ!」
振り返って怒鳴りつけると東の強い視線とぶつかった。鋭い眼光に射竦められて後退りしようとしても、腕を掴む力が強まっていくから逃げられない。
「……そんなに言うなら。何しようが俺の勝手なんでしょう。文句、聞きませんよ」
刹那、強く身体を引かれて唇が重なった。甘い稲妻が背骨を駆け抜け、あまりの快感に全身の力が一気に抜ける。抗う気力を一瞬にして奪われ、荒々しく挿入された舌をそのまま受け入れてしまった。唇を噛まれた疼痛でさえも気持ちがいい。深いウードの香りが鼻から抜けていった。
俺の知っている東は、こんなやつだったか? 二人で並んで歩いた朝の景色が遠く離れていく。 俺の下唇を強く噛んだ後、東は口を離した。黒子の位置を確かめるように唇を舐める。
「朝霧さんってキスされたら、誰にでもそんな顔すんの? 俺だけじゃなきゃ、嫌だ」
“先輩”として「やめろ」と言える、最後のタイミング。でも──俺は黙って再び顎を上げた。視線で全てを察した東が再度唇を寄せてくる。東の瞳に映った自分はぼやけていて、どんな表情をしているかは見えなかった。見たくもなかった。
その後は東に手を引かれ、ホテルで流されるまま、訳が分からなくなるほど互いを求め合った。思い出したくないからなのか、凄まじい快感で脳が焼かれたからなのか、記憶が断片的にしか残っていない。
首筋を這う舌の生温さ、身体を貫かれる鋭い痛み、奥を抉られるたびに全身に広がる快感が意識を覚醒させたりぼやけさせたりしていた。東の指が肌の上を滑るだけで、全身にピリピリと電流が走って動けなくなった。
所々残っている映像の中の東は、常に俺を見つめていた。それが嫌で顔を背けても、顎を掴まれ何度も何度もキスしたような記憶もある。カーテンが閉まっていたから時間も何も分からなかった。ただ夢中になって唇を、身体を貪った。
***
激しい喉の渇きで目が覚める。視界に見たことのない白い天井が飛び込んできた。ああ、そうだ、昨日東と路上で喧嘩して、そのままホテルに──ホテルに。東と。
「……最悪」
身を起こすと、当然自分は全裸だった。腰に残る鈍痛が全てを物語っている。まだ現実を受け入れたくなくて周りを見渡してみても、ゴミ箱の周りに散乱したゴムを見て諦めた。隣には同じく全裸の東が、俺にしがみついたまま寝息を立てていた。もう受け入れるしかない。昨晩、俺はあろうことか──東と寝てしまったのだ。
しかし、それで教育担当が解消されるかといえばそうではない。今後どうしていくかを考えないと。でも、まずは水を飲みたい。確かラブホって冷蔵庫に水入ってたよな。東の腕をそっと退けて立ち上がろうとすると、寝ていたはずの東が急に目を覚ました。
「どこ行くの、独りにしないで」
縋るような目つきに思わずぎょっとした。退かしたはずの腕で俺に抱きついてきて、強い力でベッドに引き戻される。
「おい! 一人にしねーよ、水飲むだけだから離せって」
「……すみません、置いていかれると思ったから」
昨晩バーで聞いた『一人で眠れない』という言葉が、文字通りの意味を持つことをようやく理解できた。冷蔵庫を開けて二本水を取り出し、片方を東に渡す。
「ほら、一旦水飲め。さすがにラブホに一人置いていくわけねえだろ」
「ありがとうございます」
重たい沈黙が部屋に流れる。カーテンの隙間から漏れ出る光を見るに、どうやら朝になっているようだ。ものすごい勢いで水を一本飲み干した東が先に口を開いた。
「……昨晩は、すみませんでした。俺、朝霧さんに帰ってほしくなくて必死だったので、酷いことをしてしまったと思います」
「……まあ、ツッコミどころが多すぎて色々言いたいことはあるけどさ。俺も声荒げたりして悪かったな。正直なんであんな怒ってたのか、今でも分かんねえ」
項垂れた東の首元が、引っ掻き傷やら噛み跡やらで赤くなっている。これ付けたの、どう考えても俺だよな。ああ、クソ、マジで最悪だわ。
「まずはシャワー浴びるか。話はそれからだ」
「朝霧さんと一緒にですか? 風呂場、結構狭かったですよ」
「一人ずつに決まってんだろうが! 俺が先に浴びるからな、お前は部屋のゴムでも片付けとけ」
「すみません、主語がなかったから二人なのかと」
昨晩俺を抱いていたやつと同一人物とは思えない。舌打ちして浴室のドアを勢い良く閉める。身体中に残った東の残り香を、とにかく早く落としたかった。
お互いシャワーを浴びた後、小さなテーブルを挟んで向き合った。昨日は気が動転していて全く意識が向かなかった東の私服姿を改めて眺める。濃いグレーのスウェットにビンテージのブルーデニム。首元をシルバーのネックレスが控えめに飾っている。認めるのも癪だが、相当似合っていた。
「昨日言ってたことの確認なんだけど。お前、朝弱いのってそもそも睡眠をろくに取れてないのが理由なのか?」
「はい、おっしゃる通りです。一人では眠れなくて、明け方に数時間眠れたらマシ、くらいですね。誰かが隣にいれば眠れる時間は増えますが、浅い睡眠しか取れないことがほとんどです」
「じゃあ朝が苦手というより、シンプルに睡眠の質と量が足りてないってことだな。なんで一人じゃ眠れないんだよ」
東がわずかに目を伏せた。
「……俺、元々弁護士になりたかったんです。けど、なろうと思っても結構皆試験に落ちるんですよ。ロースクール留年も当たり前の世界、俺よりずっと頭のいい先輩が何年もくすぶっている……そんなのばかり見ていたら勉強してもしても足りない気がして、目が冴えて眠れなくなりました」
言葉に詰まった。体質の問題かと思っていたが、どうもそうではないようだ。何を言うべきか迷っていたところで再び東が口を開く。
「眠れたとしても、夢を見るんです。試験の最中に頭が真っ白になるとかそういうのばかり。精神的にも体力的にも限界だった時、酒でも飲めば眠れるかと思って初めてバーに行きました。そこで会った人と成り行きで一晩寝てみたら、久し振りに夢を見ずに眠れて」
そうか、だから眠れなくなったらバーに行こう、っていう方程式になるんだな。
「それからだったと思います、生活がめちゃくちゃになったの。一週間毎日違う人が横で寝てることもありましたけど、一人で苦しんでるよりずっと良かった。でも……やっぱり身体に負担がかかりすぎて倒れました。指導教授から勧められたカウンセリングで休めって言われて、ようやく解放された感じです」
朝が苦手と知った時、まずこうして理由を聞くべきだったと後悔した。東の過去を知っていれば、もう少し違ったことができたんじゃないかと思ってしまう。
「勉強していた時期が長かったので就活も遅れて、たまたま受かったこの会社に入りました。朝霧さんに会えてから少し気持ちも落ち着くようになったし、何より昨日、一緒にいたから夢を見ずに眠れました。数年ぶりだと思います、嬉しいです」
東ほどのエリートがなぜうちの会社に来たのか不思議で仕方なかったが、そこにも納得がいった。しかし、その後の発言で引っ掛かる部分がある。
「なんで俺と安眠が結びつくんだよ」
「朝霧さんはなんだか安心できるんです、すごくいい匂いがするので」
よく分かんねえな。まあ眠れない理由は分かった。あとは今後の対策を考えるだけだ。
「例えば俺の存在がお前の睡眠導入剤代わりになるったって、毎日一緒に寝れるわけじゃない。それでも生活はしていかなきゃいけないから、俺なしでも眠れる方法をいくつか持っておいた方が良い。そうだろ?」
「はい。理想は毎日朝霧さんを抱かせていただくことですが、もちろん不可能なことは承知の上です」
勘弁してくれ。早晩東に抱き潰されるのがオチだ。
「……とにかく。俺はこの土日でいくつか方法を考えてみるから、それをやってみればいいんじゃないか。んで、朝にその結果を報告して、良かったものだけ継続する。朝活やめようかと思ったけど、もう少し続けるのはどうだ?」
「まだ続けてもらえるんですか? ありがとうございます。俺、昨日”もう一緒に出社もしなくていいな”って言われた時、すごいショックだったんです。朝の楽しみが無くなったら、さらに眠れなくなるんじゃないかと思って怖かった」
あれは疲れていた顔ではなかったのか。数時間前の暗く沈んだ表情を思い出した。
「今日はもう帰るけど、月曜日からまた朝八時三十分にいつもの駅北口集合な。言っとくけど、職場で今日のこと誰かに話したら、本当に教育担当降りるから」
「はい、承知しました。今日のことも昨日のことも、誰にも言いません」
返事をした後、東は窺うような上目遣いでこちらを見つめてきた。
「もし良ければ……チェックアウトの時間まで、一緒にいてもいいですか」
あの過去を聞いたらさすがに断れないだろ。仕方なく小さく頷くと、東がにこりと笑った。ようやく笑った顔が戻ってきたな。気づくとすっかり情が移ってしまっている自分に嫌気が差したが、全身が疲れ切っていてもう何も考えたくなかった。とにかく眠りたい。
ベッドに横になると、私服姿のまま東が隣に滑り込んできた。何をされるかと一瞬身構えたが、目を閉じてすぐに寝入ってしまった。本当に、黙っていればかわいげのあるやつなんだけど。結局チェックアウトのギリギリまで二人で眠り続けた。
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