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【第10章|エピローグ ― 春の手前で】
朝の光が、ゆっくりと床をなでていく。
白いカーテンが揺れるたび、部屋の色が少しずつ淡くなっていく。
ソファの上で、俺はまだ半分眠っていた。
隣で秋葉がコーヒーを飲んでいる音だけが聞こえる。
静かな朝。
世界の音が、やっと追いついてきた。
「起きた?」
「……起きてる」
「顔、寝癖すごい」
「うるさい」
秋葉が笑う声がする。
コーヒーの匂いが、春の手前の空気に混じる。
その香りを吸い込むたび、昨日の夜の言葉が胸の奥で響く。
“灯”。
あのとき確かに見えた線が、今も消えない。
ふと、テーブルの端に花があることに気づく。
白い椿。
祖母の教室で咲いた最後の花。
「これ、持って帰ってきたの?」
「うん。おばあちゃんに頼まれた」
「どうして?」
「“春まで、見ててほしい”って」
「……おばあちゃん、ずる」
秋葉は笑って、花瓶の水を替える。
光がその動きに合わせてきらめいた。
水音が静かに響くたび、胸の奥が温まっていく。
「なつ」
「ん」
「今日、映画見に行く?」
「……恋愛映画?」
「うん。俺の職場割引、使えるし」
「またそれ。どうせ泣くくせに」
「なつも泣く」
「泣かねぇし」
「嘘。俺の肩で泣く」
「ばっ、ばっかじゃねーの……」
照れてそっぽを向く。
でも、笑ってる自分に気づいて、もう負けだと思った。
秋葉が手を伸ばしてきて、俺の髪を直す。
前髪の先に指が触れるだけで、心臓が跳ねた。
「なつ」
「なに」
「俺がいないともう生きていけないじゃん」
「っ……!」
「だって、顔に書いてある」
「書いてねぇ!」
「じゃあ、俺が書いとく」
そう言って、頬を指でなぞる。
その指の跡が、やけに熱い。
朝なのに、まだ夜みたいに甘い。
外では風が吹いて、街路樹の枝が揺れていた。
冬の残り香と、春のはじまりが混じる匂い。
その中で、椿の花びらが一枚、静かに落ちる。
光を反射して、短くきらめいた。
落ちたのに、美しかった。
「なつ」
「ん」
「春になっても、延長しよ」
「……延長って、夜の?」
「うん。俺たちの。」
笑って、コーヒーカップを軽く合わせる。
小さな音がして、世界がひとつ分あたたかくなった。
春の手前で、俺たちは笑ってる。
光の中、指が触れる。
その瞬間だけで、生きていける気がした。
香りが残る。
それだけで、十分だ。
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