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【第9章|告白― 夜の長さ】

【第9章|告白― 夜の長さ】  電気を落としても、部屋は完全には暗くならない。  カーテンの隙間から街の光が細く滑り込み、ソファの縁に白い線を置いていく。  秋葉の呼吸が、隣で静かに上下する。  眠れない。嬉しいより先に、怖いが来る。  夢になったらどうしよう、っていう子どもみたいな怖さ。 「起きてる?」 「起きてる」 「じゃあ、黙ってて」 「命令?」 「お願い」  秋葉が笑って、俺の額に指先で触れる。  冷たくない。さっきまで胸のあたりにいた体温が、ゆっくり額へ移動する。  目を閉じると、暗闇の奥で白い庭が立ち上がった。  冬の朝。  折れた椿。  小さい“秋”の声。  “守る”って、よくわかんない言葉のまま、俺は笑った。  笑えば秋も笑って、白い息が二つ重なった。  ほんとうは、あの時から全部決まってたんだと思う。  でも、言葉って遅い。  追いつくのに、こんなに夜が要る。 「なつ」  呼ばれて、今に戻る。 「ん」 「ここにいるから」 「知ってる」 「いなくならない」 「人って、いなくなるだろ」 「香りが残る」 「……椿みたいに」 「うん。残った香りで、だいたい足りる」  そんなふうに言われると、胸の痛いところがやさしく解ける。  失い方を先に考えてしまう癖。  秋葉は、それごと手で包むみたいに、簡単にほどく。  ソファの背にもたれて、横並びで座る。  俺の手の甲に、街灯の白い線が落ちる。  秋葉がその線を追いかけるみたいに、指先でなぞった。 「夏」 「なに」 「ちゃんと聞かせて」  喉が少しつまる。  言わなくてもわかってる、と思った。  でも、それだと俺がずっと子どものままだ。  言わなきゃ届かない場所が、たしかにある。 「……秋葉」 「ん」 「俺、お前のこと、好きだ」  声が震える。  短いのに、長い。  世界が一回、形を変える音がした。  秋葉が目を細め、顎に指を添えて、ゆっくり唇を重ねる。  やさしい。けど、逃がさない。  触れて、離れて、また触れて。  言葉のぶんだけ、深くなる。 「遅い」  秋葉が笑う。 「遅いほうが覚えるだろ」 「……ずる」  言い切る前に、笑いに飲まれた。  目の端が熱い。  涙が出るのは、弱さじゃなくて、余裕のなさだ。  うれしいって、余裕を奪う。  髪を撫でられる。  肩を引き寄せられて、胸に顔が押し当てられる。  心臓の音が、耳のすぐ向こうで鳴る。  こっちを落ち着かせようとしてるのに、秋葉の鼓動も少し速い。 「秋葉」 「ん」 「俺、選ぶの怖かった」 「知ってる」 「でも、もう、選んだ」 「知ってる」  返事が、うれしい顔をしてない。  落ち着いた声の奥で、何かが静かにほどけていく音がする。  この人、どれだけ待ってたんだろう。  待たせたぶん、これからは、ちゃんと触れる。  肩口に口づけが落ちる。  擽ったくて、安堵の形をしている。  俺も首筋に唇を近づける。  そのたび、息が少しだけ重なって、合図みたいになる。  守るって言葉の意味が、ようやく身体に宿っていく。  しばらく黙って、同じ方向を見る。  カーテンの縁が丸く揺れる。  窓の外は静かだ。  夜は深いのに、怖くない。  秋葉がいるから、っていう答えは、あまりにも単純で、  単純だから強い。 「夏」 「ん」 「朝になったら?」 「同じ。……俺たちは、もう選んだ」 「じゃあ、夜は」 「延長」 「は?」 「延長して、朝に連れてく」  くだらない会話の顔をした、約束。  笑うと、胸の中の椿がまた香る。  残り香で、ほんとうに足りる。  志摩から届いたファイルが、テーブルの上で眠っている。  〈take_07_wait.mov〉  再生ボタンは光っているのに、もう押さなくていい気がした。  画面の中で“待ってる”俺は、さっき確かに終わった。  今は、待たせない方にいる。  それだけで、夜の長さが短くなる。 「なぁ」 「なに」 「“俺がいないともう生きていけない”とか言ったやつ」 「言った」 「責任とれ」 「一生」 「……言いすぎ」 「足りない」  指を絡める。  手の内側に、血の温度が流れ込んで、やさしい音を立てる。  呼吸が揃うのに、もう時間はいらない。  少しずつ、窓の向こうが薄くなっていく。  黒の中に灰が滲み、灰の中に白が差す。  夜と朝の境目は、見えるようで見えない。  でも、わかる。  匂いが変わる。  冬の匂いが退いて、冷たい草の匂いが近づく。  祖母の教室の水音が、遠い記憶から呼ばれる。  「冷えた花は、手で温めるのよ」  あの声が、今も正しい。 「夏」 「ん」 「好きだよ」  秋葉の言い方は、いつもみたいに簡単で、ずるい。  でも、簡単だから、逃げ場がない。 「知ってる」 「言葉でも、もう一回」 「……好き」  言った。  ほんとうに、言った。  言葉は遅いけど、やっと来た。  胸の奥の古い扉が、そこで音を立てて開いた。  目を閉じる。  瞼の裏に、うすい光の線がひとつ走る。  カーテン越しの朝の線。  指先を伸ばして、その線に触れてみる。  何も触れないのに、触れたみたいに熱くなる。  秋葉の指が上から重なる。  指の影と光の線が重なって、一本になる。 「これさ」 「うん」 「灯だな」

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