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【第8章|お前は、俺のだ ― 越境の夜】
閉館後のロビーは、氷を溶かしたみたいに静かだった。
鍵を締める音が、夜の通りへ薄くほどける。
ポケットの中に、椿の香り袋。細い紐の結び目を親指で確かめる。
〈夜、少し空けとけ〉と送った自分の言葉が、胸の奥でまだ反響していた。
街は、春の手前で息を潜めている。
信号が赤から青へ、青から赤へ。
一定のリズムに合わせて歩幅を刻む。
角をひとつ曲がるたび、心臓の位置が近くなる。
インターホンを押す前に、扉がわずかに開いた。
夏がいる。
灯りが背中で揺れて、髪の端が光った。
「……早いな」
「早くした」
「入れよ」
靴を脱ぐ音、茶葉が湯に落ちる音、湯気が立ち上がる気配。
部屋の温度が、目に見えない手で整えられていく。
テーブルの上に、スマホ。
志摩から届いたファイル名が浮いていた。〈take_07_wait.mov〉
「見たのか」
「……再生、しただけ」
「今、もう一回」
再生を押す。
画面の中で、夏が立っている。
交差点の光が磨く横顔。
“待ってる顔”。
嘘のない、揺れない輪郭。
音が消えて、呼吸だけが聞こえる気がした。
「これが、お前だ」
画面を止める。
目の前の本物を見る。
同じ呼吸で、違う温度。
ソファの背に片手をつき、半歩、距離を詰める。
「……なに、その顔」
「顔?」
「近い」
「近くする」
「理由」
「ずっと我慢してたから」
夏の喉ぼとけが、少しだけ上下する。
指の先に、触れずに触る距離。
香り袋の椿が、胸の間で微かに揺れた。
「秋葉」
「ん」
「お前さ、最近、優しすぎ」
「そう見える?」
「見える。……怖い」
「怖くしない」
「……ほんとかよ」
「嘘つかない」
言いながら、視線を落とす。
夏の手首。薄い皮膚の下で、脈が跳ねる。
テーブルの輪郭が、二人の影を少しだけ重ねる。
「夏」
「……なに」
「俺がいないと、もう生きていけないじゃん」
息が止まる音。
目の奥の光が、一度だけ強くなる。
夏の肩が、反射で上がる。
「ばっ……ばっかじゃねーの」
「じゃあ、証明して」
「なにを」
「否定じゃなくて、俺のほうに来ることで」
喉までで止まった否定が、ゆっくり形を変えて溶ける。
夏はソファの背に指をかけ、ほんの少しだけ身体を傾けた。
重力に任せれば触れる距離。
黙って、待つ。
“触らない支配”を、今度は“触れる許し”にひっくり返すために。
夏が先に、指先を俺のシャツの裾に触れた。
柔らかい音。
心臓の熱が、そこで一度跳ねて落ちる。
「……ずるい」
「ずるいのは、お前だ」
椿の匂いが、湯気に混ざって部屋にひろがる。
降り積もった冬の気配が、底から少しずつ溶ける。
距離が終わった。
唇が触れる。
やさしい、じゃない。
所有のキス。
相手の形に合わせて、深さを決める。
息が交わるたび、拒みの筋肉がほどけていく。
夏の舌先が迷って、甘えるみたいに触れてくる。
その迷いごと、もらう。
「……待て」
「待たない」
「心の準備が」
「準備なんか、春にさせる」
笑った。
夏は眉を寄せ、言葉の替わりに俺の肩を軽く叩く。
痛くはない。
嬉しいだけだ。
間を作るために、喉元に口づけを一つ。
拍が落ち着く。
指を絡め、掌全体で手を包む。
絡み合う脈の速さが、やっと同じになった。
「秋葉」
「ん」
「……俺、今日まで、選ぶの怖かった」
「知ってる」
「でも、たぶん――もう、選んだ」
視線が逃げなくなる。
逃げない瞳は、世界でいちばんやさしい暴力だ。
額を合わせる。
鼻先が触れて、呼吸が同じ長さに揃う。
もう一度、唇を重ねる。
今度は、甘さのほうだけを残す。
夏の指が、俺の背に回る。
引き寄せる力が、覚悟の形をしていた。
少しだけ離れて、ソファに並ぶ。
湯気はまだ立っているのに、紅茶は口に運ばれない。
二人分の体温が、クッションにゆっくり沈む。
窓の外で、風が一度だけ鳴った。
「……志摩のやつ、どこまで知ってるんだろ」
「見届けるほうだって、言ってた」
「なら、救い」
「そうだな」
スマホの画面は、再生のまま止まっている。
“待つ”夏。
そのすぐ横で、“待たせない”俺。
どちらも真実で、どちらももう昔だ。
「明日も来る?」
夏の声は、子どものころの呼び名を半分だけ連れていた。
「ずっと、いる」
「仕事は」
「仕事も、いる」
「わがまま」
「お互いさま」
掌を重ねる。
指の間に、香り袋の紐がひっかかった。
ほどける結び目。
残る椿の香り。
「……秋葉」
「ん」
「俺、覚悟、半分くらいできてる」
「じゃあ、残りは今夜で」
「はや」
「遅かった」
夏が笑って、目尻に薄い皺が寄る。
その柔らかさに、ずっと会いたかった。
会ったから、手を離さない。
肩に額を預けられる。
重さは軽いのに、重力は強い。
静けさが、やさしい。
やさしさが、強い。
強さが、甘い。
「なぁ」
「なに」
「最初に、守るって言ったのさ」
「覚えてる」
「……たぶん、守られてたの、俺だ」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「知ってるから、言う。――夏は俺のだ」
夏の指が止まる。
次の瞬間、きゅっと握られる。
「……うん」
短く落とされた肯定が、胸の奥の古い扉を、完全に開けた。
静かに立ち上がる。
玄関に向かって歩く。
夏が後ろからついてきて、廊下の空気が二人分の温度になる。
ドアの前で止まる。
境界線。
靴箱の端、冷えた金具、薄い夜風。
全部が“こっちと向こう”を示している。
「越えるぞ」
「なにを」
「全部」
「全部?」
「全部」
夏が息を吸って、笑う。
「……ばっかじゃねーの」
「俺が?」
「俺が」
鍵を回す。
カチ、と小さく音がして、世界が一つだけ広くなる。
夜の匂いが、椿と混ざる。
外でも内でもない、細い帯。
指を絡めたまま、その線を踏む。
玄関の段差が、曖昧になる。
心臓の高さが揃って、視線の高さが揃う。
息を合わせる。
扉が閉まる。
音が消える。
温度だけが残る。
越えた。
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