9 / 9

【第8章|お前は、俺のだ ― 越境の夜】

 閉館後のロビーは、氷を溶かしたみたいに静かだった。  鍵を締める音が、夜の通りへ薄くほどける。  ポケットの中に、椿の香り袋。細い紐の結び目を親指で確かめる。  〈夜、少し空けとけ〉と送った自分の言葉が、胸の奥でまだ反響していた。  街は、春の手前で息を潜めている。  信号が赤から青へ、青から赤へ。  一定のリズムに合わせて歩幅を刻む。  角をひとつ曲がるたび、心臓の位置が近くなる。  インターホンを押す前に、扉がわずかに開いた。  夏がいる。  灯りが背中で揺れて、髪の端が光った。 「……早いな」 「早くした」 「入れよ」  靴を脱ぐ音、茶葉が湯に落ちる音、湯気が立ち上がる気配。  部屋の温度が、目に見えない手で整えられていく。  テーブルの上に、スマホ。  志摩から届いたファイル名が浮いていた。〈take_07_wait.mov〉 「見たのか」 「……再生、しただけ」 「今、もう一回」  再生を押す。  画面の中で、夏が立っている。  交差点の光が磨く横顔。  “待ってる顔”。  嘘のない、揺れない輪郭。  音が消えて、呼吸だけが聞こえる気がした。 「これが、お前だ」  画面を止める。  目の前の本物を見る。  同じ呼吸で、違う温度。  ソファの背に片手をつき、半歩、距離を詰める。 「……なに、その顔」 「顔?」 「近い」 「近くする」 「理由」 「ずっと我慢してたから」  夏の喉ぼとけが、少しだけ上下する。  指の先に、触れずに触る距離。  香り袋の椿が、胸の間で微かに揺れた。 「秋葉」 「ん」 「お前さ、最近、優しすぎ」 「そう見える?」 「見える。……怖い」 「怖くしない」 「……ほんとかよ」 「嘘つかない」  言いながら、視線を落とす。  夏の手首。薄い皮膚の下で、脈が跳ねる。  テーブルの輪郭が、二人の影を少しだけ重ねる。 「夏」 「……なに」 「俺がいないと、もう生きていけないじゃん」  息が止まる音。  目の奥の光が、一度だけ強くなる。  夏の肩が、反射で上がる。 「ばっ……ばっかじゃねーの」 「じゃあ、証明して」 「なにを」 「否定じゃなくて、俺のほうに来ることで」  喉までで止まった否定が、ゆっくり形を変えて溶ける。  夏はソファの背に指をかけ、ほんの少しだけ身体を傾けた。  重力に任せれば触れる距離。  黙って、待つ。  “触らない支配”を、今度は“触れる許し”にひっくり返すために。  夏が先に、指先を俺のシャツの裾に触れた。  柔らかい音。  心臓の熱が、そこで一度跳ねて落ちる。 「……ずるい」 「ずるいのは、お前だ」  椿の匂いが、湯気に混ざって部屋にひろがる。  降り積もった冬の気配が、底から少しずつ溶ける。  距離が終わった。  唇が触れる。  やさしい、じゃない。  所有のキス。  相手の形に合わせて、深さを決める。  息が交わるたび、拒みの筋肉がほどけていく。  夏の舌先が迷って、甘えるみたいに触れてくる。  その迷いごと、もらう。 「……待て」 「待たない」 「心の準備が」 「準備なんか、春にさせる」  笑った。  夏は眉を寄せ、言葉の替わりに俺の肩を軽く叩く。  痛くはない。  嬉しいだけだ。  間を作るために、喉元に口づけを一つ。  拍が落ち着く。  指を絡め、掌全体で手を包む。  絡み合う脈の速さが、やっと同じになった。 「秋葉」 「ん」 「……俺、今日まで、選ぶの怖かった」 「知ってる」 「でも、たぶん――もう、選んだ」  視線が逃げなくなる。  逃げない瞳は、世界でいちばんやさしい暴力だ。  額を合わせる。  鼻先が触れて、呼吸が同じ長さに揃う。  もう一度、唇を重ねる。  今度は、甘さのほうだけを残す。  夏の指が、俺の背に回る。  引き寄せる力が、覚悟の形をしていた。  少しだけ離れて、ソファに並ぶ。  湯気はまだ立っているのに、紅茶は口に運ばれない。  二人分の体温が、クッションにゆっくり沈む。  窓の外で、風が一度だけ鳴った。 「……志摩のやつ、どこまで知ってるんだろ」 「見届けるほうだって、言ってた」 「なら、救い」 「そうだな」  スマホの画面は、再生のまま止まっている。  “待つ”夏。  そのすぐ横で、“待たせない”俺。  どちらも真実で、どちらももう昔だ。 「明日も来る?」  夏の声は、子どものころの呼び名を半分だけ連れていた。 「ずっと、いる」 「仕事は」 「仕事も、いる」 「わがまま」 「お互いさま」  掌を重ねる。  指の間に、香り袋の紐がひっかかった。  ほどける結び目。  残る椿の香り。 「……秋葉」 「ん」 「俺、覚悟、半分くらいできてる」 「じゃあ、残りは今夜で」 「はや」 「遅かった」  夏が笑って、目尻に薄い皺が寄る。  その柔らかさに、ずっと会いたかった。  会ったから、手を離さない。  肩に額を預けられる。  重さは軽いのに、重力は強い。  静けさが、やさしい。  やさしさが、強い。  強さが、甘い。 「なぁ」 「なに」 「最初に、守るって言ったのさ」 「覚えてる」 「……たぶん、守られてたの、俺だ」 「知ってる」 「知ってんのかよ」 「知ってるから、言う。――夏は俺のだ」  夏の指が止まる。  次の瞬間、きゅっと握られる。 「……うん」  短く落とされた肯定が、胸の奥の古い扉を、完全に開けた。  静かに立ち上がる。  玄関に向かって歩く。  夏が後ろからついてきて、廊下の空気が二人分の温度になる。  ドアの前で止まる。  境界線。  靴箱の端、冷えた金具、薄い夜風。  全部が“こっちと向こう”を示している。 「越えるぞ」 「なにを」 「全部」 「全部?」 「全部」  夏が息を吸って、笑う。 「……ばっかじゃねーの」 「俺が?」 「俺が」  鍵を回す。  カチ、と小さく音がして、世界が一つだけ広くなる。  夜の匂いが、椿と混ざる。  外でも内でもない、細い帯。  指を絡めたまま、その線を踏む。  玄関の段差が、曖昧になる。  心臓の高さが揃って、視線の高さが揃う。  息を合わせる。  扉が閉まる。  音が消える。  温度だけが残る。  越えた。

ともだちにシェアしよう!