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【第7章|見せつけられた心 ― 交差点の影】

 夕方の光が、街を薄く磨いた。  駅前の交差点に三脚の足音。志摩の卒制ロケ。  ライトの輪が滑り、冬の空気に春の匂いが少し混ざる。影が長い。 「夏生くん、ここ」  志摩が指で路面の白線を示す。  ストラップが揺れて、レンズが横顔を撫でた。 「横顔、今日いちばん綺麗。……光、最高」 「褒め方、雑」 「雑でも事実。目線は斜め上、信号の向こう」  赤。  人の流れが止まって、音だけ残る。  無意識に、反対側を探す。――いない。  胸の奥が、わずかにざわめいた。 「深呼吸」 「……ん」 「見られると、君は落ち着く。それ、長所」  軽い声の奥で、レンズが瞬く。  内側が整っていく音を、胸骨の裏で聞く。  テストの合間、舗装の端で足が滑った。踵が浮く。 「わっ」  志摩が肩を支える。掌の体温が上着越しに触れた。 「大丈夫?」 「……大丈夫」 「脈、測らせて」  手首へ指が触れる。秒針みたいに数える。  赤信号が爪に反射して、小さな刃みたいに光った。  通行人の視線が集まり、また流れる。  志摩は手を離して、いつもの笑顔。 「秋葉さん、今日忙しいんだよね」  胸の内側がすっと冷え、爪の白い三日月が掌に食い込む。 「……知ってる」 「でも来る。君のとこに」 「勝手だな」 「勝手、だけど当たる」  青。  人が動き、体温が散る。  志摩は無言でファインダーに戻った。 「このまま歩き。目線は遠く」  レールを滑るカメラ。足元の影が二重になる。  正面から風。  椿じゃない、知らない花の匂いが一瞬だけ横切り、胸の“知ってる場所”を軽く叩いた。  ロケ地を映画館前へ。  自動ドアのガラスが街の色を編み込む。  ポスターの銀が薄く光り、ロビーの白が遠くに見えた。  スタッフの手がケーブルを束ね、志摩はライトを一段落とす。 「襟、ちょっと曲がってる」  喉元へ指が来て、ふわりと整える。 「……はい、今の“待つ”は綺麗」  見られている気配。  視線は、風と違って温度を持つ。  顔を上げる。通路の奥に秋葉。  スタッフに短く指示し、それから俺だけを見る。  遠いのに、近い。距離じゃなく、呼吸で測れる近さ。  志摩が空気を読み、声を落とす。 「ラスト。**“待ってる顔”**で」  誰を、とは聞かれない。  尋ねられない方が、正解は濃い。  秋葉だけを思い浮かべる。  ポケットの“夏”の通知。触れない宣言。赦しの温度。  スクリーンの白、香りの残り――全部混ざって喉が熱い。 「回す」  志摩の声。  同時に赤。街が静止画になる。  俺だけが息をして、秋葉は動かない。  視線だけが、俺の上に置かれている。  それだけで、立っていられる。  シャッター音。  次の瞬間、青。音が戻り、人が流れる。  志摩がカメラを降ろす。 「今の“待つ”、嘘じゃない。……誰を、とは聞かない」  返事はしない。言ったら割れる。 「データ、後で送る。君の選ぶタイミングで見返して」 「……選ぶ?」 「光は、人を押すから」  やさしい笑い方なのに、背中を軽く叩く確かさがある。  片付け。ライトがひとつずつ消える。  ロビーの奥から、秋葉が一定の歩幅で近づく。  影が重なり、足元の輪郭が揃った。 「寒い」 「……うん」 「手は?」 「大丈夫」 「そっか」  触れない。距離だけがきれいに揃う。  言葉は少ないのに、呼吸は合う。それが、やさしさの形。  志摩が一礼。 「秋葉さん、データ共有します。夏生くん、お疲れ」 「おう」 「また連絡する」  志摩は背中で退場。立ち位置を崩さず、気配だけ薄くする。  交差点の角で止まる。赤。  車のライトが水膜に細い線を引く。  風が椿じゃない香りを運び、すぐ散らす。  俺は半歩だけ寄った。肩が触れる手前で止まる。  秋葉は、その半歩を受け止めるだけ。 「……秋葉」 「ん」 「今日の俺、どう見える」 「待ってる」 「誰を」  秋葉は笑って、答えない。  答えないのに、心臓が答える。  静かに、間違えようのない方向へ傾く。  青。歩き出す。  歩幅を合わせるだけで、すこし安心する。  それでも喉に言葉が残った。  奪われるのが怖いんじゃない。選ぶのが怖い。  通りの角で、風が止む。  香りが薄く戻る。  あの冬の庭ほど確かじゃないけど、十分だった。  秋葉がポケットを軽く叩く。香り袋の気配。  目が合う。――それだけ。 「送る」 「……なにを」 「あとで」  短い会話の隙間に、志摩から通知。 〈take_07_wait.mov〉  小さな再生ボタン。押せば確定、押さなければ保留。  親指が画面で止まり、黙る。  赤。立ち止まる。  車の音が重なり、街が少し騒がしい。  ポケットのスマホが指の熱を吸う。  横で、秋葉の呼吸が静かに続く。  触れない。――離れない。  雲が切れて、薄い青。春は近い。  足先は前、胸の中だけが交差点の真ん中に取り残される。  志摩のライトの輪が残像を置き、目に残る光になる。  映像の外で、俺はまだ“待つ”。自分のために。誰かのために。どちらのためにも。 「夏」 「……なに」 「夜、少し空けとけ」 「空ける」  その一言で、かなりのものが動く。――今はここで止める。  青。渡る。  振り返らない。隣の影の長さだけ確かめる。  影は並ぶ。長さは同じ。速さも同じ。  それでも、まだ越えない。

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