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【 第6章|香りの再来 ― 冬の終わりに(秋葉視点)】
閉館後の映画館は、冬の匂いがする。
ポップコーンの甘さも、古いカーペットの埃も、みんな冷えて静かだ。
最後の客を送り出して照明を落とすと、空気が急に透明になる。
ロッカーの上に、母から預かった小さな包みがあった。
白地に薄紅の模様、椿の香り袋。
「花道教室で余ったから、あんたに」
母は何気なく渡したつもりだろう。
けれど、俺の胸はその瞬間だけ強く脈を打った。
袋を開けたとき、空気がやわらかく染まった。
香りは、あの庭の匂いと同じだった。
雪が降る前の朝、白い椿が並んでいて、
小さな手が俺の袖を引いた――「秋、これ折れた」
笑っていた、幼い夏生の声。
懐かしさは痛みより早く、胸の真ん中に降りてきた。
俺があの子を“守る”と決めた日。
けれど今、俺はあいつの笑顔一つで、簡単に壊れる。
*
翌日。
駅前の並木道で、夏生が誰かと話しているのが見えた。
嶋。あの心理学部の同級生。
白い息を吐きながら笑っていて、肩が触れる距離にいた。
何を話しているんだろう。
あいつの目が柔らかくなるのを見た瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
この一年、ずっと“優しい先輩”を演じていた。
叱るでも、奪うでもない、都合のいい距離感。
でも――違う。
「夏生が、俺以外の誰かに微笑むの、嫌だ」
声にはならなかったけど、喉の奥で震えた。
嶋の笑い声が風に混ざって消える。
指先が冷えて、拳の内側で爪が当たった。
俺の中に、こんな小さくてみっともない“独占欲”があったなんて。
帰り道、気づけば花屋に寄っていた。
赤いラナンキュラスを一輪、無意識に選んでいた。
意味なんてなかった。
けれど、それを持っていると少しだけ落ち着いた。
夜の風はまだ冷たい。
けれど、その冷たさの奥に、春の気配が隠れている気がした。
*
母の花道教室の前を通ると、灯りがまだついていた。
窓越しに、夏生の姿が見えた。
白い着物の袖口から、花の茎を慎重に扱う手。
昔、庭で折れた椿を水に挿したあの指先と同じ。
祖母の指導を受けているのか、
真剣な顔で、息を詰めている。
その横顔を見ているだけで、胸が痛くなった。
――あの頃、守るって言ったのは俺なのに、
気づけば、ずっと守られていたのは俺の方だった。
ガラスの向こう。
夏生がふと顔を上げた。
目が合う。
たぶん、俺に気づいた。
驚いたように瞬いて、少し笑った。
それだけで、世界がほどける。
俺はポケットから香り袋を取り出して、
鼻先に近づけた。
椿の匂いが淡く広がる。
あの庭の、あの冬の、あの約束の香り。
手を振る。
言葉はいらない。
硝子越しのあの笑顔だけで、もう十分だった。
風が止む。
電車の音が遠くに流れて、街の光が滲んだ。
ラナンキュラスの花びらが、夜風の中でひとつほどける。
香りが残る。
それだけが、確かなもののように。
――俺は、たぶんもう戻れない。
でも、それでもいい。
この想いが、あいつの春を連れてくるなら。
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