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【第5章|赦しの温度 ― ほどける掌】
雨が落ちる音が、地面の冷たさを連れてきた。
大学の門を出た時には、傘を持つ人の列が途切れていて、街灯の下だけが白く光っている。
ポケットに手を入れても、冷えは抜けなかった。
指の先から心臓の音が逃げていくみたいで、思わず拳を握る。
祖母の声を思い出す。
「冷えた花はすぐ折れるのよ。だから、手で温めてあげなさい。」
その言葉を聞いた時、俺はただ頷いただけだった。
今なら少しだけわかる。
人も、きっと同じなんだ。
冷たさを放っておくと、折れる。
映画館の明かりが、通りの奥で霞んでいた。
ガラス越しに、秋葉がスタッフへ指示を出している。
動作は穏やかで、声は届かない。
それでも、あの人がいるだけで、空気の温度が変わる。
胸の奥にわずかに残っていた“昨日”の気配が、まだ抜けきらなかった。
自動ドアを抜ける。
冷えた空気と暖房の間で、指先の感覚がぼやける。
秋葉が振り向いた。
その目に、少しだけ“距離”があった。
あの“触れない支配”の残響。
優しさのかたちをした、静かな罰。
「……寒くね?」
「別に」
「嘘つけ。手、真っ赤」
「放っとけよ」
「そう言うと思った」
秋葉の手が、ゆっくり上がる。
でも途中で止まった。
触れないまま、空気の中にとどまる。
その指先を、俺の方から掴む。
掌が合わさる瞬間、冷たいものと熱いものが混ざった。
「……触ってんじゃねぇか」
「お前が掴んだ」
会話の間に、笑いが一拍だけ落ちる。
息が白くなって、近づくたびに重なった。
バックヤードに移ると、照明が落とされていた。
蛍光灯の残光が、二人の影を淡く滲ませる。
秋葉の指が、俺の手を包んだまま離さない。
「夏って、冷たい手してるくせに、内側熱いんだな」
「うるせぇ」
「俺、そういうの弱い」
「ドSのくせに」
「Sでも、熱い手は好き」
静寂の中で、指先が少し動いた。
触れてるだけなのに、鼓動が速くなる。
掌の温度が、血の中に溶けていく。
息の混ざる気配が、距離をなくしていく。
「……秋葉」
「ん」
「なんで、そんな優しい顔すんだよ」
「優しい顔って?」
「赦されたみたいな顔」
秋葉が少しだけ笑う。
「赦してるよ。最初から」
その言葉で、胸の奥がやわらかくほどけた。
支配されるんじゃなく、包まれている感覚。
俺の冷たい部分が、少しずつ熱に染まる。
触れた指の先から、音のない音が伝わってくる。
映画館を出ると、雨が雪に変わっていた。
街灯の下で、白い粒が光を抱く。
指先がまだ温かい。
ポケットに入れても、熱は逃げない。
心臓の鼓動と同じ速さで、掌の中に残っている。
祖母の声がまた浮かぶ。
「花も、人も、冷たくなる前に抱いてあげなさい。」
俺は小さく笑って、空を見上げた。
「……あんた、正しかったわ。」
スマホが震える。
〈手、まだ冷たい?〉
〈平気。もう、あったかい〉
送信ボタンを押してから、指先を見た。
そこに昨日の“触れない”はもういない。
代わりに、やさしさがいた。
触れられたから、やっと息ができる。
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