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【第4章|優しさの裏側 ― 触れない支配】
館内の空気が沈んでいた。
上映前の静寂は、光より重い。
スピーカーの電源を入れると、機械の低い息が返ってくる。
白いスクリーンは、何も映さないのに、
誰かの顔を思い出させる。
夏。
短い文字の通知がまだスマホの中に残っている。
〈行く〉
たった二文字。
それだけで、昨日一日が帳消しになるほどの効力を持っている。
志摩がレンズを構えて言う。
「秋葉さん、光、もう少し下げます?」
「下げて」
指で角度を示す。
志摩の横顔が光に触れて、少しだけ揺れた。
そのまま彼が続ける。
「夏生くん、今日も来ますよね」
「来るよ」
軽く返した声が、胸の奥で反響する。
“二人”って言葉は、まだどこかに刺さってる。
昨日から抜けきらない小さな棘。
優しさの裏に、触れたくない何かが隠れている。
照明を落とす。
館内の音がひとつずつ消えていく。
志摩の声も、機械の動作音も、
自分の呼吸だけを残して、全部静まった。
「五分、休憩」
誰もいない空間が、命令ひとつで止まる。
支配って、たぶんこういうことなんだろう。
「秋葉」
夏生の声が、背後から届く。
名前を呼ばれただけで、心臓が立ち上がる。
振り向くと、光の端に夏生の影。
少し疲れた目をして、口元がわずかに緩んでいる。
「遅れた」
「時間ぴったり」
「そういうの、変わらないな」
「お前もな」
志摩が照明を合わせる。
レンズが夏生をなぞる。
その瞬間だけ、俺の呼吸が止まる。
誰かの視線が夏生に触れるたび、
自分の中の何かが欠ける気がする。
志摩「夏生くん、今日も表情いいね」
「……そうですか」
「この前より、目が穏やか」
「そう見えるだけですよ」
志摩が笑う。
夏生も、少しだけ笑う。
二人の間に小さな光が生まれて、それが俺の方へも届く。
眩しい。
でも、消せない。
「志摩、照明、一旦落とせ」
「はい」
スイッチの音。
暗闇。
スクリーンだけが薄く残光を放っている。
夏生の瞳がそこに映って、
自分の顔より近く感じた。
「秋葉」
「ん」
「昨日のこと、覚えてる?」
「どの」
「……俺、やきもち焼いた」
一瞬、喉の奥が熱くなる。
その言葉を待ってたくせに、心がざわついた。
「そうか」
「それだけ?」
「嬉しいよ」
笑うと、夏生は目をそらした。
光が落ちているのに、顔だけが赤い。
手を伸ばしたら、届く距離。
でも、触れない。
「夏」
「なに」
「触らないで縛る方法、知ってる?」
「……怖いこと言うなよ」
「怖くない。優しいやつ」
夏生が少し息を詰める。
その音が暗闇に浮かんだ。
俺は手を下ろす。
触れないことで、確かめる。
志摩のカメラが、遠くで小さく動いた。
レンズの奥で、二人の距離がフレームに収まる。
映っているのは、恋でも憎しみでもない。
ただ、呼吸。
触れないまま、呼吸だけが混ざる。
「……秋葉」
「ん」
「俺、触られた方が安心する」
「それでも、今は触らない」
夏生は唇を噛んで、目を閉じた。
そのままスクリーンの光が完全に落ちる。
暗闇。
音も光もない。
それでも、ここにいることだけが伝わる。
息を吸う。
夏生が同じタイミングで吐く。
リズムが揃う。
それだけで、満たされてしまう。
優しさって、こういうことなのかもしれない。
与えるんじゃなく、奪わないこと。
近づくより、離れないこと。
声をかけるより、沈黙を保つこと。
世界が静かになっていく。
スクリーンはもう真っ白で、映像も終わっている。
それでも、胸の奥でまだ誰かの息が続いている。
支配でも、愛でもない。
でも、どちらにも似ていた。
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