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【第3章|知らない感情の名前 ― きみを映す音】

黒板の上に、白い文字が三つ並ぶ。投影。同一化。回避。 チョークの粉が淡く落ちて、午後の光に細い線を引いた。 ノートを開き、“投影”と書く。隣に手が勝手に椿の輪郭を描く。 筆圧が強すぎて、紙が毛羽立った。 背後の席で、誰かが小声で笑う。 「志摩先輩、今度の卒制すごいらしいよ。館内でロケ。秋葉さんも手伝うって」 爪の白い三日月が掌に食い込んだのは、たぶん無意識だ。 氷みたいな空気が喉に沈んで、呼吸が一回分遅れる。 理屈は水だ。こぼしたら跡だけ残る。 ノートの端に、滲んだ黒が丸く乾いていく。 授業が終わると、教室は椅子の音だけになった。 カフェの窓は曇って、ガラスの水滴に外の人影が砕けていた。 志摩が先に来ていて、軽く手を振る。 「夏生くん、こっち」 首から下げたカメラが、彼の胸の前で静かに光った。 ノートパソコンを開いて、動画のサムネイルを並べる。 「昨日の。光量は足りてる。で、ほら、これ君」 画面の中で、俺が瞬きをする。 ほんのわずかな間に、表情が整う。 志摩は笑って、ストローをくわえた。 「嘘、整える。カメラ向けられると、君は顔を整える」 「俺が?」 「うん。見られるの、実は安心なんだと思う」 笑い方が優しいのに、刃が混ざる。 言葉で切られると、血は出ないのに熱だけが出る。 別アングルのファイルを開く。 薄暗い廊下の、非常灯の緑。 バックヤードで、秋葉が半歩だけ近づく。 俺の横顔が、ほんの少し緩む。 志摩が早送りを止める指を、そこで離した。 「これ、好きな顔」 「削除」 「コピー残す」 軽口のはずなのに、笑えない。 氷水のグラスに指を沈めると、氷が鳴った。 喉が乾いている。乾いていると気づくのが遅い。 テーブルの上にスマホを伏せる志摩の画面に、通知が一瞬だけ灯る。 〈秋葉さん:今夜の館内撮影、君の都合で合わせるよ〉 誰にも責められていないのに、心臓が一拍分増えた。 俺の知らないところで、“君”が時間を動かしている。 「秋葉さん、優しいよね。ラストの光、いつも語る」 志摩の声は白い湯気みたいで、熱の輪郭を曖昧にする。 「……あいつは、そういうやつだ」 「そういうやつ?」 「映画の話、する」 「恋の話、する」 ストローの先が氷に触れて、からん、と音がした。 「夏生くんは、どう?」 「なにが」 「見られるの、嫌い?」 答えに迷って、窓に滲む自分の形が少し伸びる。 嫌いじゃない。嫌いだと思ってたけど、嫌いじゃなかった。 「……普通」 「普通は嘘だな」 志摩は笑って、画面を一時停止する。 「君は見られても壊れない。それ、強さだよ」 軽く言われた肯定が、思ったより重かった。 椿の香りはここにはないのに、胸の奥で残り香がふっと濃くなる。 外に出ると、冷えた空気が顔を洗ったみたいに澄んでいた。 スマホが震える。 〈夏、生きてる?〉 〈上映終わったら来い。話ある〉 短いやり取りで、手の震えが止まる。 “夏”は、やっぱりここだ。 誰の口に拾われても、最後に戻ってくる場所がある。 映画館のロビーは、白い明かりで静かだった。 ポスターのガラスに自分の輪郭が薄く重なって、すぐにほどける。 通路の向こうで、秋葉が目線だけで「こっち」を合図する。 非常灯の緑が、床に細い帯を落としていた。 「夏、目、痛いだろ」 「……別に」 「じゃあ、俺を見るのは?」 冗談に見せかけた質問の形なのに、答えはどれも罠だ。 「仕事、忙しいのか」 「忙しい。けど、夏は別」 短い会話は、長い沈黙より重い。 反対側の通路から志摩の声が近づく。 「秋葉さん、夕方のテスト光、こっちで合わせますね」 秋葉が短く頷く。 志摩が俺を見る。 「夏生くんも、よかったら」 二人。 招待状じゃなく、刃。 「行かない」 自分の声が、思ったより低い。 志摩は肩をすくめて笑い、「また連絡する」と引いた。 残った空気に、機械の微かな呼吸音が戻る。 秋葉は距離を半歩だけ詰めた。 布の擦れる小さな音。 触れてないのに、触れられたところが熱い。 「志摩、嫌か」 「別に」 「へぇ」 秋葉は俺の下瞼に指を寄せて、隈の端を撫でる。 皮膚が薄いところに、やさしく触れて、離す。 「ここ、俺の」 昨日と同じ言葉。昨日より低い声。 心拍が足の裏まで落ちてから、跳ね上がる。 「二人で来い、って言われた」 「知ってる」 「なんで言う」 「夏がどう返すか、知りたいから」 簡単に言うな。 簡単に言ってほしい。 胸の中で、言葉同士が正面衝突する。 「……仕事戻れよ」 「戻る。終わったら連絡する」 「待ってねぇ」 「知ってる」 秋葉の笑い方は、ずるい。 言葉より先に、安心だけ届く。 扉が閉まって、音が一枚減る。 ロビーの時計は、秒針だけが働き者で、分針は昼寝中みたいだ。 ベンチに座らず、立ったまま時間をやり過ごす。 立ってる方が、心臓の位置がわかる。 アパートに戻って、机にノートを開く。 “投影”の横の空白に、ひらがなを一文字だけ置く。 “や” ペン先が紙を擦る音が、部屋の中心に立った。 スマホが震える。 〈志摩:明日、秋葉さんとテスト光〉 同時に、もう一件。 〈秋葉:夏、来る?〉 親指が秋葉に返事を打って、画面の上で止まる。 一拍。 〈行く〉 送信音が小さく跳ねて、すぐに沈んだ。 “や”の続き。 文字は子どもみたいに、少しだけ傾く。 椿の絵のそばに、ひらがなが並んでいく。 紙の目が、ひとつずつ手触りを返してくる。 花瓶の水に、黒いインクの影が揺れた。 窓の外で、だれかが自転車のブレーキを引く。 金属の擦れる音が、細く長く伸びる。 耳の奥に、映写機の低い息が重なる。 音は記憶の形をしている。 名前のない感情に、輪郭ができるときの音だ。 ノートを閉じる。 息をひとつ置く。 机の端に、秋葉からの新しい通知が灯った。 〈なにか食べたい?〉 〈なんでも〉 〈じゃあ、甘いの〉 甘いの。 文字は簡単で、意味は広い。 胸のあたりで、なにかがやっと座った。 電気を消す前に、ノートの表紙に指を置く。 熱は紙に移らない。 かわりに、音が残る。 擦れる、小さな音。 それだけで、部屋が満ちる。 やきもち

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