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【第2章|光を運ぶバイト ― まぶしい距離で】

窓の外が白すぎて、紙の上の黒が浮いて見えた。 心理実験室の蛍光灯と午後の光が混ざると、目の奥が少し痛い。 教授の手伝いで、映像学科と合同の感情測定をやるらしい。 俺は同意書にサインして、名前を書いた。 ドアが開いて、見慣れない声が滑り込んだ。 「被験者、夏生くんでいい?」 顔を上げると、首からカメラを下げた男が笑っていた。 栗色の髪、やわらかい目。 距離を測らずに近づくタイプの空気。 「志摩 涼真、映像学科。よろしく」 「堂本 夏生」 「じゃ、座って。光、少し当てるね」 窓際のブラインドが上がって、白が強くなる。 志摩はファインダーを覗きながら、軽く首を傾げた。 「怖くない? 撮られるの」 「……慣れてる」 「嘘。目が逃げた」 たしかに、視線はガラス面の自分にズレていた。 志摩は笑って、機材の角度を変える。 「人の感情って、光に出るんだよ。ね、今の顔、ちょっと綺麗」 綺麗なんて言葉、似合わない。 でも、嘘って言いきるほど、嫌でもない。 カメラの先に、誰かの視線がある気がして、背筋が冷えた。 映画館の白いスクリーンが、頭の中で点いたり消えたりする。 「そういえば、秋葉さんってさ」 名前が空気を変えた。 志摩は無邪気な調子で続ける。 「あの映画館のフロアリーダー。俺、バイトで一緒なんだ」 「……秋葉、知ってるのか」 「うん。よく“夏”って言ってる。夏生くんのこと、だよね」 呼吸の仕方を忘れた。 “夏”は、俺の家の庭と、祖母の教室だけに残る音のはずだった。 志摩の口から出ると、光がそれをさらっていく感じがする。 胸の中で、椿の香りが一瞬だけ薄くなった。 「秋葉さん、優しいよね。映画、めっちゃ好き」 「……あいつは、そういうやつだ」 「恋愛映画のラストの光、いつも語る」 志摩は笑って、シャッターを一枚切る。 カシャン、という音が喉に刺さった。 あいつが誰かと、その光の話をしている。 俺のいない場所で。 計測が終わると、志摩はモニターに俺の顔を並べて見せた。 怒りでも笑いでもない、半端な表情。 「見られてると、ほんの少し緊張して、表情が整うんだよ」 「整う?」 「そう。秋葉さん、撮ってみたいだろうな。わかりやすい“好き”が透ける顔」 “好き”という音が鳴った瞬間、心臓が一拍多く打つ。 秋葉の声以外で聞くと、居場所がない言葉だ。 モニターの中の俺は、誰かを待っている。 志摩は無邪気に笑っているだけで、悪気はないのに。 「夏生くん」 「なに」 「今度、卒制で“光と感情”やるんだ。少し協力してよ」 「……スケジュール次第」 「秋葉さんにも言っとく。二人で来なよ」 二人。 その単語はやさしいのに、棘を持っていた。 外に出ると、風の匂いが変わっていた。 冬が深くなる前の乾いた空気。 ポケットのスマホが震える。 画面に、短いメッセージ。 『夏、生きてる?』 『上映終わったら来い。話ある』 短いやり取りで、手の震えが止まる。 “夏”は、やっぱりここだ。 誰かの口に拾われても、最後に戻る場所がある。 映画館に向かう途中、志摩から通知。 『さっきのデータ、送っとくね』 添付された動画を開くと、俺が瞬きをする。 そのわずかな瞬間に、喉の奥で何かが落ちた音がした。 光は、優しい顔で他人を連れてくる。 俺の中の椿の香りと入れ替わるみたいに。 ロビーに入ると、あの白が出迎えた。 秋葉はカウンター越しに誰かに指示して、ふとこちらを見る。 目が合った瞬間、さっきまでの光が黙る。 志摩のレンズじゃない、俺が知ってる視線。 “見られる”じゃなくて“包まれる”方のやつ。 「来た」 秋葉は声を落として、カウンターを出る。 「今、五分だけ空く。こっち」 バックヤードの扉を開ける手首に、見覚えの傷。 小さな紙で切った線。 昔、花の茎で俺が作ったのと同じ場所。 「志摩に会った」 「知ってる。さっき連絡きた」 「……なんで俺の話する」 「夏の話、したいから」 簡単に言うな。 簡単に言ってほしい。 胸の中で、言葉がぶつかる。 「志摩に、二人で来いって」 「行かない」 「なんで」 「俺は、夏だけ見たいから」 短い返事。 それで全部、ひっくり返る。 黙っていると、秋葉は距離を半歩だけ詰めた。 制服の布が触れそうで触れない。 映画の音が遠くで揺れて、ここだけが別の部屋みたいに静かになる。 「光、浴びすぎると疲れる」 「……そうだな」 「俺のとこで休めよ」 名前を呼ばれなかったのに、呼ばれた気がした。 言葉の形より、呼吸の温度でわかる。 志摩の光はまぶしい。 秋葉の影はあたたかい。 どっちも俺の中に残って、どっちも捨てられない。 「仕事戻る」 「戻れ」 「終わったら連絡する」 「……わかった」 扉が閉まる前、秋葉が一度だけ笑う。 志摩の動画に映っていた俺は、誰かを待つ顔だった。 今の俺は、その笑い方を待っている。 指先が、さっきより素直に熱い。 ずるい。 ずるい。 ずるい。

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