2 / 9
【第1章|いつも通りの午後に ― 花と光の距離】
午後の光は、まるで花の影を撫でているようだった。
商店街の端、祖母の教室から流れてくる椿の香りが、冬の空気に淡く混ざっている。
俺は、紙袋を片手に持ちながら歩いていた。花の茎が少し揺れるたび、水滴が音もなく落ちる。
映画館の前で、制服の袖を二折りにした男が立っていた。
秋葉。
白いシャツの襟も、指先の癖も、昔と何も変わらない。
だけど、その“変わらなさ”がいちばん厄介だ。
「夏生、また花?」
「ばーちゃんに。今日、稽古あるから」
「ふうん」
秋葉は笑って、視線を少し落とした。
ポスターのガラスに映る光が、彼の頬をなぞる。
その瞬間、指先がわずかに熱を持った。
「来ると思った」
「は?」
「この時間、通るだろ。花、持って」
「……だから?」
「だから、見たかった」
まっすぐ言われると、息がうまく吸えない。
無意識に紙袋を持ち替えて、距離を取る。
けれど秋葉の目が、追いかけてくる。
「仕事、行かなくていいの?」
「あと五分」
「なら、早く行け」
「夏生の声、聞けたから平気」
冗談のような言い方なのに、笑っていなかった。
秋葉の目は静かで、奥に火がある。
昔の“甘やかし”とは違う。
今は、ちゃんと俺を狙ってる。
祖母の家から持ってきた花の香りが、ロビーの甘いポップコーンの匂いと混ざる。
人のざわめき、照明の明滅、チケットカウンターの呼び声。
全部が遠い。
近いのは、秋葉の息だけ。
「……この花、椿?」
「うん」
「白いの、俺好き」
「へぇ」
「お前も、似合う」
「は?」
「椿。冷たく見えて、触ると柔らかい」
からかわれているのに、顔が勝手に熱くなる。
秋葉は目を細め、少しだけ首を傾けた。
まるで何かを確かめるみたいに。
「手、見せて」
「切ってねぇって」
「確認」
逃げようとした手を取られて、脈の上を親指がなぞる。
柔らかいはずの皮膚が、ひどく脆く感じる。
そこに体温が集まって、頭の中が白くなる。
「速いな」
「歩いてたから」
「止まろっか」
「……やだ」
笑いながらも、秋葉の指は離れない。
横断歩道の白線が足元を滑っていく。
名前を呼ばれるたびに、心臓がずれる。
映画館の扉が開き、冷たい風が中に流れた。
照明の光が彼の横顔を照らし、ネクタイの結び目がわずかにほどける。
そこだけが、記憶と違った。
「夏生」
「……なに」
「この花の匂い、好きだな」
「そう」
「落ちても、香りが残る。……お前と一緒」
何も返せなかった。
返す言葉なんて、最初から持っていない。
紙袋の底で、椿が静かに揺れた。
秋葉が扉の向こうへ消える。
ガラス越しに見える背中が、光の中で輪郭をぼかす。
ロビーは再び静かになり、空気に残ったのは香りだけ。
俺はそれを嗅ぎ分けるみたいに、目を閉じた。
冬の風が頬を撫でる。
幼い日の声が、遠くで重なった気がした。
「なつ」
その呼び方が、まだ胸の奥で生きている。
消えてなんかいない。
――香り、まだ消えてねぇな。
ともだちにシェアしよう!

