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【第1章|いつも通りの午後に ― 花と光の距離】

 午後の光は、まるで花の影を撫でているようだった。  商店街の端、祖母の教室から流れてくる椿の香りが、冬の空気に淡く混ざっている。  俺は、紙袋を片手に持ちながら歩いていた。花の茎が少し揺れるたび、水滴が音もなく落ちる。  映画館の前で、制服の袖を二折りにした男が立っていた。  秋葉。  白いシャツの襟も、指先の癖も、昔と何も変わらない。  だけど、その“変わらなさ”がいちばん厄介だ。 「夏生、また花?」 「ばーちゃんに。今日、稽古あるから」 「ふうん」  秋葉は笑って、視線を少し落とした。  ポスターのガラスに映る光が、彼の頬をなぞる。  その瞬間、指先がわずかに熱を持った。 「来ると思った」 「は?」 「この時間、通るだろ。花、持って」 「……だから?」 「だから、見たかった」  まっすぐ言われると、息がうまく吸えない。  無意識に紙袋を持ち替えて、距離を取る。  けれど秋葉の目が、追いかけてくる。 「仕事、行かなくていいの?」 「あと五分」 「なら、早く行け」 「夏生の声、聞けたから平気」  冗談のような言い方なのに、笑っていなかった。  秋葉の目は静かで、奥に火がある。  昔の“甘やかし”とは違う。  今は、ちゃんと俺を狙ってる。  祖母の家から持ってきた花の香りが、ロビーの甘いポップコーンの匂いと混ざる。  人のざわめき、照明の明滅、チケットカウンターの呼び声。  全部が遠い。  近いのは、秋葉の息だけ。 「……この花、椿?」 「うん」 「白いの、俺好き」 「へぇ」 「お前も、似合う」 「は?」 「椿。冷たく見えて、触ると柔らかい」  からかわれているのに、顔が勝手に熱くなる。  秋葉は目を細め、少しだけ首を傾けた。  まるで何かを確かめるみたいに。 「手、見せて」 「切ってねぇって」 「確認」  逃げようとした手を取られて、脈の上を親指がなぞる。  柔らかいはずの皮膚が、ひどく脆く感じる。  そこに体温が集まって、頭の中が白くなる。 「速いな」 「歩いてたから」 「止まろっか」 「……やだ」  笑いながらも、秋葉の指は離れない。  横断歩道の白線が足元を滑っていく。  名前を呼ばれるたびに、心臓がずれる。  映画館の扉が開き、冷たい風が中に流れた。  照明の光が彼の横顔を照らし、ネクタイの結び目がわずかにほどける。  そこだけが、記憶と違った。 「夏生」 「……なに」 「この花の匂い、好きだな」 「そう」 「落ちても、香りが残る。……お前と一緒」  何も返せなかった。  返す言葉なんて、最初から持っていない。  紙袋の底で、椿が静かに揺れた。  秋葉が扉の向こうへ消える。  ガラス越しに見える背中が、光の中で輪郭をぼかす。  ロビーは再び静かになり、空気に残ったのは香りだけ。  俺はそれを嗅ぎ分けるみたいに、目を閉じた。  冬の風が頬を撫でる。  幼い日の声が、遠くで重なった気がした。 「なつ」  その呼び方が、まだ胸の奥で生きている。  消えてなんかいない。  ――香り、まだ消えてねぇな。

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