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第1話
梅澤(うめざわ)総合病院の跡継ぎには、二人の男子がいる。現院長の息子である要一(よういち)と、その従兄弟の正真(しょうま)だ。二人は同い年で、幼い頃から兄弟のように育った。
幼い頃の正真は無邪気で可愛らしかった。透き通るような肌に、明るい色の髪と大きな瞳は輝いて、まるで一人だけまばゆい光を浴びているよう。誰にでも人懐っこくみなに愛されていたが、寂しがり屋で、要一にくっついてそばから離れなかった。
一方の要一は幼い頃からずば抜けて賢く、3歳にしてバイオリンを弾きこなす神童だった。漆黒の髪と瞳。強い眼差しは子供らしくなく、他人を寄せ付けない静謐さをたたえていた。友達は正真だけ。正真を弟のように面倒を見たし、頼られることが誇らしかった。
正真は要一の家によく預けられていて、夜、ベッドに入る頃になるとよく不安がった。
「ねえ要一。ずっとボクと一緒にいてね。一緒にいてくれるならボクは何でもするから……」
眠れない正真を、要一は安心させようと頭をなでたり手を繋いであげた。
「そんなの、何にもしなくていいよ。俺も、正真がいてくれるだけでいい」
言いながら、きっとそうなるだろうと思っていた。一生、二人で生きていくだろうと。まさか、正真の方から手を振りほどいて去っていくなんて、要一は想像さえしたことがなかった。
高校生になった二人は、同じ学校に通っている。二人が従兄弟であることは先生にも生徒にも周知の事実だが、クラスが異なるのはそのせいではなく、成績別だから。要一は特別クラス。正真は一般クラスに席がある。それぞれのクラスの授業を終えたら、校舎1階のカフェテリアで待ち合わせるのが長い習慣になっている。
中庭に面しているカフェテリアは緑が広がり、窓から入る風や、木々を揺らすざわめきが心地が良いため、放課後の生徒の人気スポットだ。今日のような金曜は、週末に入る開放感でいつもより賑やかになる。
その中でも特にうるさくはしゃいでいるテーブル。その前で要一は立ち止まった。
「おい、正真」
要一に気づいて、そこにいた生徒たちが一斉に席を立った。遮るものがなくなり、輪の中心にいた正真が姿を現す。花のような美少年に成長した彼は、中高一貫の男子校で、愛でられる存在だ。
「要一!」
屈託のない笑顔を向けられるも、要一は目を合わせない。正真の取り巻きたちが全員が姿を消すのを、腕組みをして見送る。
生徒の一人の肩が、要一の肩に勢いよくぶつかったが、謝罪どころか舌打ちして去っていった。
「…………」
ここのところよく見る顔だった。取り巻きの中でも正真の近くにいる生徒。
ようやく静かになって、正真の向かいに着席した。
正真は要一にしか見せない甘えた上目遣いをする。
「さっきの大丈夫だった? あれわざとぶつかったよね」
「そうだろうな。俺に毎日追い払われて腹が立つんだろ」
その心情は理解はするが、不愉快というならよっぽど、毎日同じ手間を掛けられるこちらのほうだ。どうせすぐ待ち合わせの相手が来ると知りながら直前までアプローチする連中も、それを喜ぶ正真も、気がしれない。
「ごめんね」
正真が申し訳なさそうにする。
「あいつ前からちょっとしつこくてさ。今日もこれから一緒に遊びに行こうとか言って……。俺はもちろん断ったんだけど、」
要一は何も言わずに鞄から出したペンケースをわざと乱暴にテーブルにおいた。響いた音に正真がビクッと肩を揺らして口をつぐんだ。
「もういいよ。そんな話、時間の無駄だろ」
聞かずとも、おおむね察しはつく。正真は来るもの拒まずで、誰にでも愛想よく振る舞う。要一から見れば薄っぺらなものだが、生徒のなかには、自分に特別な好意があると勘違いする奴が出てくる。いざ、二人になろうと誘ったら手のひらを返されて怒った。そういうことがこれまでも何度もあった。要一は寒気がしながら、「そんなことよりも」と本題に入った。
「今日の数学の授業の復習と明日の予習は進んだのか。今日の小テストは? 点とれた?」
「えっと……」
とたんに正真が気まずそうに視線を外した。
テーブルの上には、数学の教科書とノートが開かれているものの、まるで手を付けられていない。
そして、ノートに挟んであった小テストは100点満点中、55点だった。
「お前さあ、ゲームなんかしてる場合?」
怒りが口をついて出た。
「さっき、俺が来るまでゲームしてたよな。時間を浪費するってあれだけ言ってるのに」
正真は青くなっている。
「先週の模試でもまた順位が下がっていたし、ゲームばかりして、勉強さぼってるんじゃないのか」
正真は「違う!」と叫ぶ。
「ゲームなんかしてない。さっきは友達のを見てただけだよ。ほんと……」
「言い訳するなよ。毎日ちゃんと勉強してればこんな成績なわけないだろ。こうして俺も手伝ってるし」
「…………」
うつむく正真に、要一はため息をぶつけた。
「分かってるだろ。将来正真が父さんの後を継いで、うちの病院の院長になるなら、正真は父さんと同じ大学の医学部の、同じ医局出身じゃなきゃいけないんだ。中途半端な医学部なんか出ても、後継として信頼されないし、病院の格だって落ちるんだよ」
「うん……」
かすれた声がわずかに聞こえた。
「潤一おじさんにも同じことを言われてるよ……」
「じゃあどうするんだ。こんな成績じゃ合格できるはずもない」
「…………」
もう正真は何も答えられなかった。柔らかな頬に、伏せた長いまつ毛が影を落としている。
幼い日に、梅澤総合病院の跡継ぎになると誓った二人だが、早くも行き詰まっていた。
二人の将来設計は、正真が医師で次期院長、神経質なところがある要一は理事として経営を支え、祖父の代からの梅澤総合病院を守り発展させていく。
中学受験で、二人そろってなんなく有名男子校に入学した。大病院に相応しいエリートの道を進み始めたように思えたが、常に全国トップの要一と違い、正真の成績は下がる一方で、優秀な生徒が集まるこの学校では、完全に落ちこぼれている。
このままでは、正真は病院を継げない。その焦りから要一はここのところ正真にきつく当たってばかりいた。怒鳴ったり、無視したり。要一の態度に正真は落ち込み、健気な態度で頑張ると言うが、すぐにサボって、成績は一向に上がらない。要一の焦りは増すばかりだ。
「怒んないでよ、要一……」
いつものように、瞳を潤ませた正真が許しを乞う。白い手を伸ばし、指先が要一の手に触れようとする。
「もうゲームはしないし、次の模試はもっと頑張るからさ……」
正真の琥珀色の瞳から涙がぽとりと落ちると、要一も後悔し始める。幼い頃は、正真にひどいことを言って、泣かせる大人をあれほど嫌悪していたのに。
要一から正真の手を握った。
「それなら俺も、もっと効率的な勉強法がないか、考えてみるよ。成績さえ上がればゲームだってしていいし」
それで良いか、と聞くと、正真がみるみる甘えた顔に戻った。
「じゃあその時は付き合ってよ」
まるで何もなかったような笑顔を見せられて、要一はほっとした。
「──ここをまず整理して、解法パターンに持っていくのが大事だ。コツがあるとしたら……」
「……うん」
要一はできるだけ丁寧な解説を心がけ、正真も熱心に耳を傾けている。
隣同士に座って、正真のノートを共有していると、距離が自然と縮まっていった。正真の頭が、要一の肩にもたれてくる。黙って受け入れると、正真はそのまま次の問題に取り組んでいた。
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