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第2話

 正真は、さらに力を抜いて要一に身体を預けた。 「重いよ。そろそろ離れろ」  要一はそう文句を言いながらも、正真を押しのけようとはしない。それどころか、支えてくれているのが分かる。  要一はもう怒ってないし、きっと、少し言い過ぎたと思っているはずだ。昔から素直じゃないけど、本当の要一の気持ちは、正真には簡単に伝わってくる。  まったく世話が焼ける“お兄ちゃん”だな、と思いながら腕に抱きついた。 「ヤダ、離れない。こうしてる方が勉強もはかどるよ?」  わざと子供っぽく、上目遣いしてみせる。要一は咳払いをした。 「もう……、仕方ないな。もう少しだけだからな」  呆れたフリをするけど、頬が赤い。態度もあからさまに優しくなって、こうなれば、もうこっちのものだ。  最近の要一は怒りっぽくて、成績のことで正真を叱ってばかり、行動さえ制限するようになった。  でもそれは、要一が、二人の将来の約束を何よりも大切に思っているからこそ。正真は深刻にならずに、甘えてしまうことにしている。  そうすると、さんざんキツイことを言ってたくせに、コロッと態度が変わるのが面白い。それでつい大げさにかわいこぶってしまって、他の生徒から、もし従兄弟でなかったら、付き合っているように見えると言われちゃったりして。  要一は楽譜を眺めている。正真には読めないが細かく入り組んだ旋律のようだ。 「それ、明日の?」  たずねると、要一は短く「そう」とうなずいた。  “明日”というのは、梅澤総合病院の創立記念パーティーのことだ。30周年の祝いだが、正真と要一の跡継ぎ披露を兼ねていて、要一は特技のバイオリンを演奏する。きっと盛り上がるだろう。なにしろ、子供の頃から有名な先生に師事してコンクールで何度も賞を取っている腕前だ。定期的に病院でミニコンサートもしていて、ルックスの良さからファンから『バイオリンの王子様』なんて呼ばれている。 「楽しみだなぁ……」  思わず口から心の声が漏れた。  正真にとって明日のパーティーは気が重いものだが、要一の出番だけは別だ。  皆の前で要一が堂々と演奏する姿、美しく響き渡るバイオリンの音色、そして惜しみない称賛の声──思い浮かべるだけで胸が高鳴る。バイオリンを奏でる要一のカッコ良さは、正真にとって何よりの自慢だ。 「要一の演奏中は、俺はいつも通りカメラマンしてるから、目線しっかりとちょうだいね。仏頂面じゃダメだよ、少しは微笑んで……」 「分かったから……正真は自分の勉強に集中しろ」  コツンと頭を叩かれたけど、ホール中央にある柱時計から五時を知らせるメロディーが流れ始めた。カフェテリアは閉まるし、要一はバイオリンのレッスンだ。やれやれやっと終わり、と正真は伸びをした。  二人とも普段の通学は電車だが、要一の使うバイオリンがとても高価なので、レッスンには車で通っている。  カフェテリアを出て、春の雨に傘をさした。校門の外には送迎の車が何台も連なっている。その中でひときわ重厚な黒いベンツが要一の迎えだ。普段なら要一の母だけど、今日の運転手はおじさんの秘書の男性だった。おばさんはきっと明日のパーティーの準備にかかりきりなのだろう。院長夫人として細かなところまで目を光らせているに違いない。  同じく、正真の母も、名ばかりの理事として、朝からしぶしぶとパーティーの準備に出かけて行った。遊び人の母と、几帳面のおばさんは水と油のように気が合わないから、今ごろ現場で喧嘩になっていないといいけれど。  車に向かおうとする要一に、正真は「また明日ね」と声をかけた。 「乗っていかないのか? 家に帰るなら同じ方向じゃないか」 「俺はこれから塾の自習室に行って、もうちょっと勉強するよ」  週明けの月曜に今日の数学の小テストの再テスト、来月はまた全国模試がある。 「できるときに、少しでもやっておこうかなって」 「それもそうだね」  要一は簡単に納得してくれた。珍しく正真からやる気を見せたので、嬉しそうだ。  正真が通っている塾は、要一のバイオリンの教室とは逆の方向で、地下鉄に乗ったほうが便利な場所にあるから、ここで要一を見送ることにする。 「じゃあ明日は、正真の家まで迎えに行くよ」  待ってるね、とうなずいた。要一が車に乗り込むと、正真は窓の外から視線を交わして手を振った。秘書がゆっくりと車を発進させる。信号を右に曲がったところで、その姿が完全に見えなくなった。 「……さてと」  要一がバイオリンレッスンに行ったら、まちにまった正真の貴重な自由時間だ。

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