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第3話
久しぶりに来た原宿は、正真と同じように放課後の学生や、外国人観光客、チラシ配りなどで騒がしい。駅を出たらさっそく知らない人に声をかけられた。軽そうな男で、何かを必死で言いながら名刺を見せてくる。目を合わせないようにしていると、坂の下の方から男が駆け寄ってきた。正真の待ち合わせの相手──百瀬 一(ももせ はじめ)だ。際立った長身なので遠くからでもよく分かる。手を振ったので正真も手を振り返して応えると、それに気付いて、しつこかった男がようやく離れて行った。そのまま正真と百瀬は合流する。
「今の大丈夫だった? ナンパ? スカウト?」
長身を屈ませて心配そうにたずねてくる百瀬に正真は鼻で笑った。
「さあ。ずっと無視してたから分かんない。宗教の勧誘とか、それともセールスでなんか売りつけようとしてたのかも」
しつこい男はこちらの気を引こうと、正真をやたら褒め称えた。ただでさえうるさいのに、
「その制服、〇〇高校でしょ?」これには思わず舌打ちした。やっぱりどこかで着替えてくるべきだった。純白のブレザーに金のエンブレムという気取ったデザインはやたら目立つし、エリートお坊ちゃんの目印として世間で有名だ。普段から学校の外では注目されていたが、ここではもっと大人数にあからさまな視線を向けられて居心地が悪い。
「仕方ないよ。正真ったら王子様級にかっこいいもん。白がよく映えて、眩しいくらいだよ」
そう言う百瀬は、いつ見ても色あせたTシャツとジーンズ姿だ。長身だけど猫背で、くせ毛の髪が伸びっぱなし。親しげな笑顔を向けてくれるが、鬱陶しい前髪で目元が隠れているせいで、不気味で怪しく見えてしまう。年齢は正真より6つ年上の23歳。知り合ったのは3ヶ月ほど前だ。正真が途方に暮れていたところを助けてくれた。
その日は春の始めのまだ肌寒い日で、現在2年生の正真は1年生の三学期終盤の学年末テストを控えていた。学校から帰宅後、部屋で勉強していると、庭から猫の鳴き声がして、一向に止まない。見に行くと、一番高い木の上から、見知らぬ小さい猫が助けを求めていた。キャラメル色の毛は薄汚れていて、さかんに鳴いているけれど疲れ切っているように見える。何でこんなところに……。小柄な正真の背では届かないので、踏み台を運んで登ったけれど、猫が怯えてさらに奥に逃げてしまった。どうしよう。家には他に誰もいない。いつもなら困った時は要一を呼ぶけれど、残念ながら彼は猫アレルギーで喘息をおこしかねない。
雨までポツポツ降りだしたとき、門のインターホンがなった。すっかり忘れていたが、一人きりの夕飯にフードデリバリーを頼んでいて、その配達員が、それまでにも何度か来ていた百瀬だった。雨の中、立ち尽くす正真を見て彼も庭に来た。黒いジャンパーのフードを被り、前髪で顔の見えない不気味な大男。少し怖かったが、あっさりと、子猫の首ねっこを掴んで降ろしてくれた。
一件落着。だが、親猫は見当たらず、正真も自分のことで精一杯で猫の面倒なんかみれない。それで百瀬が連れて帰ることになり、その時に連絡先を交換した。その後、子猫は百瀬が飼うことになったので、様子を見においでと誘われ、子猫の安全確認をしたらすぐ帰るつもりで、こわごわ独り暮らしのアパートに行った。
部屋には絵の具の匂いが漂っていた。百瀬は美大を卒業したばかりの駆け出しの画家で、でも絵の仕事なんかほとんどなく、生活費のためにフードデリバリーをしているそうだ。
フジと名づけられた子猫は元気そうで、ちょっと大きくなっていた。本棚の上が定位置で、何度呼んでみてもチラッと一瞥をくれるだけのつれない態度だったけど。
遊んでくれないフジの代わりに、百瀬がアイスティーを淹れてくれた。それから部屋のあちこちに立てかけてある百瀬の作品を見せてもらった。油彩画とアクリル画、パステル画と色々で、最初はほんの興味本位だったけれど、意外なほどに優しい色使いに、気がつくと床に座り込んでじっと見つめていた。まるで暖炉の火を見ているよう。心の奥底に優しく触れられ、安心して無防備になっていく感覚だった。
「あ、あの、正真くん……」
百瀬の声に、我に返った。すぐ後ろで見守っていた百瀬に振り向く。
「いい絵だね。すごく落ち着くっていうか…、いつまでも見てられるよ」
「そう? サンキュー」
首をすくめて、はにかんだ笑いにこっちまでくすぐったくなる。彼を怪しんでいたのが嘘みたいに、心が和んだ。
「そろそろ帰るね」
「あっ! そう!?」
百瀬の向こうに時計がある。予定よりずいぶん長居してしまった。
「折角来たんだし、もうちょっとゆっくりしていけば? お茶ももう一杯……」
「ううん」首を振った。
「塾に行く時間だから」
本音を言えば名残惜しいけれど、塾には必ず行かなくてはならない。授業をサボれば要一に叱られるし、医学部受験のために高額な月謝を払ってくれるおじの期待を裏切れない。
「そっか。じゃ、じゃあ……」
百瀬が立ち上がる。奥の部屋から紙袋を持って戻ってきた。
「これ……良かったら、なんだけど……」
首を傾げると、中を出して見せてくれた。
あの雨の日の、木の上にいたフジの絵だった。正真は突然現れたフジに戸惑うばかりだったけど、百瀬はこんなに優しい眼差しで見ていたんだ。寝ていたフジも何か感じたのか起き上がってニャーと鳴いた。
百瀬は頬を赤くしてる。前髪の隙間から目を合わせるともっと赤くなった。
「正真くんが迷惑じゃなかったら貰ってほしいんだ。その……出会った記念に」
言って3秒で、頭をぶんぶん振った。
「…………ごめんっ! フツーにいらないよなこんなの、邪魔だって。アハ、ごめんね。無名の奴が押しつけがましくて……」
一人で決めてしまって、大急ぎで紙袋にしまおうとするから、正真はその腕に飛びついた。
「待ってよ。大切にするから、貰っていい?」
その絵は今、正真の家のリビングの、フジのいた木が見える窓辺に飾ってある。
帰り際に百瀬から「これからも会いたい」って頼まれてちょっとドキドキしながらうなずいた。その後何度か誘われて、勉強を理由に断ってばかりだったけど、百瀬は嫌な顔ひとつせずにしょっちゅうデリバリーに来てくれたし、今日のイベントも誘ってくれた。
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