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第一章 レンタル彼氏 1-1
あやまちは、いつだって侵してから気づく。撮影当日の朝、駅前の広場で立ち尽くしたこの俺のように。
今ならまだ引き返せるのか。でも、ここで逃げたら自分で自分をきっと許せなくなる。
そんな問答を、さっきから俺は際限なく繰り返していた。
ともちゃんからの依頼は『幼なじみ価格』。納期は末日。どうあっても、男女二人の幸福なポートレートを撮り納めなくちゃいけない。
多くの予算は割けなかった。かといって今の俺の立場ではモデル事務所から短期間で信頼を得られるとも思えず、SNS経由は相手への信頼性がなさすぎてそもそも論外。
どうか俺の選択が吉と出ますように、と後悔へ転がり落ちてしまわないよう願うばかりだ。
「あの」
聞き慣れない声がする。
ふと先ほどまで降り注いでいたはずの光が遮られていることに気づく。新たに俺の足元に生まれた影は、正しく人の形をしていた。
「宮永さん、ですか?」
「……え」
春の光にも似た、やわらかな声色だった。
導かれるように顔を上げると、目の前には一人の男が立っていた。
つい癖で、全身を舐め回すように観察する。
すらりとした背格好に、中性的な顔立ち。そしてどこか日本人離れした、ヘーゼルナッツを思わせるような色素の薄い瞳は不思議と俺の視線を吸い寄せる。
カラコンか? いや、それを差し引いても『当たり』かもしれない。
「もしかしてあなたが、その……」
視線が重なり、息を呑んだ。男が俺の反応を受け止めて、口角を深く持ち上げる。
そういえば最初からこの男はずっと笑いかけてくれていたような気がする。
俺なんかに笑いかけても、メリットはひとつも生まれないというのに。
宣材写真にはなかった目元の自然な笑い皺が、俺の指先をそわつかせた。
「よかった。黙り込むから間違えて声かけたのかなって思った。目印は一眼レフ、って聞いてたから」
俺とのポジションを合わせるように、わずかに男が身をかがめる。
距離が詰まり、視界を奪われたまま思わず足を一歩引いた。スニーカーの底が石畳をなぞる。ざらついた音が俺たちの間を横切っていく。
「レンタル彼氏のミノリです。今日はよろしく」
軽く小首を傾げて愛嬌を醸し出した男に対し、引き攣った笑みで応えながら、首から下げた一眼レフのレンズキャップを指でなぞる。
後悔の文字を、そっと頭で打ち消した。
*
少し前までスマホの中の存在でしかなかったレンタル彼氏は今、予約したカフェの片隅で座っている。
詐欺じゃなかった。しみじみと思う。
むしろおそろしく誠実に、写真から得た情報とミノリの外見には偽りがなかった。
向かいあう形で腰を下ろしてからも何度となくミノリを不躾に眺めてしまい、やがて思いきり目が合った。おかしそうにほほえまれて、俺は随分と久しぶりに心臓の慌てる音を聞いたように思う。
「以上で規約の読み上げを、終わり、ます」
ホームページに羅列された規約を一通り声に出してからスマホをテーブルに置く。久しぶりにミノリの視線が俺に注がれ、妙にうなじのあたりがそわそわとした。
「真面目だなあ」
感想を一度だけ伝え、ミノリは再び口を閉ざす。それからこちらに断りを入れることなく、備えつけのタブレット端末から注文を開始した。
「俺、アイスコーヒーがいいです」
ん、という軽い返事とともにミノリの指がタブレットの上をすいすいと滑った。細くて、長い。所作はどこか落ち着いている。
警戒心剥き出しのまま、シャッターを切るようにミノリという人物を頭に記録していく。
「あの。聞いてもいいですか、ミノリ、さん」
ミノリが端末から手を離したタイミングで、俺は話を切り出した。横風が吹いたように、ミノリがわずかに目を細める。
「さっきも確認したけど、規約以外に守らなきゃいけないルールってないですよね?」
「うん、ない」
本当の、本当に?
いっそ清々しいほど断言する男に、そうやって重ねて問う勇気が持てず喉元で言葉が爆ぜる。
「そこまで気にする人も珍しいね。皆、もっと気軽にレンタルしていくのに」
自分の耳元を彩る一粒仕様の黒いピアスをいじりながら、ミノリが何気ない調子で言う。
こちらを見ているようで、実際は俺を通り越した遥か彼方を見ているような。そんな疎外感をミノリの視線から感じ取り、俺はかえって目を合わせられなくなる。
「今の時代、コンプラとかモラルとかいろいろ厳しいんで」
「でもコンプラ気にするようなやつが、恋人そのものをレンタルしようとは思わないんじゃない? あくまでも俺は恋人だよ?」
「まあ、言われてみればたしかに」
それ以上の会話は続かなかった。代わりになる話題も浮かばない。
どうにも俺は、人との上手な距離の取り方がわからなかった。置かれた境遇に自然と身を任せてしまえばいいだけ、とわかっていてもつい相手への警戒が先に立つ。
モデル探しだ、って変に気負うとハルちゃんの審美眼が曇っちゃうよ。ほのかにもそう忠告されたが、この性分はなかなか直せない。
そもそも写真の世界から距離を置き、一眼レフを外に連れ出すことすら久しぶりのことで、かつての審美眼がまだ息をしているかどうかも疑わしかった。
やがて「お待たせしました」と店員が大きな皿とドリンク二つを持ってやってくる。
たちまち肉の焼けた匂いが鼻腔を弄んだ。
昼はしっかり食べたはずなのに溢れた唾液が舌の上を縦断していく中、アイスティー、そしてどうあっても顎が持っていかれそうなほど大きなハンバーガーがミノリの前に現れる。
「うわ、でか」
「ね。大きいよね。でもすげえおいしそう」
ミノリの顔ぐらいなら、余裕で覆い隠せてしまうサイズ感だ。
ようやくミノリの予約が取れた水曜日。有休をもぎ取って実現した待ち合わせの時間は、十五時だった。
頼んでもドリンクとスイーツぐらいかと思っていたのに、ミノリはひどくお腹が空いていたらしい。
「食べる……いや、食べきれる、んですか」
「忙しくて昼ご飯食べ損ねてたから、余裕」
ミノリは力強くうなずき、いただきます、と長い指を従えた両手を胸の前で合わせた。
ミノリの口ぶりから察するに、この男はすでにほかの誰かにレンタルされてから俺のところに来たようだ。人気ランキングが上位だなんだと言っていたのはほのかだったか。
ミノリには売れっ子になるべくしてなった華があるように思う。
神様が「美しさ」を綿密に計算をして生み出したような顔も、事務的なほど淡々とした態度も。
一見冷たくも感じられるそんなミノリの要素は、ほんのりとやわらかさが滲む話し方で打ち消されていく。
今カフェにいる人間のいったい何割が、ミノリに一瞬でも意識を奪われたことだろう。芸能の世界を目指す人間にとっては、喉から手が出るほどほしい素質のひとつだと思う。
しかし当の本人はどれだけの視線を浴びようとも、マイペースにでかいハンバーガーを頬張り続けている。
「あ、けどもうひとつだけルールがある」
口いっぱいに頬張ったハンバーガーをしっかりと咀嚼し終えてから、あまりに唐突なタイミングでミノリは言った。
「……なんですか」
アイスコーヒーにミルクとガムシロップを投入しては、ストローでぐるぐる混ぜつつ訊ねる俺に、ミノリは目だけで笑う。
それから使い終えた紙ナプキンを丁寧に畳み、アイスティーを飲んでからようやくミノリは次の言葉を紡いだ。
「これは店側じゃなくて、俺が勝手に決めたマイルールだけど。でも俺を指名してくれた人には、必ずお願いしてる」
「覚えきれる自信ないけど」
「大丈夫。難しくない」
「わかった。聞く。覚えます」
「うん、いい子」
いい子、なんて褒められ方をしたのはあまりに久しぶりだ。子ども扱いをされたようで腑に落ちない。なのに邪険にもできなかった。
言葉の続きを慎重に促す。
「俺といる間は、ちゃんと彼氏を演じててほしい」
思わず「は?」と声が出た。
「だってお互い演じてる方が楽でしょ?」
ミノリの発する言葉ひとつひとつが本音かどうかは、もうずっと読み取れない。いつしか手を爪が食い込むぐらいに強く握りしめていて、鈍い痛みが伝わってくる。
「それはミノリさんだけじゃなく、俺も、ってこと?」
「そう。俺はあなたの彼氏なんだから、あなたも会う時間だけは俺の彼氏でいて」
柔らかな笑みを浮かべながらも、わずかに翳りを落とした気がして返すべき言葉を見失う。
すると先ほどの台詞が聞こえていたらしい女性客たちが、好奇心と興奮を覗かせながらミノリを一瞥してから、会計を終えて店を出ていく。
きっとあれが、本来の反応らしい反応だろう。
本音と嘘を器用に織り交ぜて、依頼者を喜ばせてくれる。そうやって相手を本気にさせては、次の指名を勝ち取っていくんだ、この男は。
「努力、はする」
ぎこちなくうなずいてみせる。さまざまな感情が渦巻いて、上手く笑えなかった。
「というわけで宮永さん、下の名前なんだっけ?」
「下の名前? なんで?」
「だって彼氏だから」
俺はスマホを掴み、打ち込んだ文字をミノリに見せる。
「春に輝くって書いて『春輝 』」
「それじゃあ、ハルって呼ぼう」
誰にも呼ばれたことのない呼ばれ方だった。
不快感はない。俺の中でいつまでも白紙だった部分を、うまく埋められてしまったような感覚さえある。
ミノリの声で呼ばれた「ハル」がいつまでも鼓膜を甘ったるく揺らすせいで、いつしか耳が熱を孕んでいた。
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