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第五章 ショコラを作る手、甘味店《ショコラトリエ・アルセリア》、開店!2

***  真琴の誕生日が近いと気づいたのは、彼が棚の整理をしているときだった。カレンダーの端に、とても小さな文字で「マコト誕生日」と書かれているのが偶然目に留った。それは、まるで隠すようにひっそりと書かれていて――その控えめさが胸を突く。  派手なことが苦手だからか、祝われることをいつも一歩引いて、受け取ろうとするその癖を私は前から知っていた。  心が溶けるように揺らぎ始めて、じんわりと体に熱を帯びる。 (――祝ってほしいと思わないのか。それとも、祝われる価値がないとでも思っているのか)  どちらにせよ胸がざわついた。腹立たしいほどに。 「……当日は、好きにさせてもらう」  守るのではなく、彼の誕生日はただ――喜ばせる側でいようと決めた。  真琴が不思議そうに首を傾げたが、何も言わなかった。いつものように。  誕生日の朝、工房に下りてきた真琴は、驚いたように目を見張った。 「えっ……なに、これ?」  作業台の上には、色とりどりのガナッシュを詰めた透明の箱。その上から、金糸で織った薄布をふわりとかけておいた。箱の中央には、深紅のルゼラの花を一本だけ添えた。 「今日……誕生日だろ」 「覚えてたの? いつの間に――」  覚えていて当然だ。むしろ一週間前から落ち着かなかったくらい。だが、そんなことは言えない。 「仕事前に渡すだけだ。開けるか?」 「え、いま?」 「嫌ならいい」 「嫌じゃない! 嫌じゃないけど……なんか緊張する」  真琴の指がリボンに触れた瞬間、私の息が浅くなる。こんなに緊張するとは思わなかった。布をめくると箱の中の光がふわりと揺れ、カカオの甘い香りが広がる。  精霊菓子――“ショコラ・デュー・エトワール”。星の雫という名を持つ特製ガナッシュだ。本来は祭礼用の高級菓子だが、真琴のためならいくつでも作れる。 「え、これ……僕のためにリオンが作ったんですか?」  真琴は目を丸くして、箱を軽く撫でた。 「……ああ」 「すごい、綺麗!」  無邪気に喜ぶその顔がかわいすぎて、心臓が危険なくらいドキドキする。 「遠慮せずに食べてみろ」  私の言葉に従って真琴は指先で一つ摘み、そっと口に運んだ。瞬間、表情がふわっとほどける。 「ん……っ、おいしい……なにこれ!」  味そのものよりも、受け取った瞬間の表情が答えだった。ぐらりと視界が揺れる。 (――なんだこれ。甘味の感想ひとつで、こんなに胸が苦しくなるものなのか)  真琴はそのことに気づかず、きらきらとした目でこちらを見る。 「リオン、これ……天才じゃないでしょうか」 「君が喜ぶなら、それでいい」 「何言ってるんですか、すごく喜びます!」  知らないのか。そんなふうに笑えば、何でも作りたくなる。欲しいと言われたら、城壁でも星でも持ってこようと思ってしまう――そんな気持ちを、気づかれてたまるか。  午後、仕事を終えた真琴に「一緒に外に出よう」とだけ告げた。真琴は相変わらず首を傾げる。  王都の裏通り、小さな丘の上。真琴がまだ知らない場所へ連れていく。 「え、ここ……初めて来た」 「見ろ」  視界の先には、夕陽に染まる王都の街並み。屋根瓦の赤がきらめき、遠くの噴水が金色に照らされている。  目の前の景色を見て、真琴は息を呑んだ。 「すごい……こんな場所があったんだ!」  ああ。今日だけは、君のためだけに用意した場所だ。 「誕生日なんだから、特別に……」 「ありがとうございます、リオン!」  小さく礼を言って笑う。その笑みが風にほどけて、自分の胸に触れる。  不意に言葉が零れた。 「……真琴」 「はい?」 「君は……もっと祝われていい」 「え?」 「誕生日くらい、自分を大事にしろ」 「だ、だいじに……してますよ?」 「してない。遠慮して誤魔化す癖がある」  真琴は目を瞬かせ、頬を赤くした。 「そ、そんなことないです」 「ある」  そっと真琴の手を取った。細くて温かい指先が、小さく震える。その震えが、自分の震えと重なった。 「今日は君の誕生日。君のための日じゃないか」  真琴は戸惑いながらも、手を引かない。引かないのではなく――離れないと決めたようだった。  夕陽がふたりの影を重ねていく。真琴の瞳が橙に染まり、胸の奥で何かが溶けた。触れた指は、離す気はない。  日が落ち、工房の灯りがともったころ。真琴が踵をトントンさせながら言った。 「今日は本当にすごく嬉しかったです。リオン、どうもありがとう」  胸の奥がじんと熱くなる。 「……なら、もうひとつだけ」 「え?」  そっと、真琴の唇にキスをした。柔らかい唇の感触に煽られ、思わず舌を絡めた瞬間――胸の内側で理性ではない何かが軋んだ。これ以上触れれば、もう戻れなくなる気がした。  慌てて後退りして距離をとる。祝うと決めた夜に、奪う真似だけはしたくなかった。真琴は凍りついたみたいに固まった。 「君の誕生日の……祝福だ」  それだけ言って、顔を見せないように俯く。深呼吸しなければ、理性が壊れそうだった。真琴は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせる。 「え、えっ?」 「嫌だったか?」  拒まれる可能性を、遅れて思い知る。 「……っ……嫌じゃない、です……」  その小さな声に、すべてを持っていかれそうになった。 「それなら、いい」  本当はもっと触れたい。もっと近くで呼吸を感じたい。もっと深く、名前を呼びたい。だが、今日はここで止める。真琴の“初めて”に無遠慮に踏み込む気はない。  真琴は胸の前で手をぎゅっと握りしめ、ぽつりと呟いた。 「リオン……今日は、すっごく幸せな誕生日でした。祝われた、というより――僕自身が選ばれた気がして。きっと忘れられません」  その言葉が、自分への最高の贈り物だった。  その夜。机の上の小瓶の蓋を開けると、真琴が「似合う」と言った香りがふわりと広がる。  今日一日の記憶まで香り立つようで、胸が静かに満ちていく。 「……私も、だ。祝える側になれたことが、こんなに嬉しいとはな」  真琴の誕生日を祝えたことが、自分への贈り物みたいに嬉しかった。

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