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番外編 真琴が倒れ、世界がひっくり返る日

 それは、本当に突然だった。書類の整理を手伝っていた真琴が一歩、前に出て――ふらり、と傾いた。 「……あ」  短い声。次の瞬間、床に崩れ落ちる身体。 「真琴!!!!!」  目の前の世界が止まる。  反射だった。距離なんて関係なかった。鎧の重さも、床も、全て無視して――私は真琴を抱き止めていた。 「真琴、目を開けろ。……真琴!!」  返事がない。呼吸はある。鼓動も、ある――だが、意識がない。その瞬間、私の中で何かが切れた。 「下がれ」  低く、震える声を発した後に、足元から魔法陣が展開された。 「ちょっ、副団長!」 「まさか、ここで高位回復を――!」 「静かにしろ!!!」  怒号と共に光が溢れる。治癒魔法。いや、治癒を超えた“強制回復”。 「……っ」  真琴の眉が、わずかに動いた。肌に血色が戻り、呼吸が安定する。 「……大丈夫だ。私がいる」  額に手を当て、魔力を流し続ける。周囲、大混乱! 「副団長が……魔法を……?」 「しかもあの出力……城が吹き飛ぶぞ!」 「医務官!!  医務官はどこだ!!」 「いや、もう治ってないか?」  団員たちが右往左往する中、 「落ち着け!!!」  団長の怒鳴り声が響いた。 「真琴殿は――」  言いかけて、言葉を詰まらせる。なぜなら副団長が、泣きそうな顔で真琴を抱いているからだ。  真琴、目を覚ます。 「ぅ……ん……」  かすれた声。 「り……リオン……?」  その一言で、魔法がぴたりと止まった。 「……っ」  深く、息を吐く。 「……よかった……」  額を押しつけるようにして、真琴を抱きしめた。 「心臓が、止まるかと思った……」  真琴、混乱する 「……え? えっと……?」  周囲を見回す。  騎士団が、半壊レベルの騒ぎになっていた。団員たちが青ざめ、団長が頭を抱え、医務官が走り回っている。 「これ……なにがあったの……?」 「倒れた」 「え?」 「倒れた。きっと慢性疲労の蓄積だ」  静かだが、怒りを抑えきれないリオンの声が室内に響いた。 「……無理をしていたな」  真琴は、はっとして視線を逸らす。 「えっと……ちょっとだけ、眠かっただけで……」 「嘘をつくな」  リオンは真琴の頬に手を添え、逃がさない。 「評価書。結婚式と新婚旅行の疲れに、周囲の視線。全部、抱え込んでいた」  団員たちが息を呑む。 「……真琴は、倒れるまで“助けて”と言わなかった」  団長はふたりの傍らで宣告する。 「……副団長」 「なんだ」 「これはもう――」  団長は、諦めたように言った。 「強制休養だ。真琴殿は王命で休め」  団員たちも声を揃える。 「賛成!!!!」 「異議なし」  それを肯定するように、リオンも頷いた。 「真琴は俺が看る」 「えっ?」 「24時間」 「えっ⁉」 「君に付きっきりだ」  団員たちはその様子を見て、にっこりと微笑む。 「ですよね」 「当然ですね」 「むしろ足りない」  リオンの宣言と団員たちの言葉で、真琴の頬は赤くなる。 「……リオン……大げさだよ……」 「大げさじゃない」  リオンは真琴の額に、自分の額を合わせた。 「君が倒れた時、世界が壊れた」  低く真剣な声が、真琴の胸に突き刺さる。 「私は二度と、あんな思いはしない」  団長は、ふたりに聞こえないように遠くで呟く。 「慢性疲労一回で、国家非常事態宣言が出る男……」 ***  医務室は静かだった。薬草の匂いと柔らかな光。そして、ベッドの横に座るリオン。僕は天井を見つめたまま、小さく息を吸った。 「……ねえ、リオン」 「どうした」  すぐ返る声。離れる気配は、微塵もない。 「……ごめんね」  その言葉に、リオンの動きが止まった。 「……何がだ」 「僕……倒れちゃって……」  あえて視線を合わせないで、話を続ける。 「騒ぎになったし、団員たちも困らせたし……リオンにも……迷惑かけた……」 「何を言ってるんだ」  リオンの低い声に一瞬、医務室の空気が凍った。 「……真琴」  耳よりも胸に響く低い声。怒鳴るわけでも、荒げるわけでもない。だからこそ怖い。  リオンは立ち上がり、ベッドの縁に手をついた。 「それを――本気で言っているのか」  僕は、戸惑いながらも頷いた。 「……うん」 「ふざけるな!」  短く鋭い声に、肩がびくっと震えた。 「……リオン……?」 「迷惑?」  リオンは怒りを噛み殺すように、歯を食いしばった。 「君が倒れて、私が――」  リオンの言葉が詰まる。深く息を吸い、それでも抑えきれずに声が震えたのが伝わる。 「私が、どれほど恐ろしかったか……分かっているのか……」  僕は、初めてリオンの目を見た。そこには怒りと恐怖と、後悔が混ざっていた。 「君が“迷惑”だと思った、それは――」  リオンは、僕の手を強く握る。 「私にとっては、失うかもしれない恐怖だった」  僕の喉が、ひくりと鳴る。 「……そんな……」 「君が倒れた瞬間、私は副団長でも騎士でもなかった」  目を閉じたリオンが、僕の肩に額を寄せて押し付ける。 「ただの――伴侶を失うかもしれない男だった」  僕の目に、涙が滲む。 「……ごめん……そんなつもりじゃ……」 「分かっている」  リオンの声が、少しだけ和らぐ。 「だからこそ、言っておく」  リオンは僕の頬に手を添え、逃げ場を塞いだ。 「君が倒れたことは、迷惑じゃない。君が“助けを求めなかったこと”が、問題だ」  告げられた言葉に、うっと息を呑んだ。 「でも……僕……大丈夫だと思って」 「大丈夫じゃなかった結果が、これだ。次からは――」  声が低く、重くなる。 「倒れる前に私に言え。頼むから……」  切なげに笑ったリオンが、額に軽く口づける。 「君の限界を決めるのは、君じゃない」  その言葉に導かれるように僕の指が、リオンの服を掴んだ。 「……迷惑じゃ……ない?」 「愚問だ」  リオンは、静かに言い切る。 「君は――私の“最優先事項”だ」  僕の目尻から、涙がぽろりと落ちた。 「じゃあ……これからは……」 「ああ、私を頼れ。迷惑だと思う前に、伴侶だと思え」  僕は、泣き笑いで頷いた。 「……うん」  リオンは、ようやく少しだけ力を抜き、僕を強く抱き寄せる。 「次に“迷惑をかけた”なんて言ったら」 「……言ったら?」 「抱き締めて、二度と言わせない」 「それ、脅し……?」 「約束だ」  医務室の外。団長が壁にもたれて、静かに呟いた。 「ああ、これはもう……“国家保護対象”じゃなくて“副団長の心臓部”だな」

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