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ショコラトリエ・アルセリアの惨劇(未遂)
午後の陽光が差し込む店内。甘いカカオの香りと穏やかな午後。その日、リオン・ヴァルハートは不在だった。そしてそれが、悲劇の始まりである。
最近、店によく通うようになったアルセリアの若き貴族。白金の髪とエメラルドの瞳を持つ、まさに絵に描いたような優男だった。
「今日も素晴らしいですね、真琴殿」
「ありがとうございます」
真琴はいつも通り、柔らかく笑う。数週間かけて築かれた信頼――何気ない会話と笑顔。
そして今日、タイミングよく店内には客が途切れていた。
「……真琴殿」
貴族の口調が甘く変わる。真琴は不思議そうな表情で小首を傾げた。
「私は、あなたに心を奪われました」
「えっ」
一歩、距離を詰められた真琴は、必然的に後退りした。
「その笑顔も、その優しさも――」
真琴がこれ以上逃げないように、貴族は腕を取る。
「ちょ、ちょっと待ってください」
貴族の腕の中に抱き寄せられた真琴はもがいて、必死に抵抗をした。
「どうか、私の――」
顔が近づくその瞬間――扉の鈴が鳴った。
ちりん。
音は穏やかだったのに、店内の温度が一気に落ちた。ゆっくりと、扉が閉まる。
そこに立っていたのは――リオン・ヴァルハート。
蒼い瞳が静かに光る。それだけで空気が軋み、貴族の背筋を氷水が走った。真琴を抱きしめた腕が、瞬間的に凍りつく。
リオンは一歩、足を踏み出す。それだけで、棚のグラスが微かに震えた。
「……離せ」
声は静かで、異様に低い。怒鳴らない上に叫ばない。だが殺気が、物理的に存在している。
貴族の顔色が真っ白になった。
「こ、これは誤解――」
リオンの視線がわずかに細まった刹那、床板にひびが入る。メリメリっという異音が店内に響き渡る。
「ひっ……!」
貴族は真琴を放し、体を震わせながらよろめく。
「出ていけ」
短い命令に、貴族は抗う気力などあるはずもない。白金の貴公子は、ほぼ転がるように店を飛び出した。
扉が激しく閉まり、チョコの甘い香りだけが取り残される。
そして始まる、真の修羅場――。
「……真琴」
静かで低い声――明らかに怒気を含む雰囲気が、リオンから発せられる。
「な、何もされてないです! 本当に!」
「抱き寄せられていた」
「それは、その、びっくりして……!」
リオンは目を閉じ、深く息を吐く。怒りは真琴にではなく、貴族に向いている。
「警戒していたはずだ」
「……はい」
「私は距離を取れと、念を押して言った」
「……はい」
ショコラトリエのカウンター前で、首をもたげながら正座をする真琴がいた。
「私は、君を疑っていない」
その一言で、真琴の肩が少し緩む。
「だが」
リオンはしゃがみ、真琴と目線を合わせた。
「君が無防備なのは、全く許容できない」
真琴の頬に、そっと触れる。リオンの指先が震えているのがわかり、真琴は息を呑む。
「奪われかけた」
「奪われてないです!」
「私はこの目ではっきりと見た。抱き寄せられて、唇を奪われかけていた!」
店内にリオンの低音が響く。真琴は反論不能で、謝るしかなかった。
「……ごめんなさい」
しゅんとする。リオンの怒りはそこで、方向を変える。真琴を叱るよりも真琴が他者に触れられた事実の方が、どうにも許せない。
「……二度と」
声が、少しだけ揺れる。
「私以外に、触れさせるな」
独占欲は隠さない。真琴は顔を赤くしてうなずく。
「はい」
数秒の沈黙。
「……怖かったか?」
さっきまで殺気を放っていた男が、今は不安そうに訊ねる。真琴は、少し考えてから答えた。
「……リオンが来てくれたから、大丈夫でした」
「今日は店を閉める」
「え?」
「安全確認が必要だ」
なお、その後の“安全確認”は非常に入念に、長時間行われた。
翌日、騎士団では――。
「副団長が街中で殺気を放ったらしい」
「貴族が一人、魂を抜かれて帰ったと」
「原因は?」
「……真琴殿」
貴族とやり合った副団長の問題行動を聞いて、団長は頭を抱えたのだった。
***
自宅の扉を閉めた瞬間から、理性は限界だった。早々に店を閉めて帰宅し、何事もなかったように振る舞う。
――振る舞っているつもりだった。
だが真琴が自分の少し後ろを歩いているだけで、胸の奥がざわつく。貴族に抱き寄せられていた光景が、頭に焼き付いて離れない。
(――触れられていた)
唇が近づいたあのとき、思い出すだけで喉の奥が熱くなる。
家の扉が閉まる。外界と完全に遮断された瞬間、ゆっくりと振り返った。
「……真琴」
「は、はい」
声が震えている。怖がらせたいわけではない。胸の奥で渦巻くものを、もう抑えられない。
一歩、近づく。逃げ場はない。壁際まで追い詰めるつもりはなかったのに、自然とそうなる。
「今の私は、冷静ではない」
正直に告げる。
「君を怒っているのではない」
そう言ってから、私は一度瞳を伏せた。昼間、氷のように光っていたそれを、真琴には向けられなかった。怒りはあの男に向いている。これは別の感情だ。
「……焦った」
言葉にすると、驚くほど脆い。
「奪われるかと思った」
真琴の瞳が、やわらかく揺れる。
「奪われません」
即答されても、それが余計に胸を締め付ける。
「わかっていない。君は自分がどれほど無防備か、理解していない」
そっと真琴の頬に触れる。怒りで冷たかったはずの指が熱い。
「私は王国最強騎士だと、皆は言う」
自嘲気味に笑いながら告げた。そうするしかできなかった。
「だがな、真琴」
額を軽く合わせる。互いの吐息がかかる距離に、胸が疼いて仕方ない。
「君の前では、ただの男だ……嫌か?」
問いは真剣だ。独占欲を押しつけたくはない。
真琴は小さく首を振る。
「嫌じゃ、ない」
その一言で、理性の最後の砦が崩れた。
ぎゅっと抱き寄せる。今度は、奪うためではない――確かめるためだ。強く、だが壊さないように肩に顔を埋める。
「……私のだ」
低く呟く。子供じみていることをしている自覚はあるが、どうにも止められない。
「誰にも渡さない」
真琴の手が、私の背に回る。
「はい」
それだけで、全身の緊張が溶ける。唇に、ゆっくり触れる。昼間の未遂を、上書きするように優しく。だが長く何度も。
「覚えておけ」
少しだけ意地悪に囁く。
「君の唇に触れていいのは、私だけだ」
真琴の顔が真っ赤になる。それがまたかわいい。
「今日は、徹底的に思い出させる」
「え、ちょっ……」
「安全確認だ」
真面目な声で言うから、余計にたちが悪い。
その夜、真琴はよく眠っていた。腕の中で、規則正しい呼吸を刻みながら。
――それが、余計に腹立たしかった。
守れた。奪われなかった。何も起きていない。それでも、胸の奥に沈殿した怒りと恐怖は、そう簡単に静まらない。
私は真琴の背に回した腕に、無意識に力を込めた。
「ん……リオン?」
かすれた声で名前を呼ばれ、はっとする。起こしたかと思ったが、真琴は目を開けていない。ただ眠りの底から引き寄せるように、両腕が私の首に絡む。
――ああ、くそ。
あの貴族が、どんな顔で真琴に触れようとしたのか。どんな声で、どんな距離で、どんな目で――。
想像した瞬間、胸の奥が焼け焦げる。
「……誰のものだと思ってる」
思わず、低く呟いていた。
噂によればあの男は、“他人の物を奪う”のが趣味らしい。なら、なおさらだ。
真琴は物じゃない。だが――私の伴侶だ。誓いを交わして名を共有し、命を預け合った存在だ。
それに触れようとした時点で、あの貴族は一線を明確に越えた。
私は真琴の顎に指を添え、そっと上向かせた。眠ったままの唇に、確かめるように口づける。
優しく、けれど逃がさない。
「……私のだ」
唇を離しても、そう言わずにはいられなかった。
怒りは、外では抑えた。騎士として、夫として、最悪の結末は避けた。
だが夜になって真琴が腕の中に戻った瞬間、抑えていた感情が一気に溢れ出した。
抱きしめる。何度も口づける。首元に顔を埋めて存在を確かめる。それはただの独占欲だと分かっている。でも、止める気はない。
「……奪われるわけがない」
真琴の温度。
心音。
私を信じきった無防備さ。
それらすべてが、私を“最強の騎士”ではなく、ただの男にする。
もしあの瞬間、私が間に合っていなかったら。もし、ほんの少し遅れていたら――その可能性を考えるだけで、背筋が否応なしに冷える。
――次はない。あの貴族が二度と真琴に近づかないよう恐怖として、記憶として、刻み込んだ。
それでいい。
私は真琴の額に、ゆっくりと口づける。
「……安心して眠れ。全部、私が守る」
真琴は何も知らないまま、私の腕の中でまた静かに眠り続けた。その無垢さが独占欲を、さらに深く煽るとも知らずに。
その夜、王国最強騎士は戦場ではなく自宅で理性と戦い、そして完全敗北した。
翌朝、真琴は腰が少しだけ痛いと言い、私は非常に満足そうな顔で朝食を作った。
騎士団ではその日、副団長の機嫌が異様に良かったという。
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