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番外編 老年のリオンと真琴
朝の鐘が鳴るより少し早く、店の裏口が開く音がした。
「……おはようございます、真琴」
低く、落ち着いた声。かつて戦場で数千を率いた副団長の声は、今では店の一日を始める合図になっている。
「おはよう、リオン。今日は仕込み早いね」
真琴は年を重ねても、相変わらずだ。柔らかく笑って火を起こし、香草を刻む手つきは迷いがない。
店は小さな街角の菓子と茶の店。名前はただの《マコトの店》――派手さはないが、いつも人が絶えない。理由は簡単だった。味がいい・空気が穏やか。そして、奥にいる老紳士が“とても感じがいい”。
リオンは今、エプロン姿だ。それを見て騎士団時代を知る者は、必ず一瞬固まる。
「……副団長殿?」
「今は店員です。ご注文をどうぞ」
にこり、と微笑む。剣を持たなくなっても、その所作には無駄がなく、背筋はまっすぐだ。
棚の整理、帳簿付け、客の誘導。すべてが完璧すぎて、自然と店の回転が良くなる。
結果:繁盛。
「リオン、休憩しないと」
「大丈夫です。君の隣にいる方が、私は楽ですから」
「……それ、お客様の前で言う?」
「事実なので」
真琴は呆れたように笑い、常連客は「はいはい、ごちそうさま」と肩をすくめる。
──だが初めて来た客は、なぜか背筋を正し、無意識に言葉遣いが丁寧になる。
老いてなお、オーラが消えない。
午後。街の子どもたちが店に集まる。
「おじいちゃん!」
「リオンさん!」
リオンは自然に膝を折り、目線を合わせる。
「今日は何にします?」
その様子を見て、真琴は少しだけ目を細める。
「……騎士団にいた頃より、柔らかい顔してる」
「そうですか?」
「うん。いい顔」
リオンは一瞬だけ黙り、それから指輪を撫でる。何十年経っても、外さないそれ。
「君がいるからでしょう」
夕暮れ、店を閉める頃。二人で並んで椅子に腰掛け、同じ湯気の立つ茶を飲む。
「戦が減った理由、結局なんだったんだろうね」
真琴がぽつりと言う。リオンは、少し考えてから答えた。
「……愛です」
「即答だね」
「ええ。剣より強く、命令より確実で、国境すら越える力でした」
真琴は苦笑して首を振る。
「自覚なかったんだけどな」
「でしょうね」
それでも、リオンの手は自然と真琴の腰に添えられる。老いても変わらない、その距離。
その店の噂は、今も残っている。
“あの店に行くと、争う気がなくなる” “理由は分からないが、心が折れるほど、あたたかい”
そして王国史の、本当に最後の追記。
王国戦史・補遺 最も長く続いた平和は剣を置いた騎士と、その伴侶の営む小さな店から始まった。
***
午後の店は、穏やかだった。昼の混雑が引き、陽だまりだけが床に残る時間。
その老人は扉の前で一度、立ち止まった。杖をつく手は細く、背は曲がっている。だが、その眼だけは――戦場を越えてきた者のものそれだった。
「……ここで、よろしいのかな」
かすれた声に、真琴が顔を上げる。
「はい。どうぞ」
老人はゆっくりと席に着く。その様子を、奥でカップを磨いていたリオンが見た瞬間、動きを止めた。でもすぐに、自然な微笑みに戻っている。
「いらっしゃいませ」
だが、その声は――かつて敵国の将が、夜の帳の中で聞いたものと同じだった。
「……噂は、本当でしたな」
老人は茶を一口含み、目を伏せる。
「この店に来ると、胸の奥が……とても静かになる」
真琴は少し照れたように笑う。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
老人は、しばらく黙ってから杖を握り直した。
「私は……昔、あなた方の国と剣を交えました」
店の空気が、ほんの少しだけ張る。だが、リオンは動じない。
「存じております」
「……やはり」
老人は苦く笑った。
「わしは、将でした。降伏文書に署名した、その夜……」
視線が、真琴に向く。
「貴方の名が、何度も出てきた」
真琴は目を瞬く。
「え?」
「“近づくな” “目を合わせるな” “言葉を交わすな”」
老人は肩をすくめる。
「滑稽でしょう。一人の騎士の伴侶に、国が怯えた」
リオンの指が、無意識に指輪を撫でる。
「ですが」
老人は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「わしたちの命が……全員救われました」
真琴が慌てて立ち上がる。
「ちょ、ちょっと、頭を下げないでください!」
「あなたが無自覚であったからこそ、我らは剣を置けた」
老人の声は震えていた。
「恐怖ではない。敵意を持てなかったのです」
真琴は言葉を失う。リオンが、静かに口を開いた。
「……あなた方が退いたことで、どれだけの命が救われたか」
「ええ」
老人は微笑む。
「だから今日は、これを」
小さな包みを差し出す。中には古い勲章――敵国のものだ。
「戦を終えた証として、ここに置いていきたい」
真琴はしばらく迷い、そして、棚の一角にそれを置いた。
「……じゃあ、これは“平和の記念品”ですね」
老人は、目を細めた。
「本当に……素敵な国になりましたな」
「そうですか?」
「ええ。剣ではなく、茶と菓子で迎えてくれる」
立ち上がり、扉へ向かう前に老人は振り返る。
「副団長殿」
「はい」
「……最後まで、丸くはなりませんでしたな」
リオンは、ほんの少しだけ笑った。
「守る相手が、変わっただけです」
扉が閉まる。真琴は、ぽつりと呟いた。
「……なんか、とんでもない人だったね」
「ええ。元敵将です」
「さらっと言うなぁ……」
リオンは、真琴の肩にそっと手を置く。
「ですが」
「?」
「君は今日も、国を一つ救いました」
「……自覚ないって言ってるでしょ」
それでも二人の間に流れる空気は、どこまでも穏やかだった。
その日の帳簿の余白に、誰かが走り書きを残していた。
来店者:元敵国将
被害:戦意喪失
備考:副団長、通常運転
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