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遠くから見るだけの距離

 夜会は、いつも通りの華やかさだった。音楽、談笑、政治的な笑顔。だがレオニスの視線は、自然と一箇所に引き寄せられる。  ――真琴。  淡い色合いの正装に身を包んだ青年。線は細いが、頼りないわけではない。むしろ、柔らかな所作が周囲の空気を和らげている。 (……男、なのに)  思考が、そこで止まる。  知っている、知ってはいた。それでも実際に公の場で見ると、理解が追いつかない。  その隣に立つのが――リオン・ヴァルハート、王国最強騎士。静かに立っているだけで、空間の重心がそちらへ傾く男。  だが真琴が何かを言うと、ほんの一瞬、リオンの表情が緩む。それを見ただけで、レオニスの喉がひくりと鳴った。 (……ああ)  護っているのではない。誇示でもない。隣にいるのが、当然だという顔だ。  男同士で。しかも、これほどの力の差がありながら。自分が奪おうとしたのは、ただの「伴侶」ではなかった――“選ばれた側”だ。  胸の奥が冷える。  あの日の記憶が、鮮明によみがえる。抱き寄せた腕。近づいた距離。そして――背後に現れた気配。  剣も抜かれず、魔力も解放されず、ただ向けられた視線。リオンがこちらを見るほんの一瞬、その一瞬で十分だった。  ――覚えているな。  あのときを思い出す視線を向けられただけで、そう言われた気がして、レオニスは反射的に視線を逸らした。 (違う……)  何もされていない。ここは夜会、公の場。それでも足が動かない。  柱の陰に身を寄せて再び視線を向けると、リオンはもう真琴だけを見ていた。  真琴が笑う。それだけで空気が変わる。 (……奪えるはずがない)  ようやく、はっきり理解する。あれは所有物ではない。身分という力で奪える関係でもない。選び合った結果として、そこにあるものだ。  レオニスは、静かにその場を離れた。  もう近づかない。視線も向けない。男であることすら関係ない。  ――あの騎士にとって、“真琴であること”そのものが、絶対なのだから。 ***  夜会は、平穏だった。音楽、会話、杯の触れ合う音。王城の広間に漂う、いつも通りの空気。  ――ひとつを除いて。 (……いるな)  視線の先、柱の影に近い位置。レオニスがこちらを見ている。正確には――真琴を見ている。  真琴は気づいていない。誰かと話しながら、少し楽しそうに笑っている。 (それでいい。気づく必要はない――)  私は一歩、真琴の前に出た。距離は変えない、触れもしない。ただ、立ち位置を少しずらす。  ――それだけで、真琴の視界から“彼”は消える。  真琴が首を傾げる。 「……リオン?」 「問題ない」  問いを深めさせない声で答える。視線は真琴ではなく――遠くの一点に固定したまま。  レオニスと目が合う。夜会なので剣もない。殺気も、外には出していない。  ただ、確認する――覚えているな。言葉は不要だ。  私は、ほんのわずかに真琴へ近づいた。肩が、触れるか触れないか。それだけ。  だが意味は十分だろう。ここから先は、踏み込むな。  レオニスの喉が動くのが見えた。視線が揺れながら逸れ、そして――下がる。  柱の影へ、さらに後ろへ。 (――よし)  真琴が、小さく息を吐く。 「夜会って……人が多いね」 「ああ」  私はようやく、彼を見る。穏やかな表情。何も知らない顔。それでいい。 (――君は、知らなくていい)  外の世界がどれほど不用意で、どれほど愚かで、どれほど危ういかなど。  私が見る。私が止める。それが夫の役目だ。  再び視線を前に戻すと、レオニスの姿は夜会の人波に紛れていた。  ――理解したな、それで十分だ。  私は何事もなかったように、真琴に言う。 「少し、飲み物を変えるか」 「はい」  微笑んで頷く、その横顔。私は、誰にも聞こえないほど小さく息を吐いた。 (……触れさせない)  声にしない誓いは、この広間の誰よりも確かだった。 ***  夜会の喧騒は、騎士団長にとってはただの背景音に過ぎない。  杯を手に挨拶を交わし、笑顔を作りながら――彼の視線は、自然と広間の一角に引き寄せられていた。 (……いるな)  副団長とその伴侶。真琴殿は誰かと穏やかに会話している。それは問題ない。いつも通りだ。  だがリオンがほんの一歩、立ち位置を変えた――ほんの一歩だ。真琴殿に触れもしない。声も出さない。でもその瞬間、分かってしまった。 (……あ~……)  団長は、内心で頭を抱えた。  副団長の体の向きと視線の角度。そして広間の反対側――レオニス。  いる。見ている。よりにもよって、“そっち”を。 (まったく、馬鹿な男だな……)  団長は、遠くからでも分かった。  これは威圧ではない。排除でもない。警告だ。しかも最低限で最大効率。剣を抜けば問題になる。魔力を漏らせば騒ぎになる。  だから、あえて何もしない。  ただ立つ。  ただ遮る。  ただ視線を合わせる。 (……あれで止まらなかったら、終わってたな)  団長は杯を傾けるふりをしながら、深く息を吐いた。レオニスの反応も、見逃さない。  硬直。  視線の逸れ。  後退。  そして、人波の中へ消える。 (やっと理解したか――)  理解しただろう。理解していなければ、今ここに立っていない。  団長は、ようやく肩の力を抜いた。その間、真琴は気づいていない。リオンの横で、小さく首を傾げている。 「夜会って……人が多いね」 「ああ」  副団長の声は普段通り。感情の揺れは外に出ていない。 (……本当に、恐ろしい男だ)  守る相手の前では、ただの騎士。だが外に向けては、境界線そのもの。  団長は、心の中でそっと呟く。 (夜会でやるなよ……頼むから)  だが同時に、理解してしまう。彼は夜会だからこそ、この方法を選んだのだ。騒ぎを起こさず誰も傷つけず、ただ一人だけを確実に止める。 (これ……胃がもたん)  団長は杯を置き、額を押さえた。  今夜の報告書に「特記事項なし」と書けることだけが救いだ――特記事項があった場合、書くのは戦果報告ではなく、始末書になるのだから。  遠くで副団長が真琴に何か言い、二人は何事もなかったように談笑している。  団長は、静かにため息をついた。 (……本当に、よくやってくれる)  褒めているのか、嘆いているのか。自分でも分からないまま。ただ一つだけ、確信していた。  あの場にいた貴族は、二度と“伴侶”という話題を軽く扱わない。それだけは間違いない。

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