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― プロローグ:スマイルの温度 ―

 「スマイルください」  言った瞬間、空気が止まった。  紙カップの湯気が宙で丸くほどけ、光の粒を吸い込む。  午後四時。  コーヒーマシンが最後の蒸気を吐き、  焦げた砂糖の匂いが浅く漂っていた。  この街では、挨拶の半分が“香り”でできている。  生まれつき、人は二つの性質にわかれる――“ケーキ”と“フォーク”。  ケーキは甘さを纏い、香りで心を開く。  フォークは味で相手を知り、触れずに輪郭を掬い上げる。  恋は、言葉の前に鼻先で始まる。  レジの奥に立つ青年が、きょとんと目を瞬かせた。  制服の襟に粉砂糖が一粒、残っている。  それが、まるで世界の中心のように眩しかった。 「スマイル……ですね」  彼は小さく笑って、カップのふたを閉めた。  その笑顔が、熱よりも先に届く。  レモンの皮を削ったような明るい香りが、  微かに空気の層を変える。  ――フォークの香りだ、と直感する。  軽やかで、舌先に触れずに“味”の輪郭だけを置いていく種類の。  大学三年、藤ヶ谷怜。  俺はケーキだ。診断票にもそう刻まれている。  研究室帰りの頭はノイズでいっぱいだった。  論文、締切、教授のメール。  どれも現実的で、どこまでも無味。  ただ温かい液体が欲しかっただけ。  それだけのはずだったのに。  彼の声が、記憶の表面に沈んだ。  もう戻れない場所に、やさしさの輪を残して。  紙カップを受け取る。  その瞬間、掌の皮膚がざらりと音を立てた気がした。  焦げ砂糖とレモンの匂いが混ざって、  息の奥まで満たされていく。  ケーキの身体は、好みのフォークに反応して“甘さ”が変調する。  胸の奥で、バニラが一滴、体温に落ちた。  言葉にするには、まだ温度が早い。  けれど、匂いが心臓を包む速度は、理屈を越えていた。  視線を逸らす。  名札に“有栖川”と書かれていた。  初めて見る字面なのに、  舌の裏に残る響きは、苦いカラメルみたいに残った。 「お待たせしました」 「……ありがとう」  たったそれだけで、  息が浅くなった。  マシンの音が、最後の一滴を落とした。  誰もいないテーブルに、氷の残ったグラスが並ぶ。  店内の照明がわずかに揺れ、壁の時計が息を潜める。  その静けさの中で、香りだけが動いていた。  焦げた砂糖の甘さがゆっくりと天井をなぞり、  レモンの光が、空気の縁を柔らかく撫でた。  ケーキの甘さとフォークの酸は、出会うと必ず小さな反応を起こす。  泡でも煙でもない、記憶の温度だけが上がっていく。  熱の残るカウンターの上に、  彼の手の跡がひとつ、薄く残っている。  そこから立ちのぼる香りは、  火を止めたばかりのフライパンに似ていた。  熱でも煙でもなく、  時間そのものの余熱。  誰かの笑い声のかけらが、  空気の底で泡のように弾けて消える。  指先でカップを回す。  中の液面が小さく波打つ。  その動きに合わせて、香りが少し濃くなる。  嗅覚が脈を打つ。  心臓が、香りの速度で動く。  この一瞬を、説明できる言葉がない。  ただ、“いる”という事実だけが、  五感のどこかで確かに残っていた。  マドラーを袋から出すと、カップのふちがわずかに濡れていた。  その跡に指を滑らせる。温度はほとんどないのに、  触れた場所から心拍が一拍遅れて返ってくる。  ケーキの反射だ。好相性のフォークに会うと、  微細な拍が“甘さの揺れ”として皮膚に出る。  人の香りは記憶に似ている。  残り香が薄れるまでのあいだ、  空間のすべてがその人の輪郭になる。  音も、光も、思考さえも。  この街では、その輪郭を“ペアリング”と呼ぶ。  香りで惹かれ、味で心を知り、温度で信じる。  それは運命のふりをした、生活の技術だ。  カウンターの下では、  彼が整えたペーパーナプキンが等間隔に並んでいる。  その几帳面さが、彼の笑顔よりも少しだけ胸に残った。  フォークは、乱れを嫌う。甘さの測定に誤差が出るからだ――  そんな講義の断片が、今さら役に立つ。  レジ横のポスターが風に揺れた。  秋の限定メニュー。  キャラメルナッツラテ、ハニーミルクティー、相性診断クッキー。  甘い言葉が並ぶ中で、  なぜか「スマイル」だけが、メニューになかった。  たぶん、それは商品ではないから。  もらったものではなく、  返ってきたものだから。  ふと見上げると、  店のガラス越しに橙色の光が差し込んでいた。  日暮れが街を柔らかく溶かし、  香りだけが時間の境界を越えて残った。  通りの影が、窓辺を横切る。  人々の声は外にあるのに、  この店だけが別の温度を持っている。  フォークのいる場所は、ケーキにとって蜜源になる。  近づくほど、世界の輪郭が甘くなる。  背後でマシンのランプが消えた。  空気の流れが変わる。  そのわずかな沈黙に、  胸の鼓動がはっきりと浮かび上がった。  目を閉じる。  光が残像を描く。 レモンの皮を擦ったときのような、  鋭くて柔らかい光。  開けたとき、  空気が少しだけ軽くなっていた。  まるで香りが、  外の風へ出ていく準備をしているみたいだった。  外に出ると、風が乾いていた。  街の奥から焼き菓子の香りが流れてくる。  誰かの家でオーブンが鳴っている。  遠くの通りでは子どもの笑い声。  その中に、彼の笑いがまだ混ざっている気がした。  この街の秋は、香りでできている。  焦げた砂糖、濃いコーヒー、焼けたバター、  ほんの少しのミルク。  それらが重なり、溶け、夜に沈んでいく。  ケーキは季節で味が揺れる。秋は、甘さが深くなる。  掌の熱が、なかなか冷めない。  指先に残る温度が、どこか違う。  触れられたわけじゃない。  ただ、香りが“触れた”のだ。  フォークの微笑は、舌に触れないまま甘さを変える。  この世界には、香りの属性がある。  人にはそれぞれ、“味”が宿る。  香りで惹かれ、味で心を知る。  その共鳴を“ペアリング”と呼ぶ。  合図はいつも、ささやかだ。  たとえば、注文を受けるときの名前の呼び方。  あるいは、紙カップを渡す瞬間の体温。  俺は信じていなかった。  少なくとも、あの青年に会うまでは。  歩くたび、靴底が柔らかい音を立てる。  夕方の光が低く差して、  街全体が、低い火で保たれたオーブンの熱に染まっていた。  信号の赤がコーヒーの表面に映り、  その波紋が一瞬、記憶に沈む。  香りというのは、記憶の断片だ。  一度吸い込むと、二度と離れない。  彼の香りは、たぶんそういう類のものだった。  淡い酸味と、静かな甘さ。  レモンの皮の奥に眠る苦味のような、現実の匂い。  紙ナプキンを握る。  指先についた砂糖の粒が、  光に反射して消えた。  どこにも行かない光。  けれど確かに、存在している。  夜が始まる少し前。  店のガラス越しに、まだ彼の背中が見えた。  明るい笑い声が重なって、  コーヒーの蒸気がふわりと広がる。  その中で彼が振り向いた気がした。  視線が合うわけじゃない。  でも、香りが応えた。  ケーキの甘さが、ごく微かに強くなる。  スマイルを注文したのに、  返ってきたのは心拍だった。  紙カップの底に残った焦げの甘さが、  胸の中で静かに溶けていく。  焼き菓子の匂いが風に乗って、  遠くの空へ流れていった。  その香りが消えるまで、  俺は動けなかった。  秋は、甘さを焦がす季節だ。  焦げるほどに、記憶になる。  香りはそのまま、  夜の入口をゆっくり照らしていく。

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