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― 第1章:袖口に残る砂糖の匂い ― daytime pairing ―
昼の光は、ガラスの端で分かれていた。
店の奥まで届かない薄い金色。
カウンターでは、有栖川が泡立て器を回している。
リズムが一定で、音が穏やかに重なっていた。
この街では“香り”が挨拶で、“味”が相性だ。
人は生まれつき、甘さを纏うケーキか、味で確かめるフォークにわかれる。
それは珍しいことではなく、昼の混雑と同じくらい、当たり前の風景。
「怜さん、今日シフト長ですよね」
そう呼ばれて、顔を上げる。
白いエプロン越しに見える彼の手首が、午前の光を少しだけ跳ね返した。
フォークの人は、手首から先の動きに“味”が宿る。測る手つき。整える手つき。
「うん。……たぶん、名ばかりだけど」
「いや、ちゃんと仕切ってますって」
彼の声が軽く笑う。
スチームの音が割り込んで、会話の隙間をふわりと満たす。
あのときと同じ、焦げた砂糖の香り。
だけど今はそれが、仕事の匂いになっていた。
ケーキの身体は、好みのフォークが近いと“甘さ”が微かに変調する。
袖の内側で、温度が半拍だけ上がる。
バターを焼く香り、ミルクの泡がはじける音。
昼の店は人が多くて、笑い声が絶えない。
けれど、彼と目が合う瞬間だけ、音が薄くなっていく。
袖口をまくると、粉砂糖が肌に少し残っていた。
それを払うふりをして、指先で無意識に匂いを嗅ぐ。
カラメルのような甘さと、微かなレモンの酸味が混ざっていた。
ケーキとフォークが近づくと、甘と酸でペアリングの輪ができる――講義で聞いた通りだ。
「……あの、なにか匂いました?」
彼が首をかしげる。
慌てて手を離すと、彼の袖口にも同じ粉がついていた。
「おそろいですね」
「バイトあるある、だろ」
「でも怜さんのほうが似合ってます」
笑いながら言うその声が、店の照明よりも温かかった。
フォークの声は、ときどき味になる。舌に触れないのに、確かに残る。
カップを並べながら、彼がミルクピッチャーを振る。
手の動きが柔らかい。
レモンの皮を削ったように軽やかで、見ているだけで、時間がほどけていく。
午後二時。客足が途切れる。
扉のベルが鳴るたびに、カウンターの中の空気がわずかに冷えた。
外は風が出てきたらしく、ガラス越しの影がゆっくり揺れている。
有栖川はグラスを拭いていた。
光が水の輪を作り、その反射が頬をかすめていく。
見惚れたわけじゃない。
ただ、その静かな動きが美しかった。
フォークは、光の乱れを嫌う。味の誤差になるから。
「藤ヶ谷さんって、甘いの得意なんですか?」
問いかけに少し遅れて答える。
「食べるのは苦手かも。でも、作るのは好き」
「理由あります?」
「甘さを、測れるから」
言葉にして気づく。
自分でも、何を言いたいのか分からない。
有栖川は少しだけ笑った。
「なるほど、理系の回答だ」
その笑みのあとで、グラスの底がコトンと鳴る。
音が胸の奥まで落ちていく。
「じゃあ、僕が味見係ですね」
「味覚、信用できるの?」
「嗅覚には自信あります」
冗談めかして言う声の奥に、どこか真剣な響きが混じっていた。
この国の就活票にはケーキ/フォーク欄がある。
嗅覚に自信があるフォークは、ペアリングの現場で強い――そんな記事を思い出す。
沈黙。
冷めた空気を、カラメルの匂いが横切る。
午後の日差しがゆっくり傾き、店の床に長い影を描いていた。
スチームノズルの先から一滴、水が落ちる。
それがまるで、時間の音のように響いた。
マグを手に取り、少しだけ香りを吸い込む。
焦げと甘さの境界。
そこに確かに、彼の気配がある。
ケーキは“気配”を舌の根で感じる。相性の近いフォークほど、輪郭がはっきりする。
「……ねえ、有栖川」
「はい?」
「今日のコーヒー、ちょっと違う」
「新しい豆です。酸味、強いですよ」
「……そっか」
説明が、遠い。
香りが、もう記憶に変わりはじめていた。
そして記憶は、甘さの保存方法だ。ケーキの身体は、恋を保存してしまう。
「休憩、行きます?」
「……ああ、じゃあ一緒に」
小さな休憩室。
マグカップが二つ、棚に並んでいる。
湯気の高さが違う。
俺のほうが少し低い。
ペアリング前のケーキは、湯気に“自分の甘さ”が滲むという。少し恥ずかしい。
「この前、スマイルくださいって言いましたよね」
彼が笑いを噛み殺すように言う。
「覚えてたのかよ」
「そりゃ覚えますって。……あんな真顔で言われたら」
カップの縁から、甘い香りがふわりと広がる。
笑いながら飲んだ彼の喉仏が、一瞬だけ揺れた。
その動きに合わせて、心臓が小さく波を打つ。
「冗談っぽく見えて、本気だったんですよ」
「え?」
「スマイル、くださいって」
視線が合う。
彼の瞳の奥で、光が静かに揺れていた。
フォークは、目で味を聞く。ケーキは、目で甘さを答える。
言葉が出ない。
沈黙の間に、コーヒーの香りが熱を持ち始める。
「……じゃあ、今日の分もサービスで」
そう言って笑うと、彼が照れくさそうに息を漏らした。
午後の光が傾いて、壁に落ちた影が二人分重なる。
香りがその上でゆっくりと混ざっていく。
混ざったところが、いつもより甘い。
風が少し強くなった。
ドアの隙間から入り込んだ冷たい空気が、カウンターの向こうの紙ナプキンを一枚めくる。
有栖川が手を伸ばして押さえる仕草。
それだけの動きに、どうしてこんなにも胸が鳴るのか分からなかった。
彼の横顔が、午後の陽を受けて黄金色に縁取られていた。
髪の先が光を弾くたび、焦げた砂糖の甘さが少しずつ形を変えていく。
空気の温度が、まるで恋の予告みたいに柔らかくなる。
ふと、カップの中を覗く。
もう冷めていた。
表面に浮いた泡の輪がゆっくり消えていく。
“終わり”ではなく、“次の始まり”のように見えた。
その沈黙の中で、彼がポケットからミントを取り出す。
「口、甘くなりません?」
半分差し出された包み。
差し伸べられた指が、紙を通して一瞬だけ触れた。
軽い音。
心臓がそれに合わせて跳ねる。
ミントはフォークの礼儀だ。ケーキの甘さを乱暴に上書きしないよう、中和してから話す。
「甘いの、苦手なんですか?」
「……最近は、平気になったかも」
「それ、良かった」
笑い声に、焼きたての甘さが混ざった。
日差しがテーブルを滑って、マグの縁で途切れる。
光が動くたびに、世界が少しずつ彼の輪郭に寄っていく。
有栖川が立ち上がる。
エプロンの紐を結び直し、背中を軽く伸ばす。
その一連の動きが、静かな音楽のように滑らかだった。
何も言えず、ただマグの底を見つめた。
香りが残っている。
それだけで十分だった。
袖口を握る。
砂糖が溶けて、指先が少し湿っていた。
この匂いを、もう忘れられない気がした。
ケーキは一度惹かれると、甘さで覚える。忘れ方を知らない。
厨房から誰かが呼ぶ声。
名を呼ばれても、返事が遅れる。
彼の笑顔が残像になって、空気の中でやわらかく滲んだ。
仕事に戻る彼の背中を見送りながら、カップを見つめる。
焦げた砂糖の底で、小さな泡がひとつ、弾けて消えた。
それがまるで、心臓の音の代わりのようだった。
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