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― 第2章:焦がす言葉 ― confession blend ―
夜のガラスに、昼の香りがまだ残っていた。
照明は落ちて、店は静かに息をしている。
ミルクピッチャーを洗う音が、薄い夜気の中で丸く響く。
この街では、閉店後の空気は“中立香”。ケーキとフォークの境界をいったん無香に戻す、休戦の時間だ。
「藤ヶ谷さん、あとショーケースだけ拭いたら終わりです」
有栖川の声は、昼よりも少し低くて、穏やかだった。
指先の動きが丁寧で、拭き上げたガラスに彼の影が揺れる。
怜は返事のかわりにシロップの瓶を持ち上げた。
琥珀色の液体がとろりと傾く。
瓶の内側で光が溶け、空気に甘さが散った。
「その瓶、火のそばに置くと熱持ちますよ」
「ああ、わかってる」
言いながらも、瓶の口を拭こうとした有栖川の手が触れた。
小さな音。熱がふたりの間で跳ねる。
――フォークが触れると、ケーキの甘さは半拍だけ濃くなる。礼法の教本に、たしかそう書いてあった。
「熱っ……!」
怜が思わず手を取る。
彼の指を冷水に導く。
水音が重なり、ふたりの距離がやわらかく溶けた。
焦げ砂糖の香りが、ゆっくりと薄まり、
代わりに蜂蜜みたいな甘さが空気を包む。
掌の中の指が微かに動くたび、
体温が重なって境目が消えていく。
ペアリングの前兆は、香りの層が二段になること――講義のフラッシュカードが、ここで役に立つとは。
「……大丈夫?」
「はい。でも、冷たいより温かいほうが好きです」
「火傷したのに?」
「それでも、温かいほうが、好きです」
言葉の隙間に笑いがこぼれる。
笑い声の粒が、水面に落ちて波紋をつくる。
怜はタオルで彼の手を包む。
濡れた肌を押さえると、鼓動がゆっくり伝わってくる。
その拍が、奇妙に自分と合っていた。
拍が重なると、香りはひとつの“輪”になる。ケーキはそこで甘さを覚え、フォークはそこで味を知る。
「……香りが似てる」
「え?」
「君の手、バニラみたいな匂いがする」
「さっきのシロップですかね」
「いや、それより柔らかい」
有栖川が照れくさそうに目を逸らす。
頬の赤が、光に溶けていく。
閉店作業を終え、シャッターを半分下ろしたあと、
二人は並んで歩いた。
秋の夜の風は冷たく、街灯の光がアスファルトに線を描いていた。
フォークの歩幅に合わせて歩くと、呼吸が楽になる――ケーキの小さな生活の知恵だ。
「この時間、静かで好きなんです」
「昼は人が多いからな」
「それも好きですけど……藤ヶ谷さんと帰る夜のほうが落ち着く」
「おまえ、簡単にそういうこと言うな」
照れ隠しのように言うと、有栖川が笑った。
笑顔の端が街灯の光に触れて、金色に滲む。
フォークの笑いは、香りを乱さないように作る――それを“微笑の礼”と呼ぶ。
「寄り道、していいですか?」
「どこに」
「公園の自販機。ホットココアが出るんです」
「また甘いのか」
「藤ヶ谷さんも飲みます?」
「……飲む」
ふたりは並んで歩き、小さな公園のベンチに腰を下ろした。
木の枝が風で揺れる。
枯葉が足元を転がっていく。
有栖川が缶を両手で包んで、湯気を見つめた。
「好きなんですよ、こういう時間」
「甘い匂いが似合う時間か」
「違います。……藤ヶ谷さんの隣で、何も話さなくても大丈夫な時間です」
心臓が一拍遅れて鳴った。
視線を逸らしたのは怜のほうだった。
ケーキは沈黙で甘さが濃くなる。言葉より正直で、厄介だ。
「おまえ、本当に……天然なのか計算なのかわからん」
「どっちでも、いいです」
笑う声が、風よりも柔らかく届いた。
沈黙の中に、湯気が浮かぶ。
湯気が二人の間を漂い、夜の光に溶ける。
「藤ヶ谷さん、手、もう温まりました?」
「おまえのせいで逆に熱い」
「……じゃあ、僕のせいのままでいいです」
その言い方がずるい。
声の温度が、もう恋人の距離だった。
フォークは、欲しい甘さを“温度”で伝えてくる。言葉は後から追いつく。
怜は深く息を吸い、
湯気と一緒に、胸の奥の言葉を飲み込む。
けれど、もう抑えきれない。
「……俺、たぶん、おまえが好きなんだと思う」
それは空気の泡みたいに軽く出て、
夜の静けさの中で小さく弾けた。
有栖川の指が、缶の上で止まる。
唇がかすかに震えて、
次の瞬間、微笑む。
「知ってました」
「は?」
「だって、あのときの“スマイルください”が可愛すぎたので」
「……やっぱ覚えてたのか」
「忘れられるわけないです」
照れたように目を細めて、
ふたりの間に溶けた笑いが、夜風よりもやさしかった。
“スマイルください”は、ケーキバースの非公式な合図。香りを差し出し、返事で味を受け取る。
ベンチのそばに、遅くまで開いているパン屋の小さな灯りが見えた。
「少しだけ、待っててください」
有栖川が駆けていき、紙袋を抱えて戻ってくる。
「今日の余り、もらえました」
袋の中には、砂糖をまぶしたマドレーヌが二つ。
「甘いの、苦手じゃない?」
「今日は、平気です」
半分に割って手渡す。
まだ少し温かい。
砂糖の粒が指先にこぼれ、月明かりで白く光った。
「……うまい」
「でしょ」
有栖川の親指に砂糖がつく。
「ついてる」
「あ、どこですか」
「ここ」
思わず、怜は自分のハンカチで拭う。
指先に触れた瞬間、香りがふくらむ。
蜂蜜とバニラと、焼けたバター。
ついでに、彼の体温。
フォークの皮膚には“味の窓”がある。指先は、そのひとつ。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
言葉より、手の温度が正確だった。
紙袋の底に残った砂糖を、風が少しだけさらう。
白い粒が膝の上で転がり、夜の匂いに混ざって消える。
「ねえ、もう一個だけいいですか」
「うん」
「藤ヶ谷さんの“好き”、今どれくらい甘いです?」
「測りたいのか」
「はい。仕事柄」
「……じゃあ、七割」
「多い」
「じゃあ六割」
「増やしたいので、やっぱり七割で」
やわらかな笑いが重なって、ベンチが小さく軋む。
どちらからともなく肩が触れ、離れなかった。
ペアリング指数なんて不要だ、と初めて思った。呼吸の一致が、最良の測定値だ。
「帰ろうか」
「はい。甘さ、持って帰ります」
空になった紙袋を折りたたむ。
指先に残った砂糖のざらつきが、
今日を忘れないための印みたいだった。
「藤ヶ谷さん」
「ん」
「さっきの“好き”、僕のほうにも、少しください」
「……分割可」
「じゃあ、明日も」
「明日も」
夜風が髪を撫でる。
街灯の輪が二つ、歩幅に合わせて並んだ。
――戻って、夜の店。
夜風がドアを揺らした。
紙ナプキンが一枚だけ、ふわりと舞い上がる。
怜はそれを掴んでカウンターに戻した。
その瞬間、肩が軽く触れる。
息が止まる。
「藤ヶ谷さん」
「……なに」
「今日の匂い、好きです」
それは冗談みたいな声だったのに、
鼓動があからさまに反応した。
ミントを噛まない“好き”は、真正だ。中和なしで差し出された本音。
沈黙。
ミルクフォームのようにやさしい時間。
言葉がいらないほど、甘さだけが残る。
「ねえ、有栖川」
「はい」
「俺、たぶん、君が好きなんだと思う」
その瞬間、空気が変わった。
温度が少し上がり、照明が柔らかく広がる。
彼はすぐには答えず、
ただ目を細めて、怜の顔を見つめた。
静かに笑ったその唇が、
ほとんど音を出さずに動く。
「その香り、覚えておきます」
たったそれだけで、
夜の中に光がひとつ増えた気がした。
ケーキは覚えられるより、覚える側だと思っていた。
でもフォークの記憶は“味”で保存される。だから、長い。
風がカウンターを抜ける。
香りが新しい層を作る。
砂糖とミルクと、ほんの少しの焦げ。
世界はまだ冷たいのに、
胸の中だけがゆっくりと温まっていく。
閉店作業に戻りながらも、
どちらの指先も同じリズムで動いていた。
拭き取る音がハーモニーになって、
コーヒーマシンの静音と混ざる。
甘い夜の底で、
焦げた砂糖の香りが恋の匂いに変わっていった。
ブレンドは、声ではなく空気で成立する。
――告白は言葉、愛は温度。今日は、その境目に立っている。
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