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― 第3章:甘さの温度 ― nocturne pairing ―
夜は、店の奥に薄い甘さを一枚だけ残していった。
閉店札が裏返り、椅子はテーブルに逆さに載せられている。
洗剤の匂いが金属の冷たさを連れてきて、昼のカラメルをゆっくり薄める。
それでも、カウンターの端には微かに輪があった。
昨日、有栖川が置いたマグの、乾いた跡。
指で触れると、何も付かない。なのに、香りだけが残る。
ケーキの身体は、こういう残滓に弱い。
香りは物ではないから、余白で増える。
戸締まりを済ませ、シャッターを半分だけ下ろす。
通り雨がアスファルトを洗って、街灯が丸い光を落とす。
ポケットの中で、紙ナプキンが一枚、折れたまま温かい。
昼間、彼が笑いながら差し出し、俺が受け取ってしまったただの紙。
なのに、そこに蜂蜜がついている気がして、捨てられない。
電車の窓に写る自分は、少しだけ目が明るい。
ケーキの目は、惹かれるフォークを見ると光をひとつ増やす――
そんな噂話を、学生相談室の掲示で読んだことがある。
信じていなかった。
今はわからない。
香りが嘘をつかない夜だけが、現実みたいだった。
◇
翌日。
昼の波が一段落して、厨房の湯気が柔らかい。
有栖川は少し遅れて現れ、エプロンの紐を結びながら「すみません」と頭を下げた。
指先に、絆創膏。
ピッチャーの持ち手に触れたらしい、角の火傷。
「見せて」
言ってから、声が思ったより近かったと気づく。
彼は素直に手を差し出した。
薄い絆創膏を剝がすと、赤みは浅い。
冷却は済んでいて、水分が静かに肌を守っている。
「消毒する。しみたら言え」
「はい」
コットンが触れた瞬間、甘香が立った。
蜂蜜とミルク、ほんの少しのレモン。
俺の胸の奥で、何かがやわらかく溶ける。
ケーキの香りが、フォークの皮膚に触れると“輪”になる。
輪は、離れても残る。
昨日のマグの跡が示していた通りだ。
「きれいに巻くの、上手ですね」
「論文より簡単だから」
「でも、優しい。……香りがそう言ってます」
香りが言う――彼は、そういう言い方をする。
フォークは味で世界を読む。
言葉は翻訳。
彼の翻訳は、俺のためにあるみたいに正確だった。
昼の客足が戻って、スチームの音が重なる。
彼は一歩引いてカップを温め、俺はラテアートのハートを二度ほど失敗した。
有栖川が笑う。
からかいではない笑い方だ。
光のほうへ甘さをそっと押す、フォークの微笑の礼。
午後三時、陽が傾き始める。
ショーケースのガラスを拭きながら、彼がふいに言う。
「ねえ、藤ヶ谷さん。ケーキって、季節で香りが変わるんですよね」
「人による。けど、秋は濃くなるらしい」
「やっぱり。今日のあなた、昨日より甘い」
心臓が一拍遅れる。
泡の弾けに似た遅延。
ケーキの香りは、認められると強くなる。
恋は、肯定で焦がされる。
◇
夕方、ひと波が過ぎて、店内の音が浅くなる。
照明が少し揺れた。
ブレンドシフト。
ケーキとフォークが同調すると、空気が一瞬だけ別の密度を持つ。
教本では“微小現象”と呼ばれていた。
現実で見るのは初めてだ。
有栖川も気づいたのか、目を瞬かせて天井を見上げ、それから俺に視線を戻した。
「……ねえ、今日、閉店後に少しだけ残ってもいいですか」
「いいけど」
「試したいことがあるんです」
言いながら、彼は胸ポケットから小さなメモ紙を取り出し、机上の温度計に添えて笑った。
“温度は心拍で調整”と汚い字で書かれている。
誰の教えでもない、自分用のレシピ。
フォークは味で記憶する。
彼の記憶の中に、俺の心拍の居場所ができたみたいで、嬉しくなる。
◇
閉店。
シャッターが降り、通りの足音が遠くなる。
店内はミルクの白い層を薄く残し、鍋は全部乾いた。
有栖川はピッチャーを持ち、蒸気ノズルの角度をほんの少しだけ変える。
金属音が、昼と違う高さで鳴った。
「息を合わせてください」
「息?」
「はい。僕が吸うときに、藤ヶ谷さんも吸って。吐くときに、吐く」
言われた通りにする。
蒸気の音が、呼吸の音と重なり、泡立ちが細かくなる。
温度計を見ない彼の指が、ぴたりと止まる。
スチームを切る。
白い湯気が、二人のあいだに浮かんだ。
ピッチャーの口から、ゆっくりとミルクが落ちる。
有栖川はカップの黒へ、静かな線を一本引いた。
葉脈みたいな模様。
彼はその端に、指先で小さなハートを描く。
ギリギリ触れない距離で。
香りが揺れる。
バニラと蜂蜜。俺の焦げ砂糖が、そこに張り付く。
層が二つになった。
昨日は“輪”だった。今日は層だ。
ケーキの甘さとフォークの味が重なると、香りは段を作る。
段は、降りられない階段だ。
上がるしかない。
「飲んでください」
「おまえは?」
「香り、もらいます」
彼はカップを俺へ滑らせ、自分は空気の匂いを浅く吸った。
香りの受け取り方に、礼法がある。
ケーキの甘さを乱暴に切らず、形のまま迎え入れる呼吸。
フォークの喉が一度鳴る。音は出ない。
彼の胸が、わずかに上がった。
俺はカップを口へ運ぶ。
甘さは、予想よりも静かだった。
静かなのに強い。
飲むというより、吸い込まれる。
蜂蜜が焦げの縁を丸くして、温度が合った。
それだけなのに、膝の力が少し抜ける。
有栖川が、指を伸ばす。
俺のカップの縁に触れそうになって、止まる。
目が合う。
フォークは目で味を聞く。ケーキは目で甘さを答える――
その交換の真ん中に、湯気がゆっくり漂う。
「……藤ヶ谷さん」
「ん」
「もう、少しだけ」
彼の声が、温度を持った。
言葉が熱を持つと、香りが形になる。
形は、ほどける前に触れておかなければ、消える。
カウンターの内側で、手を伸ばす。
昨日と同じように、タオル越しに指を包む。
今度は、タオルを少しずらして、素肌に触れた。
皮膚のきめが細かい。
蜂蜜と、ミルクと、わずかなレモンがいっせいに立つ。
彼の息が一拍、早くなる。
その拍に合わせて、店の照明がほんのわずかだけ揺れた。
ブレンドシフト。
ミルクの白が、空気の中に薄く降る。
聞こえない音が、確かにある。
「……ねえ、有栖川」
「はい」
「これ、もう“告白”じゃないよな」
「ええ。“共有”です」
共有――ケーキとフォークの間で、最初に成立する行為。
香りを分け合い、温度を確かめる。
言葉よりも先に、体が理解する。
彼は、俺の手の甲に視線を落とす。
躊躇のあとの、ささやかな決意。
指先が、触れた。
触れたのに、痛みも震えもない。
ただ、甘さが増える。
俺の香りが、彼の胸に吸い込まれていく。
そのわずかな吸気が、俺の肺の奥を甘くする。
「覚えます」
「なにを」
「あなたの“今”。……香りは時間だから」
言われて、笑いたくなる。
理屈を言うのは俺の役目のはずなのに。
彼のほうが、正しい言葉を知っている。
湯気が薄くなり、ハートの輪郭が沈む。
有栖川はカップの底を覗き込み、指で縁をなぞった。
白い線が、光を集める。
味の輪。
ほんの一瞬だけ見える、それのことを、昔の誰かがそう呼んだ。
「……見えました?」
「見えた。すぐ消えた」
「大丈夫。消えたものほど、長く残ります」
彼は微笑み、ミントを出さなかった。
中和の礼を省くのは、真正の合図。
今日の“好き”が、明日へ続くという印だ。
◇
雨上がりの匂いが、シャッターの下から薄く入ってくる。
鍵を回す前に、俺たちは一度だけ深呼吸をした。
同じタイミングで吸って、同じタイミングで吐く。
それだけで、胸の奥が軽い。
ペアリングは、契約でも運命でもない。
呼吸の練習みたいなものだ。
毎日少しずつ合っていき、ある日気づく。
離れても、同じ拍で息をしている、と。
「送る」
「駅まで一緒に」
通りは濡れて、街灯が二人分の輪を引き伸ばす。
肩が触れ、離れない。
温度は、もう充分に共有されている。
会話は少なく、沈黙が甘い。
ケーキは沈黙で味を保存し、フォークは沈黙で味を思い出す。
改札前で立ち止まり、彼が言う。
「明日、開店前に来てもいいですか」
「何時に」
「あなたの心拍が落ち着く時間」
「それ、いつだよ」
「じゃあ、僕が合わせます」
小さな冗談。
でも、冗談の形をした約束だった。
彼は片手を軽く上げて、改札に消える。
振り返らない。
振り返らないのは、信頼のしるしだ。
香りが背中に残っているから。
◇
翌朝。
開店前の店内は、真新しい湯気で満ちていた。
カウンターの上に、洗いたてのマグが二つ。
昨日と同じ位置に置いてみる。
何も起きない。
ただ、空気の密度が少し重く、静かだ。
有栖川がドアを開けた。
まだ制服を着ていない。
白いシャツの袖を折り、息を整えて笑う。
「おはようございます」
「おはよう」
彼はマグを一つ取り、俺の目を見た。
それから、ほんの少しだけ近づく。
ハートは描かない。
代わりに、何もない空気へ指で丸をなぞる。
そこに、香りが溜まる。
見えない輪。
昨日の夜に生まれて、朝になっても消えなかった輪。
「君の味を、まだ感じてる」
口にして、驚く。
言葉が先に出た。
有栖川は嬉しそうに目を細める。
「僕も。……あなたの甘さ、まだここにいます」
彼は胸の上に手を置いた。
手のひらの下で、心臓が一拍、俺の拍に合わせる。
ブレンドシフトは起きない。
もう必要がない。
香りは、輪の中で落ち着いた。
シャッターを上げる。
朝の光が木目を滑り、カウンターの端で止まる。
新しい一日が始まる。
客が来て、注文が重なり、笑い声が飛ぶ。
世界は騒がしいのに、俺たちの拍は静かだ。
コーヒーが一杯落ちるたび、輪郭が少しだけ甘くなる。
カップの底に、今日も透明な輪が残った。
指で触れると、何も付かない。
それでも、香りは確かにそこにいる。
甘さの温度は、もう二人のものだ。
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