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― 第4章:香る鼓動 ― scent intimacy ―

 夜の店は、音をほとんど持たない。  椅子はテーブルに逆さに置かれ、カウンターの木目がしっとりと黒い。  洗い上がった器具の金属が冷えて、薄い匂いだけを返す。  それでも、空気には甘さがいた。  昨日の“味の輪”が、まだこの場所のどこかに沈んでいる。 「……片付け、半分まで終わりました」  有栖川の声は、夜に合わせて低い。  昼の軽やかさを脱いで、温度だけを残した声。 「ありがとう。こっちはフィルター乾かしたら終わる」 「じゃあ、湯気、少しだけ使ってもいいですか」 「いいよ」  スチームノズルが唸る。  白い湯気が立ちのぼり、天井灯の下で薄い花びらになる。  有栖川は深く吸って、浅く吐いた。  俺も同じ拍で呼吸し、泡立つ音に耳を澄ます。  泡は細かいほうが、香りをやさしく運ぶ。  それを彼は、言葉にしないで手で教える。  ピッチャーを置く音が止まると、店の呼吸が戻る。 「藤ヶ谷さん」 「ん」 「フォークの、ちょっとした儀式があるんです」 「儀式?」 「ケーキの香りを、空気から肌へ移すやり方」  言いながら、彼は迷うように指先を見た。 「……嫌なら、言ってください」 「いや。やってみて」  彼が近づく。  いつもの距離より、半歩分だけ。  白いシャツの袖口が、木目に映る。  フォークは、香りを乱暴に掬わない。  指先で輪郭をなぞって、形のまま迎える。  教本の文字が、彼の仕草に置き換わる。 「目、閉じててもらっていいですか」  頷くと、呼吸の音が近くなった。  首筋のうしろ、髪の根本あたりに、空気の動きが触れる。  触れたのに、何も当たっていない。  ただ、温度が、ほんの少し上がる。 「……焦げた甘さ、好きです」  耳のすぐそばで囁かれて、膝に力が入る。  バニラが一滴、体温に落ちる音がした気がした。  ケーキの身体は、好きだと言われると甘さが増える。  そして、増えた甘さは、言葉よりも長く残る。  彼は息を短く吸って、また吐いた。  吐息が薄い膜になって、首筋に貼りつく。  膜の下で、脈が一拍早くなる。  ふたりの拍が重なると、香りの層が増える。  層が増えると、世界の輪郭がやわらぐ。  照明がわずかに琥珀色を帯び、カウンターの隅が光る。  ペアリングライト。  微小現象――と説明してしまえば簡単だけど、今はただ、綺麗だった。 「ここ、甘い」  彼の言葉が、指の先に降りる。  肩に、軽く、迷いのある重み。  シャツ越しに、掌の形がゆっくり広がる。  俺は逃げない。  逃げたくない。  香りが、逃げるべきではない方向を指している。 「……どこまでが礼儀で、どこからが反則なんだろうな」 「礼儀は、相手が心地よいかどうかだけです」 「じゃあ、平気だ」 「僕も、平気です」  短い会話のあいだにも、香りは育つ。  蜂蜜の深さが増し、焦げ砂糖の縁が丸くなる。  境界が、舌の上でやさしく崩れる。 「顔、見てもいい?」 「どうぞ」  目を開けると、すぐ近くに有栖川の目があった。  光を拾うように、瞳孔が小さく揺れる。  フォークは、目で味を聞く。  聞かれている、と思った。  答えを間違えないように、呼吸の速度を合わせる。  彼が顎を少し傾け、額が触れた。  汗はない。  あるのは、体温だけ。  その温度が、香りを押し上げる。  首筋、耳の裏、鎖骨の下、手首――  “味の窓”がゆっくり開いて、外気を受け入れる。  開いたところから、言葉にならない“好き”が出ていく。  彼の胸がそれを受け取り、わずかに上下する。  上下のたびに、琥珀色が濃くなる。 「キス、してもいいですか」  彼の言葉は丁寧だった。  フォークはいつだって、ケーキの形を守ろうとする。  だから、俺は頷くだけにした。  距離が、ゆっくり短くなる。  触れた瞬間に、音は何も鳴らない。  でも、甘さが鳴る。  舌ではなく、温度で。  唇に直接、蜂蜜が置かれたわけじゃない。  置かれたのは、呼吸だ。  息の甘さが、胸の内側を撫でる。  撫でられた場所が、あとから熱を持つ。  離れて、また近づく。  近づいて、今度は離れない。  長くはない。  でも、時間は伸びる。  香りの層が、二段から三段になる。  照明は琥珀色を保ったまま、影だけがやわらかく揺れる。 「……苦いの、好きです」  彼がそう言うので、笑いそうになる。 「俺のこと?」 「はい。苦いと甘いは、隣です」  言葉が温度を持つ。  温度が、香りを押す。  香りが、拍を揃える。  拍が揃うと、怖さが消える。  恋は、順番を間違えると痛むけど、今は順番が合っている。  彼の指が頬に触れて、親指が小さく動く。  泣きそうか、と問われているみたいで、少しだけ目を細める。 「大丈夫ですか」 「大丈夫。……やっと、わかった」 「何が」 「俺、ケーキなんだなって」  笑う声が、胸の下で弾む。  彼は嬉しそうに目を細めて、「やっと」と繰り返した。 「もう一度」 「……はい」  二度目は、一度目よりも静かだった。  静けさは、甘さの居場所を広くする。  居場所が広がると、記憶が入ってくる。  昨日の輪、昼の失敗したハート、研究室の白い蛍光灯、  全部が同じ温度になって、喉の奥に降りる。  降りたものは、体に残る。  そういう残り方を、恋と呼ぶなら、それでいい。  そっと離れて、彼が肩で息をする。  ミントは噛まない。  中和しないという意志表示。  香りを、減らさない。  この夜のまま、持って帰る。 「ねえ、藤ヶ谷さん」 「ん」 「逃げたいとき、言ってください。止めますから」 「止めるのか」 「はい。フォークは、逃げ道を塞ぐ道具です」 「でも、刺さない」 「刺さない。掬うだけ」  言いながら、彼は俺の手の甲を掬うように包んだ。  軽い圧。  皮膚に残る蜂蜜の薄膜。  膜は破れない。  破れないように作られている。  誰かの優しさの形で。  店の灯りを一つ落とす。  ミルクの匂いが、低いところに降りる。  音は少ない。  沈黙は甘い。  沈黙が長いと、心拍は遅くなる。  遅くなると、香りは深くなる。  深くなった香りは、光を持つ。  琥珀色の、見えない光。  俺たちは、その中に立っていた。 「帰ろう」 「はい」  シャッターを上げると、外気が一斉に入ってきた。  冷たいはずの風が、甘い。  通りの石畳が濡れて、街灯を細長く伸ばす。  肩が触れて、離れない。  誰にも見えない“輪”が、二人を囲っているみたいだった。  駅の手前で、有栖川が立ち止まる。 「明日、朝いちで会えますか」 「何時でも」 「じゃあ、あなたの“甘さが薄くなる”前に」 「薄くなるのか」 「なりません。……確認です」  照れた笑い方で、指を一本上げる。 「今日の香り、ちゃんと覚えました」 「忘れるなよ」 「忘れません。フォークの記憶は、味で保存されるので」 「ずるいな、それ」 「ずるいです」  改札に吸い込まれていく背中を見送り、  俺は掌を鼻に近づける。  蜂蜜、ミルク、焦げ砂糖。  そして、彼の呼吸の温度。  指の腹で感じる薄い膜が、夜露みたいに残っている。  その膜の下で、脈が一定に打つ。  拍は静かで、確かで、怖くない。      ◇  朝。  開店前の店は、まだ誰の匂いも持っていない。  木目のカウンターに、マグを二つ置く。  昨日と同じ位置。  同じ距離。  同じ角度。  何も入っていないマグの底に、淡い輪が浮かんだ。  光ではない。  水でもない。  ただの、香りの跡。  指で触れても、何も付かない。  けれど、確かにそこにある。  ドアが開いて、有栖川が入ってくる。  挨拶の前に、目で笑う。  香りで挨拶して、言葉はあとから。 「おはようございます」 「おはよう」  彼はマグを覗き込んで、小さく息を漏らす。 「残ってる」 「ああ。輪だ」 「二人分、ですね」 「たぶん」 「“たぶん”でいいです。……恋は、たぶんから始まるので」  シャッターが上がる。  朝の光が流れ込み、琥珀色は透明へ戻る。  輪は目に見えなくなり、代わりに匂いが軽くなる。  それでも、消えない。  消えないもののほうが、長く残る。  俺はマグを持ち上げ、深く吸って、細く吐いた。  隣で、有栖川も同じ拍で息をする。  ふたりの呼吸が、朝の店を満たす。  客が来る前の、短い儀式。  今日の甘さを、今日のうちに始めるための。  開店ベルが鳴った。  世界が動き出す。  けれど、胸の奥にある輪は動かない。  そこに在って、温度を保つ。  香りが続く限り、恋は終わらない。  そして今朝の香りは、昨日より少しだけ、甘い。

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