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無臭の街
湿気を孕んだ風が乾いた肌を撫でた。
薄く目を開けると、灰色の天井がぼんやりと浮かんだ。
朝の光は弱く、分厚い雲が空を覆って空気を淀ませている。
体を起こす頃にブレスレット型の計器から短い電子音が鳴った。
「……時間だ」
洗面台脇の棚に褐色のガラスの薬瓶が所在なさげに置かれている。
その中には、毎日朝晩欠かすことなく一錠飲み込むΩ用の抑制薬。
薬瓶を手に取り、手のひらに転がる白い錠剤を見つめる。
この小さな塊が自分の生活を繋いでいると思うと、不思議な気持ちが湧いてくる。
味はない。無臭、無味。まるでこの世界みたいだ。
鏡と向き合うと、まだ寝ぼけた顔がこちらを見つめ返してくる。
黒々とした髪は無造作に跳ね、刈り上げが少し伸びている。
暗い琥珀色をした瞳は焦点が曖昧で、寝不足のせいか白目の際が赤い。
頬は日に焼け、あごには浅い火傷の痕がある。
広い肩幅は少し丸まり、筋肉はあるがどこか乾いた体。
まるで使い捨ての部品みたいに粗末に見えた。
引き締まった腕の内側には、赤い斑点のような薄い痣が残っている。
月に一度、かかりつけのバース性専門医に薬を打ってもらう。
そうすると“普通の人”に紛れることができるらしい。
実際のところ、薬を欠かしたことがないため、どれほどの効果があるのかはよく分かっていない。
「……早く消えねぇかな」
無意識に、爪を立てて搔きむしる。
部屋は六畳。鉄製の簡易ベッド、壁際に折りたたみテーブル。
蛍光灯の光は冷たく、色あせたグレーのカーテンには薄くシミが浮かんでいる。
冷蔵庫のモーター音が一定のリズムで鳴っている。
棚の一番上にはガラスの貯金箱が置かれていた。
何枚もの紙幣がしわくちゃになって押し込まれている。
その表面には、“手術費用”と油性ペンで書いてある。
完全抑制手術を受ければ、身分証に書かれたおまけのような“あの文字”が消えてくれる。
「あと二年ってとこか」
独り言のように呟いて、くたびれた作業着に着替える。
また代り映えのしない一日が始まる。
外に出ると、ぬるい風が通り過ぎていく。
路肩に停まっている通勤シャトルへ近づく。
くすんだ作業服を着た人々が黙って乗り込み、無言で空席を埋めていく。
銀色の車体、同じ制服。無表情の顔が並び、どれも同じ温度をしている。
最後尾に滑り込み、ドアが軋みながら閉まる。
空調と衣擦れの音だけが車内に響く。
手すりには汗の跡もない。
窓の外を見れば、街も同じ色をしている。
ビルも道路もグレーに染まっている。
隣の席の中年男がぽつりと言う。
「フィルター、また強化されたらしいですね」
興味なさげにうなずく。
「らしいですね」
「息苦しい世の中だ」
「……慣れました」
会話はそこまでだった。沈黙が戻る。
誰も互いの名を知らない。
施設ゲートに着く。
スキャナーにブレスレットをかざすと、目の前の液晶に文字が浮かぶ。
> ID:C-0472
> 氏名:城谷 克巳(しろたに かつみ)
> 職種:生産プラントエンジニア(機械区画C)
> 勤務年数:10年
> 状態:安定
電子音のあと、「おはようございます」と音声が流れてゲートが開く。
次々と映し出される個人情報を皆が無関心に通り過ぎていく。
克巳は俯いたまま自分の区画へ足を向けた。
生産プラントの中は金属の響きで満ちている。
整備用の通路を整然と並ぶパイプ、熱がこもる空気。
分厚い手袋をはめ、鈍色に光る工具を握る。
整備工としてここで十年。
特別な出世もないが、規律を守れば金がもらえる。
それでいい。
——手術費を貯めて区分を消せば、何かが変わる。
昼のチャイムが響く。
同僚の木嶋が弁当を片手に笑った。
「おい城谷、聞いたか?」
「何を」
「来たんだってよ。中央から、特別な奴が」
「誰?」
「知らねぇけど、見た奴が言ってた。真っ白だってさ」
「……は?」
木嶋は目を細めて肩をすくめる。
「とんでもなく面がいいとも言ってた。まさかαなんじゃねぇかな」
周りの作業員たちがざわめく。
「αなんて、もういやしないだろ」
「研究所の連中が何かやってるんだよ」
「中央の奴らのことはよく分からねぇ」
克巳は胸の奥がひやりと冷えるのを感じた。
αという音が、金属の中でこだまするように聞こえた。
◇
業務を終えた頃、プラントの外では影が長く伸びていた。
もうすぐ日が落ちる。
工具を片付けに整備区画の奥へ進むと、白い影が目に飛び込んできた。
銀灰色の髪、血の気のない肌、真っ白なシャツ。
恵まれた体躯がシャツの布地を押し返すように張り詰めている。
蛍光灯の光が深く落ち、表情は読めない。
視界の端で計器の冷たい光が揺れた。
異様に静かな足音が遠くなり、真っ白な彼が通路の奥に消えていった。
残った空気がざわつき、乾いた体にまとわりつく。
ほんの一瞬、油と金属の匂いの中に、魅惑的な甘い香りが混じる。
克巳は息を止めた。
鼻腔の奥が熱くなる。
考えるより早く手首の計器に目線を落とす。
心拍数が上がっていた。
「……今の、誰だ?」
こぼれ落ちた呟きが霧散する。
目を閉じて呼吸を落ち着けると、嗅ぎ慣れた無機質な空気が戻ってくる。
しかし皮膚の内側では何かが蠢いている。
自分の中に眠っている“あれ”が、目を覚ますのではないか。
恐怖で目の前が暗くなる。
脳裏には、子どもの頃から何百回も繰り返し観てきたビデオの映像が浮かんできた。
——バース性のコントロール
——安全な社会と健やかな生活
——薬を欠かさず飲みましょう!
朗らかに笑う女性と、甲高い声のマスコットが歌に合わせて踊っている。
平易な言葉で包み込んだものは要するに、バース性に狂わされて破滅するなという警告だ。
けれど現代において、薬で抑制され続けたバース性はすでに希薄となり、社会のレールに乗って生きていれば不自由することはないはずだ。
教育による恐怖の刷り込みが、悪い想像を掻き立ててくる。
固まった脚を無理やり動かし、家路へ急ぐ。
もうすぐ薬の時間だ。
家に着くなり錠剤を煽ると、作業着のまま冷たい布団に体を滑りこませる。
胸の奥に灯った火におびえるように、手足は震えていた。
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