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完璧な世界 ※

 冷たい光がまぶたを透かした。  規定時刻六時、照度百分率が自動で上昇する。  合成音声が室内に響く。  「生体データ正常。桐生英司、覚醒を確認しました。体調に変化はありませんか」  英司はゆっくりと起き上がり、背伸びをする。  真っ白な壁、無機質な寝具、造り付けの机。どこにも温度がない。  指通りのよい銀髪を掻き上げて、わずかに眉を寄せた。  「……問題ない」  洗面台の前に立つ。  大きな鏡に映るのは、血の気のない肌と銀灰の髪、淡い青の瞳。  端正な顔つきは、どこか人工的に見える。  輪郭には疲労の影もなく、まるで絵画のようだった。  「こうも完璧だと流石に飽きるな」  自嘲のように呟き、口元を拭った。  冷水が指を滑り落ちる感触に、かすかな現実感を覚える。  完璧な構造はつまらない。この社会も同じだ。  理性を極限まで磨き上げた結果、人は誤差を排除するようになった。  そして完成したものを大切に守ろうとする。  バース性が希薄となった時代に生まれた、強いα性ーー英司もそのうちの一つだった。  ◇  一年ぶりに外へ出た。  灰色の空を背景に、黒い公用車が滑るように走る。  車内は無音に近い。  対面に座るのは、生産プラントC区の管理職員二人と、バース性研究所の監察官。  それぞれのブレスレットが淡く点滅し、生体情報を相互送信している。  「年に一度のα個体社会適応訓練です。今回も標準手順で進めます」  監察官の声は平坦だった。  「プラントの職員には設計指導員として紹介します。詳細情報は秘匿してください」  「……了解」  英司は短く返す。  言葉のやりとりはあっても、会話はない。  冷たい空気の中で、エンジンの振動だけが心地よいリズムを伝える。  窓の外、無彩色の街が流れる。  整然とした区画に並んだ同じ形の建物。  歩く人々も皆、同じ速度で同じ方向を向いている。  「整った街だ」  思わず口にすると、隣の職員が笑った。  「我々の誇りですよ。安全で、統制が取れている」  英司は曖昧に笑った。  ーーだから、つまらないんだ。  ◇  プラント内は白光に照らされ、空気さえも均一化されていた。  ファンの吸気が喉奥を乾かす。  視察の合間、英司は何かを探すように視線を巡らせる。  手首の端末の表示に異常はない。  それでも、胸の奥に何か引っかかる感覚があった。  整備ラインの通路を歩いていたとき、微かに風が熱を持った。  ほんの一瞬、惹き寄せられるような甘い匂い。  英司は思わず足を止めた。  「……ここでは、どんな作業を」  同行していた監察官が振り返る。  「何か気になりますか」  「……ここに、ーーいや、なんでもない」  匂いは跡形もなく消えていた。  気のせいだろうか。  しかし、感覚だけは鋭敏になっていった。  施設の案内が一通り終わると、プラント近くのホテルまで送り届けられる。  日報の欄に“環境異常:感覚的要因”と入力しかけて、手を止めた。  削除。保存。  フェロモンの消えた世界で匂いを感じたなどと書けば、余計な監査が入る。  だが、あの甘さが忘れられない。  英司はベッドに横たわり、天井を見上げた。  思考を止めようと目を閉じても、体の奥で熱がまだ燻っていた。  ◇  管理棟を出て二日目の朝。  カーテンが一人でに開くと、合成音声が響く。  「生体データ:心拍+12%、体温+0.3度。正常範囲内です」  英司は鏡の前に立つ。  昨日より瞳の色が濃い。  光が反射して、より青みを帯びて見える。  「……正常範囲内、か」  完璧で退屈な日々が変わろうとしていた。  プラントへ出勤し、午前はデータチェック。  昼前に管理職から声がかかる。  「桐生さん、午後は作業員たちが集まるので、紹介をさせてください」  「了解しました」  予定された行動。想定された態度。  すべてが既定通りなのに、胸の鼓動だけが早くなっていった。  支給された携帯食を淡々と咀嚼し胃に押し込んでいく。  英司は安全帽をかぶり、足早に作業区画へ入る。  金属音、油の熱気、機械の唸り。  オフィスの無臭とは違う、わずかな人間の匂いがあった。  並んだ作業員たちの前で、英司は姿勢を正して頭を下げる。  「本日より設計指導を担当します。桐生です」  ぼんやりとした顔が並ぶ中で、ひとりの男に意識が吸い寄せられる。  視線が噛み合った。回路に電流が走るように、細胞が息を吹き返す。  鋭い焦げ茶の瞳。  静かで、乾いているのに、底に熱がある。  息を吸うごとに肺が大きく膨らむ。  匂いがした。昨日の甘さと同じ。  いや、それ以上に鮮烈だった。  「桐生さん?」  隣の職員の声に、我に返る。  「……ああ、すみません」  英司は軽く頭を振り、前を向いた。  しかし、視線はもう外せなかった。  ——城谷克巳。胸の名札を読んだ瞬間、血が熱く沸き立つ。  左手首の端末が赤く明滅する。  周囲のざわめきが遠く聞こえた。  「中央の人、すげぇな……」  「αって噂、多分マジだよ」  声が耳に入っても、気にならなかった。  胸の鼓動がうるさいくらいに鳴っている。  ◇  その夜、宿舎の静寂の中で、英司は冷たいブレスレットを見つめていた。  赤い光が異常値のアラートを示している。  体温、心拍、ホルモン値の上昇。  合成音声が告げる。  「情動変化を検知。安定化プログラムを推奨します」  英司は無言で通知を閉じた。  ログを削除する指が一瞬、止まる。  研究所ではもうこのログを見ただろうか。  すぐに管理棟へ戻されてしまうのだろうか。  答えの出ない思考が頭を埋めていく。  あの男は何者だ。  どうして甘い。  枕に頭を沈める。  まぶたの裏に、焦げ茶の瞳が浮かぶ。  呼吸のたびに、熱が一点に集まっていった。  「ああ……彼がそうなんだ」  零れた呟きが、暗い部屋に響く。  ズボンをくつろげると、硬くなり始めた自身を取り出してゆっくりとしごく。  ぎこちない動きだが、あの匂いを思い出すと自然と手が早くなる。  鋭い目つきだった。作業着を着ていた。  肌は日焼けしていて、体格がよかった。  きっと年上だ。唇は厚くて、少し開いていて。  脈打つものがどんどん育っていく。  自分の中の本能が目を覚ましてしまった。  どうしてもあの男が欲しい。  強烈な渇きが英司を飲み込んでいく。  「……く、うっ……克巳、さん……!」  口に出すとなんとも愛しい響きに聞こえ、何度も繰り返し呼びかける。  幻想の中の克巳は、汗の染みたグレーのシャツをはだけさせている。  鋭い伽羅色の瞳に射抜かれる感覚が肌を粟立たせた。  どんな声をしているんだろう。  どんな味がするんだろう。  薄く開いた唇から鋭い犬歯がのぞく。  溢れた唾液が唇を濡らしている。  「克巳さん、克巳さん……っ!」  ブレスレットの光が赤く揺れる。  無意識に腰が跳ね、体の中で波がうねる。  吐き出した白濁がシーツに落ち、荒い息だけが部屋を満たす。  完璧な世界は粉々に壊れてしまった。  あの人が、俺のΩだ。

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