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閉じ込めたもの
浅い眠りから目覚めると、窓の外は雨だった。
湿気を孕んだ空気が肌に貼りつく。
克巳は重い身体を引きずるように立ち上がった。
薬瓶の蓋を開け、白い錠剤を手のひらに落とす。
いつも通り舌の上に載せ、水で流し込む、はずだった。
喉が反射的に嚥下を拒んだ。
えずいた拍子に水が零れ、シャツが濡れて胸に張り付く。
無理やり飲み下し、洗面台の縁を掴む。
「……なんなんだよ」
味のないはずのそれが、今日はやけに苦かった。
工場へ向かうシャトルの空気は、いつもよりも重い気がした。
ゲートの液晶に名前とともに計測データが流れていく。
>状態:軽微な体調不良
>体温+0.4℃/心拍+6%
軽微。そうだ、軽い寝不足だろう、季節のせいだ。
木嶋に「顔色わるいぞ」と言われ、肩をすくめる。
「残業したんで。寝てねぇだけっすよ」
言い終えてから、自分の声が少し上ずっているのに気づいた。
午前、機械区画。
うなる駆動音の中で、澄んだ声が聞こえた。
「城谷さん、よろしいですか」
肌が粟立ち、素早く振り向いた。
白いシャツ、銀灰の髪、淡い青の瞳。
脳に焼き付いた白い影が目に飛び込んできた。
息を吸うことすら忘れる。
「昨日ぶりですね。設計指導の桐生英司です。ここ、少しだけ確認させてください」
物腰やわらかい声音。だが視線だけは痛いほどまっすぐで、逃げ場がない。
広げられた図面の上に身をかがめた桐生の肩が近い。シャツ越しにも厚みが分かる。
白い指先が克巳の手に触れた。
ピッ、ピッ。ブレスレットが短く震えた。心拍が跳ねて、また数字が上がる。
「すみません、誤作動です」
反射的に腕を引く。
「いえ。ぼくの方こそ、距離の取り方が下手で」
桐生は淡く笑った。責めるでも冗談めかすでもない、奇妙にやわらかい笑い。
それが、なぜか怖い。
簡単に会話を切り上げると、奥の整備室へ逃げ込んだ。
やっとの思いで深く息を吐く。
胸の内側で火が小さく灯って、消えてくれない。
軽微な体調不良。液晶の表示を何度も見返す。
何か重大な変化が起きている。不安が確信へと変わりつつあった。
◇
業務を終えて帰宅しても、肌の火照りは続いていた。
液晶に薄い文字が滲む。体温+0.6℃/心拍+7%。
喉は乾いているのに、胃の底は重たい。
鏡を見ると、頬が上気して、白目が充血している。
「……風邪、だろ」
言い訳を口の中で転がす。
端末を取り出し、かかりつけの予約画面を開く。最短の枠を押さえた。
これで大丈夫だ。
錠剤を飲み込むも、再び喉が拒絶する。
水と一緒に押し戻され、思わず口元を押さえた。
しかし、耐えきれず洗面器へ吐き出す。
息をするたびに、えずきが胃からせり上がってくる。
「……ふざけんな」
掌ににじむ汗が冷たい。
飲めなかったらどうなる。自分の体はどうなってしまう。
——いや、自分の体はいま、どうなっている?
たった一錠飲み損ねたぐらいで、という考えと、薬さえ飲めない現状がない交ぜになって脳を埋め尽くす。
混乱と絶望が狭い部屋を満たしていく。
視界の端にはガラスの貯金箱が映る。
今すぐにでも、手術を受けられたなら。
数字が明滅するブレスレットを握りしめ、雨に煙る夜をやり過ごす。
◇
翌日、まだ雨は止まない。
湿った空気が午後のぬるい温度に染まってぼんやりと漂う。
体の熱は少し引いたはずなのに、体の芯には残り火が燻っている。
作業台の前で工具を取ろうとしたとき、またあの声が投げかけられた。
「城谷さん、少しだけお時間いいですか」
振り返るより先に、肩口に白が迫る。
「昨日の件、再確認を。——あちらの奥、使えますか」
普段は誰も入らない予備の設備室。
「あそこ、ですか」
「はい。静かな方が、話しやすいので」
静かにドアが閉まる。
換気ファンの低い唸りの奥に、モーターの振動と、微かな雨音が聴こえる。
空気の止まった密室に、胸がざわつく。
目深に被った制服帽のつばを握って目線を逸らした。
「何を、話すんですか」
「……息が浅いですね。体調はどうですか」
敬語のまま、やわらかく笑いかけてくる。
けれど、距離は近い。近づいてくる。
「問題ない、です」
自分の声が掠れる。
桐生の青い瞳が、それに反応して細くなる。
視線が絡んだ。
強く射抜かれて外すことができない。
整いすぎた顔。通った鼻筋。薄い唇。
首元に浮かんだ血管が、服の下で静かに脈打っている。
「……ぼくのこと、意識してくれてますか」
声は、ほとんど耳元で囁かれた。
逆らう気力が押し流される。
ピッ、ピッ。また手首の端末が鳴る。
液晶が小刻みに明滅して、体温と心拍の数値が上がる。
「……あ、これは——」
桐生の指が、克巳の手首をそっと覆った。
「ぼくに集中して」
分厚い体が寄せられる。
制服の布越しに、硬い胸板の感触。
桐生が深く息を吸う気配が、喉元に触れた。
「……いい匂いがします」
油とも金属とは違う、誘うような甘さ。
それが自身の皮膚から立ち上っていると理解した瞬間、諦めにも似た気持ちが胸を塞ぐ。
「……α、なんですか」
自分でも驚くほど弱い声だった。
「……そうだと言ったら、何か変わるんですか?」
青い瞳にのぞき込まれ、腹のうちを見透かされるような感覚に襲われた。
桐生のバース性がなんであれ、克巳がΩであることに変わりはない。
この体の熱に身を委ねようとしていることに、言い訳はできなかった。
「無理しないでください。城谷さんの体は、我慢の限界みたいですよ」
遠くで機械の作動音が続く。
世界が均一に動いているのに、この部屋だけが密度を上げていく。
背中が壁に触れた。
色白な二本の腕が克巳を閉じ込めてしまう。
桐生の鼻先が首筋をなぞる。
長く熱い息が汗ばんだ肌を撫でる。
ゆっくりと唇が押し当てられる。
原初的な恐怖が胸を締めつける。
誰かに歯を立てられることなんて、ついぞ想像すらしなかった。
こんな時代に、うなじを隠す必要はないだろうと。
唇の感触から熱が広がる。
短い電子音が鳴りやまない。
震える指が、桐生の背に回った。
これが、薬で抑えていた自分の本当の姿なのかもしれない。
——とろりと、思考が溶け落ちた。
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