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ありふれた悪意 ※
翌朝、鏡の前で作業着の皺を伸ばした。
昨夜は眠れなかった。目の奥にまだ熱が残っている。
——匂い、してないよな。
思わず、胸元のシャツに鼻を寄せて確かめる。
洗剤の匂いしかしないはずなのに、嗅覚の奥で甘い残り香がよみがえった。
英司の手の温度、息の近さ、言葉の響き。
思い出すたびに、喉が渇く。
生産プラントのゲートをくぐると、空気が違っていた。
ざわめきが続く。
誰かの視線が、こちらを向いたまま止まっている気がする。
「……おはようございます」
声を出した瞬間、周囲の会話が途切れた。
嫌な静けさに、誰かの呟きがこぼれた。
「……Ωだ」
——その一言だけで、十分だった。
誰かが、個人記録を流したのかもしれない。
情報を閲覧できる権限は、限られた職員しか持たないはずなのに。
それでも噂は、情報より早く拡散する。
克巳は追われるように、足早に担当区域へ向かった。
作業区の奥から、木嶋が姿を見せた。
作業帽を脱ぎ、軽く笑う。
「おい城谷、昨日は大変だったな。桐生さんには送ってもらったのか?」
その声音は、心配とも冗談ともつかない。
けれど、わざと周りに聞こえるような音量で話す態度が、腹の底に冷たいものを落とした。
「……どうだっていいだろ」
答えると、木嶋は顔を寄せてきた。
耳元にかかる息。
「なあ……設備室で何してたんだよ」
語尾に混ざる下卑た含みが、肌に刺さった。
克巳は黙って身を引く。
距離をとることが、唯一の防御だった。
業務が始まり、目の前のことに集中しようとする。
だが、ボルトを締める指先が震える。
機械油の匂いの中に、ほんのわずか——自分の匂いが混ざっている気がする。
そんなはずはない。
薬を飲んでいなくても、体調に変化はない。
そう思い込もうとしても、切迫感は消えてくれなかった。
昼過ぎ、英司が作業区に姿を現した。
現場全体の空気が色めき立つ。
作業員たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁く。
「お姫様をお迎えに来たんだ」
「愛しのα様ってやつだろ」
——ああ、もう完全に知られてる。
克巳はばつの悪さに顔を伏せ、歯を食いしばった。
英司はそのざわめきを察していた。
彼の視線が克巳を探し、すぐにこちらへ歩いてくる。
「……体調、どうですか」
声を潜めた問いかけに、克巳は首を横に振った。
「平気です。……仕事中なんで」
「なら、担当区域変えてもらいましょう。これじゃあ——」
「俺のせいで、あんたまで変な噂立てられたくない」
言葉を遮って、英司の手を振り払う。
手袋越しに触れた指の感覚が、じんと残った。
英司の表情が曇る。
それでも何も言わず、背を向けた。
作業に打ち込み、雑念を振り払う。
しばらくすると工場の照明が白く灯った。夕刻になっていた。
残業に入った作業場は人がまばらだ。
機械の唸りが、やけに大きく響く。
克巳は誰もいない一角で、一人図面を見ていた。
そこへ、背後から声が落ちた。
「なあ、さっきは悪かったよ。ちょっと話そうぜ」
木嶋だった。
軽い調子で近づいてくるが、瞳の奥は笑っていない。
「……話すことなんてねぇよ」
「…………桐生さんと、どうだった?」
湿った声が近づく。
張り詰めた空気が圧し掛かってきた。
「……てめぇに関係ねぇだろ」
克巳は立ち上がろうとした。
だが腕を掴まれた瞬間、身体の芯が跳ねた。
頭蓋の中で警鐘が鳴る。脈が早くなる。
汗が、首筋を伝う。
「……おまえ、エロい匂いがする」
木嶋の指が、袖越しに肌をなぞる。
克巳は全身を強張らせた。
——ちがう、やめろ。
拒む声が出なかった。
浅く息を吸うも、鉄と油との匂いしかしない。しないはずだ。
心臓の鼓動が、周囲の機械音よりも大きく聞こえる。
「昨日、おまえを探して設備室の前まで行ったんだよ。
そしたら、あんあん大声が聞こえるわけ。
お盛んなこったと思ったら、出てきたのがおまえらで腰抜かしたよ」
「……ゃ、めろ」
「顔真っ赤で全身汗だくにしてさ、おまえってセックスのときあんな顔するんだ。
設備室入ったらよぉ、えっろい匂いが籠ってて、Ωくせぇのなんの!
……散々お楽しみだったみたいだな?
あちこち濡れてたの、俺が掃除してやったんだから感謝しろよ」
胸の中で恐怖が膨らんだ瞬間、木嶋の目が細くなった。
「……一発ヤらせろ」
空気の密度が一気に変わる。
床に押し倒され、両腕を掴まれる。
「ふざけんな!どけよ!」
「なあ、乱暴したい訳じゃないんだって。
あいつにはさっさとヤらせたんだから、俺だっていいだろ?」
「いいわけあるか、くそ、触んな……っ!」
「Ωって勝手に濡れるんだろ?……やべー、ΩモノのAV好きなんだよ、俺」
木嶋の体重が腹部にかかり、息が詰まる。
掴まれた腕が軋み指先が冷えていく。
これまで体格差を意識したことはなかった。
同僚は、こんな顔をしていただろうか。
克巳は脚を跳ね上げ、なんとか木嶋を退かそうと足掻く。
生理的な嫌悪感から涙があふれてくるが、それを見られるのすら屈辱に感じ、芋虫のように丸まって視線から逃れる。
「どけって!こんなことして、後悔するぞ!」
「なんでそんな嫌がるんだよ。いいじゃん、Ωってセックス好きなんだろ」
そんなわけあるか!と膝を木嶋の背中に打ち付ける。
一瞬の隙を突いて拘束から抜け出すが、背を向けたところで足首を掴まれ、再び床に沈む。
先ほどとは比にならないほど力が強い。
「……めんどくせーな。もういいわ」
強引に下着ごとズボンを引き下げられ、臀部が晒される。
暴れようにも片手でうなじを掴まれて身動きがとれなかった。
「き、じま……冗談だよな?お、おれなんかに興奮するわけねぇよ、なあ……?」
背後の気配が恐ろしくて、歯の根が震える。
問いかけに答えはない。
ベルトを解く音、衣擦れの音。
自分の脈動がいやに耳の奥に響く。
人肌の塊が尻の合間に乗せられる。
少し湿った、脈打つもの。
「いやだ、木嶋、頼むから……っ!」
悲鳴のような抗議は首を強く締められて途絶えた。
「……うわ、腫れててエロ……挿れたら濡れんのかな」
押し付けられた熱の先が蕾に食い込む。
冷たくなった手足を振り回して抵抗する。
だれか、たすけて。
——英司。
そのとき、ドアの向こうから靴音が響いた。
鈍い照明の中で、英司だけが白く光って見えた。
冷たい目がこちらを見た瞬間、時が止まる。
「——どけ」
英司の声は低く、鋭く、重力のような強制力があった。
木嶋が反射的に手を引く。
呼びかけようとして、喉の奥で声が掠れた。
英司の瞳が、光を吸い込んだように暗く光っている。
その目に射抜かれ、誰も動けなかった。
「服務規程違反。いや、犯罪行為ですね」
淡々とした言葉の裏に、殺気のような緊張が走る。
木嶋は何か言いかけたが、英司の一歩で口を閉じた。
「……ぼくのΩに手を出して無事で済むとでも?」
木嶋は短い悲鳴を上げ、逃げるように通路の向こうへ消えた。
痛いほどの静寂。
威圧感が解けても、体はまだ硬直したままだった。
「克巳さん」
英司の声が耳に触れた瞬間、緊張が熱に変換される。
傾いた体を英司が支える。
腕の中は、熱を帯びた檻のようだった。
「……外へ出ましょう」
言われるままに頷く。
匂いにつられて、体が動いた。
非常階段を降りると、夜の湿気が頬を撫でた。
外は雨だった。街灯の下で、雨粒が鈍く光る。
克巳の息が浅い。
英司は無言で、彼の肩を抱く。
「……歩けますか」
「……たぶん」
そう答えたのに、足がもつれる。
英司が抱き寄せる。
そのたびに、胸の奥で火花が爆ぜる。
駐車場の端に停めてあった車になだれ込む。
ドアが閉まる音で、世界が閉じる。
匂いが、温度が、互いを惹きつける。
「……あの人に、何された?」
英司の声が掠れる。
「俺のせいだから……俺が、Ωだから……」
「違う。悪いのは、触れようとした方です」
英司が強く言い切る。
視線を向けた瞬間、英司の顔が近い。
瞳の奥が何かを訴えかけてくる。
胸が震えた。
ゆっくりと唇が重なる。
間近で触れる呼吸が熱い。
体ごと触れたい。
欲求に突き動かされるまま再び顔を寄せると、英司は静かに肩を抑えた。
「……っ駄目です。今、すごく……反応してる」
英司の喉がかすかに鳴った。
「匂い、してます。あなたの……フェロモンが」
昨日よりも狭い密室には、すでに甘い香りが充満していた。
じくじくと疼き始める体。胸の奥から湧き上がる熱。
呼吸が浅くなり、ゆるく開いた唇からは舌先が覗く。
「……ぼくを、止めてください」
英司の理性が最後の抵抗を試みる。
耐えるように瞳を閉じている姿がいじらしい。
息を吹きかけるように耳元に唇を寄せる。
「……止まらなくていいよ」
酩酊した言葉の端が、わずかに震えた。
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