7 / 7

ありふれた悪意 ※

 翌朝、鏡の前で作業着の皺を伸ばした。  昨夜は眠れなかった。目の奥にまだ熱が残っている。  ——匂い、してないよな。  思わず、胸元のシャツに鼻を寄せて確かめる。  洗剤の匂いしかしないはずなのに、嗅覚の奥で甘い残り香がよみがえった。  英司の手の温度、息の近さ、言葉の響き。  思い出すたびに、喉が渇く。  生産プラントのゲートをくぐると、空気が違っていた。  ざわめきが続く。  誰かの視線が、こちらを向いたまま止まっている気がする。  「……おはようございます」  声を出した瞬間、周囲の会話が途切れた。  嫌な静けさに、誰かの呟きがこぼれた。  「……Ωだ」  ——その一言だけで、十分だった。  誰かが、個人記録を流したのかもしれない。  情報を閲覧できる権限は、限られた職員しか持たないはずなのに。  それでも噂は、情報より早く拡散する。  克巳は追われるように、足早に担当区域へ向かった。  作業区の奥から、木嶋が姿を見せた。  作業帽を脱ぎ、軽く笑う。  「おい城谷、昨日は大変だったな。桐生さんには送ってもらったのか?」  その声音は、心配とも冗談ともつかない。  けれど、わざと周りに聞こえるような音量で話す態度が、腹の底に冷たいものを落とした。  「……どうだっていいだろ」  答えると、木嶋は顔を寄せてきた。  耳元にかかる息。  「なあ……設備室で何してたんだよ」  語尾に混ざる下卑た含みが、肌に刺さった。  克巳は黙って身を引く。  距離をとることが、唯一の防御だった。  業務が始まり、目の前のことに集中しようとする。  だが、ボルトを締める指先が震える。  機械油の匂いの中に、ほんのわずか——自分の匂いが混ざっている気がする。  そんなはずはない。  薬を飲んでいなくても、体調に変化はない。  そう思い込もうとしても、切迫感は消えてくれなかった。  昼過ぎ、英司が作業区に姿を現した。  現場全体の空気が色めき立つ。  作業員たちが顔を見合わせ、ひそひそと囁く。  「お姫様をお迎えに来たんだ」  「愛しのα様ってやつだろ」  ——ああ、もう完全に知られてる。  克巳はばつの悪さに顔を伏せ、歯を食いしばった。  英司はそのざわめきを察していた。  彼の視線が克巳を探し、すぐにこちらへ歩いてくる。  「……体調、どうですか」  声を潜めた問いかけに、克巳は首を横に振った。  「平気です。……仕事中なんで」  「なら、担当区域変えてもらいましょう。これじゃあ——」  「俺のせいで、あんたまで変な噂立てられたくない」  言葉を遮って、英司の手を振り払う。  手袋越しに触れた指の感覚が、じんと残った。  英司の表情が曇る。  それでも何も言わず、背を向けた。  作業に打ち込み、雑念を振り払う。  しばらくすると工場の照明が白く灯った。夕刻になっていた。  残業に入った作業場は人がまばらだ。  機械の唸りが、やけに大きく響く。  克巳は誰もいない一角で、一人図面を見ていた。  そこへ、背後から声が落ちた。  「なあ、さっきは悪かったよ。ちょっと話そうぜ」  木嶋だった。  軽い調子で近づいてくるが、瞳の奥は笑っていない。  「……話すことなんてねぇよ」  「…………桐生さんと、どうだった?」  湿った声が近づく。  張り詰めた空気が圧し掛かってきた。  「……てめぇに関係ねぇだろ」  克巳は立ち上がろうとした。  だが腕を掴まれた瞬間、身体の芯が跳ねた。  頭蓋の中で警鐘が鳴る。脈が早くなる。  汗が、首筋を伝う。  「……おまえ、エロい匂いがする」  木嶋の指が、袖越しに肌をなぞる。  克巳は全身を強張らせた。  ——ちがう、やめろ。  拒む声が出なかった。  浅く息を吸うも、鉄と油との匂いしかしない。しないはずだ。  心臓の鼓動が、周囲の機械音よりも大きく聞こえる。  「昨日、おまえを探して設備室の前まで行ったんだよ。  そしたら、あんあん大声が聞こえるわけ。  お盛んなこったと思ったら、出てきたのがおまえらで腰抜かしたよ」  「……ゃ、めろ」  「顔真っ赤で全身汗だくにしてさ、おまえってセックスのときあんな顔するんだ。  設備室入ったらよぉ、えっろい匂いが籠ってて、Ωくせぇのなんの!  ……散々お楽しみだったみたいだな?  あちこち濡れてたの、俺が掃除してやったんだから感謝しろよ」    胸の中で恐怖が膨らんだ瞬間、木嶋の目が細くなった。  「……一発ヤらせろ」  空気の密度が一気に変わる。  床に押し倒され、両腕を掴まれる。  「ふざけんな!どけよ!」  「なあ、乱暴したい訳じゃないんだって。  あいつにはさっさとヤらせたんだから、俺だっていいだろ?」  「いいわけあるか、くそ、触んな……っ!」  「Ωって勝手に濡れるんだろ?……やべー、ΩモノのAV好きなんだよ、俺」  木嶋の体重が腹部にかかり、息が詰まる。  掴まれた腕が軋み指先が冷えていく。  これまで体格差を意識したことはなかった。  同僚は、こんな顔をしていただろうか。    克巳は脚を跳ね上げ、なんとか木嶋を退かそうと足掻く。  生理的な嫌悪感から涙があふれてくるが、それを見られるのすら屈辱に感じ、芋虫のように丸まって視線から逃れる。  「どけって!こんなことして、後悔するぞ!」  「なんでそんな嫌がるんだよ。いいじゃん、Ωってセックス好きなんだろ」  そんなわけあるか!と膝を木嶋の背中に打ち付ける。  一瞬の隙を突いて拘束から抜け出すが、背を向けたところで足首を掴まれ、再び床に沈む。  先ほどとは比にならないほど力が強い。  「……めんどくせーな。もういいわ」  強引に下着ごとズボンを引き下げられ、臀部が晒される。  暴れようにも片手でうなじを掴まれて身動きがとれなかった。  「き、じま……冗談だよな?お、おれなんかに興奮するわけねぇよ、なあ……?」  背後の気配が恐ろしくて、歯の根が震える。  問いかけに答えはない。  ベルトを解く音、衣擦れの音。  自分の脈動がいやに耳の奥に響く。  人肌の塊が尻の合間に乗せられる。  少し湿った、脈打つもの。  「いやだ、木嶋、頼むから……っ!」  悲鳴のような抗議は首を強く締められて途絶えた。  「……うわ、腫れててエロ……挿れたら濡れんのかな」  押し付けられた熱の先が蕾に食い込む。  冷たくなった手足を振り回して抵抗する。  だれか、たすけて。  ——英司。  そのとき、ドアの向こうから靴音が響いた。  鈍い照明の中で、英司だけが白く光って見えた。  冷たい目がこちらを見た瞬間、時が止まる。  「——どけ」  英司の声は低く、鋭く、重力のような強制力があった。  木嶋が反射的に手を引く。  呼びかけようとして、喉の奥で声が掠れた。  英司の瞳が、光を吸い込んだように暗く光っている。  その目に射抜かれ、誰も動けなかった。  「服務規程違反。いや、犯罪行為ですね」  淡々とした言葉の裏に、殺気のような緊張が走る。  木嶋は何か言いかけたが、英司の一歩で口を閉じた。  「……ぼくのΩに手を出して無事で済むとでも?」  木嶋は短い悲鳴を上げ、逃げるように通路の向こうへ消えた。  痛いほどの静寂。  威圧感が解けても、体はまだ硬直したままだった。  「克巳さん」  英司の声が耳に触れた瞬間、緊張が熱に変換される。  傾いた体を英司が支える。  腕の中は、熱を帯びた檻のようだった。  「……外へ出ましょう」  言われるままに頷く。  匂いにつられて、体が動いた。  非常階段を降りると、夜の湿気が頬を撫でた。  外は雨だった。街灯の下で、雨粒が鈍く光る。  克巳の息が浅い。  英司は無言で、彼の肩を抱く。  「……歩けますか」  「……たぶん」  そう答えたのに、足がもつれる。  英司が抱き寄せる。  そのたびに、胸の奥で火花が爆ぜる。  駐車場の端に停めてあった車になだれ込む。  ドアが閉まる音で、世界が閉じる。  匂いが、温度が、互いを惹きつける。  「……あの人に、何された?」  英司の声が掠れる。  「俺のせいだから……俺が、Ωだから……」  「違う。悪いのは、触れようとした方です」  英司が強く言い切る。  視線を向けた瞬間、英司の顔が近い。  瞳の奥が何かを訴えかけてくる。  胸が震えた。  ゆっくりと唇が重なる。  間近で触れる呼吸が熱い。  体ごと触れたい。  欲求に突き動かされるまま再び顔を寄せると、英司は静かに肩を抑えた。  「……っ駄目です。今、すごく……反応してる」  英司の喉がかすかに鳴った。  「匂い、してます。あなたの……フェロモンが」  昨日よりも狭い密室には、すでに甘い香りが充満していた。  じくじくと疼き始める体。胸の奥から湧き上がる熱。  呼吸が浅くなり、ゆるく開いた唇からは舌先が覗く。  「……ぼくを、止めてください」  英司の理性が最後の抵抗を試みる。  耐えるように瞳を閉じている姿がいじらしい。    息を吹きかけるように耳元に唇を寄せる。  「……止まらなくていいよ」  酩酊した言葉の端が、わずかに震えた。

ともだちにシェアしよう!