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研究所にて

 白い光が視界を埋めていた。  研究所のロビーは、まるで模型のように温度がない。  滅菌された空気が肺を冷やす。  受付台にブレスレットを差し出すと、金属音が軽く鳴る。  少しの間があり、奥の自動扉が開いた。  英司が一歩前に出る。  「緊張しなくて大丈夫です。ぼくが守りますから」  柔らかな声。  克巳は短く頷き、足を進めた。  長い通路の奥で、白衣の人物たちが無表情で立っていた。  「こちらへどうぞ」  部屋に入ると、壁一面のガラスの向こうで、無数のモニターが光る。  液晶はびっしりと数値で埋まっている。  まるで自分が標本にでもなったような気分だった。  腕に冷たいバンドを巻かれる。  短い電子音があちこちから聴こえる。  「……まだ少しフェロモン値が高いですね」  白衣を着た初老の女性がそう言い、視線を上げた。  「抑制注射や、抑制薬の服用は続けていますか」  「はい。あ、いや、昨日の晩からは、体調が悪くて飲めませんでした」  英司がおずおずと答える。  だが、女の表情は変わらない。  「興味深いですね。一晩程度の飲み忘れであれば大きな影響は出ません。抑制注射の履歴を見ても、治療の効果は残っていたはず。なのに発情状態に近づいた。誘導発情の可能性があります」  初めて聞く言葉だった。  「誘導……?」  「αのフェロモンパターンによって誘発される、極めて稀な現象です。ここ十年、自然発情すらほとんど観測できなかったのに。……まさか誘導反応を、目の当たりにするとは」  女の瞳が鋭く光る。  研究者の好奇心だろうか。腰が引けた。  「克巳さんを怖がらせないでください」  英司が横から言葉で制する。  「もう出ますか?」  その言葉に、克巳は首を振る。  なにも知らないままではいられなかった。  採血、計測、脳波チェック。  次々と器具が取り付けられていく。  指先まで冷たく、心臓だけが速く動く。  検査官の一人が、タブレットを操作しながら言った。  「桐生英司、α登録番号A-03。デザイン個体ですね」  「……はい」  「反応ログは取得できているので、後ほど採血のみ行います」  克巳が息を呑む。  「デザイン……って」  英司は静かに頷いた。  「ええ。人為的に設計されたαです。遺伝子改変を施された、デザインα。  ——生まれたときから、バース性研究のために作られた存在」  沈黙が落ちる。  冷たい蛍光灯の光が、彼の横顔を照らしていた。  それはまるで、神が描いた理想図のように美しく、そして痛ましかった。  克巳は言葉を失う。  英司の優しさも、体温も、その言葉すら、設計されたものなのかもしれない。  ——そう考えてしまう、自分が嫌になる。  英司はその視線に気づいたように、ゆっくりと微笑む。  「……あなたへの気持ちは本物です。信じて」  優しい声だった。  まるで自身の体は本物ではないかのような口ぶりに、克巳は返す言葉を見つけられないまま、視線を落とした。  そのとき、監察官が低い声で検査結果を読み上げた。  「お二人の遺伝子検査の結果、適合性が非常に高いです。推奨度の範囲内ですので、番登録を進めます」  克巳の喉がひくりと動いた。  「ちょっと待って、適合性?番登録って、なんですか」  「……ぼくたちが番うことを許可してくれる、ってことみたいです」  静かな、しかし怒りを含んだ声音に、思わず振り返る。  「いまさら人間扱いしろとは言いませんが……強引すぎませんか?」  肩に置かれた英司の手に力が入る。  体温を通して彼の憤りが伝わる。    白衣の研究員が淡々と説明を始める。  「番とは、αとΩのパートナー関係を指します。  発情や情動の不安定を緩和し、繁殖機能を安定化させる効果が認められています。  番のいないΩは、フェロモンの過剰分泌によって周囲のαやβを無差別に誘引し、情動の不安定化と身体的な消耗を引き起こします。性交に至れなかった場合、飢餓反応が全身に波及し、心停止やショック死に至るケースもあります」  克巳の胸の奥が冷たくなる。  「……死ぬ、ってことですか」  「可能性の話です。ただし、過去のデータでは無視できない割合で発生しています」  克巳は思わず、密室での息の詰まる熱を思い出した。  あの嵐の最中で、英司がいなかったら――自分はどうなっていたのだろう。  「城谷さんは今回の誘導発情によって、今後は自然発情が起こる可能性が高い。  桐生さんと番登録を行うことで、発情状態を安定させることができるでしょう」  英司がゆっくりと首を振る。  「……ぼくは、彼が望まないことはしたくありません」  「しかし適合率は——」  「番だけは、数値で決めたくない」  静かに言い切るその声が、部屋の空気を震わせた。  監察官は無言で視線を落とし、端末に記録を残す。  「……あなたの意志として記録します。ただし、桐生英司。  研究管理下のαが命令を拒否した記録は、すべて中央へ報告されます」  「構いません」  英司の表情は変わらなかった。  説明が続く。  「今後、城谷さんの抑制治療は中断されます。  発情周期を自然に戻し、今後の経過を観察します」  克巳の背筋が強張る。  「また治療をすれば、今まで通り過ごせるんじゃないんですか……?」  「薬剤によって長く抑制されてきたあなたの体が、Ωとして機能し始めてしまった。   薬の効力は不安定です。抑制治療を継続することはできません。  今後自然発情が起こったときには、ご注意ください」  ご注意ください?  注意すれば、あの灼熱がどうにかなるとでも思っているのか。  自分の意思ではどうにもならない体を抱えて、どうやって。  英司がゆっくりと横目を向けた。  「……克巳さん、行きましょう」  「でも、まだ——」  「もう充分です。これ以上、何も得るものはない」  研究所を出ると、夜の空気が胸を刺した。  人工照明の白が、曇った空に反射している。  英司は着ていたジャケットを、克巳の肩にかける。  「寒くないですか」  「……だいじょうぶ」  並んで歩く舗道の上、水たまりを避けて歩く。  「克巳さんは怖いですか。これからのこと」  「……そりゃあ。でも、昨日より少しだけ、自分がどういう生き物か分かった気がする」  「……あなたは立派ですよ」  「立派なもんか。生きるためにどうしたらいいか、ずっと分からないままだ」  「ぼくも同じです。設計図に生き方までは書かれていませんでしたから」  英司は少しだけ笑った。  それは、冗談のようで、どこか哀しい声だった。  やがて、研究所前に停まったタクシーが二人を分ける。  「明日、また会えますか」  「ああ。遅刻せず出勤しろよ」  英司は頷き、克巳の顔をまっすぐ見た。  「英司さん、無理しないでくださいね」  「お前のせいでくたくただよ」  差し出され続ける優しさに根負けし、克巳はふっと笑った。  扉が閉まり、車が動き出す。  英司の姿が遠ざかる。  克巳は手首のブレスレットを見つめた。  安定値を示す緑の光が、車の揺れに合わせて瞬いた。  ——明日から、どう生きればいい。  誰にも支配されていない自分の体が、ひどく頼りない。  窓の外から、雨上がりの匂いがする。  冷たい夜の空気の中で、英司の残り香を追うように深く息を吸った。

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