6 / 7
研究所にて
白い光が視界を埋めていた。
研究所のロビーは、まるで模型のように温度がない。
滅菌された空気が肺を冷やす。
受付台にブレスレットを差し出すと、金属音が軽く鳴る。
少しの間があり、奥の自動扉が開いた。
英司が一歩前に出る。
「緊張しなくて大丈夫です。ぼくが守りますから」
柔らかな声。
克巳は短く頷き、足を進めた。
長い通路の奥で、白衣の人物たちが無表情で立っていた。
「こちらへどうぞ」
部屋に入ると、壁一面のガラスの向こうで、無数のモニターが光る。
液晶はびっしりと数値で埋まっている。
まるで自分が標本にでもなったような気分だった。
腕に冷たいバンドを巻かれる。
短い電子音があちこちから聴こえる。
「……まだ少しフェロモン値が高いですね」
白衣を着た初老の女性がそう言い、視線を上げた。
「抑制注射や、抑制薬の服用は続けていますか」
「はい。あ、いや、昨日の晩からは、体調が悪くて飲めませんでした」
英司がおずおずと答える。
だが、女の表情は変わらない。
「興味深いですね。一晩程度の飲み忘れであれば大きな影響は出ません。抑制注射の履歴を見ても、治療の効果は残っていたはず。なのに発情状態に近づいた。誘導発情の可能性があります」
初めて聞く言葉だった。
「誘導……?」
「αのフェロモンパターンによって誘発される、極めて稀な現象です。ここ十年、自然発情すらほとんど観測できなかったのに。……まさか誘導反応を、目の当たりにするとは」
女の瞳が鋭く光る。
研究者の好奇心だろうか。腰が引けた。
「克巳さんを怖がらせないでください」
英司が横から言葉で制する。
「もう出ますか?」
その言葉に、克巳は首を振る。
なにも知らないままではいられなかった。
採血、計測、脳波チェック。
次々と器具が取り付けられていく。
指先まで冷たく、心臓だけが速く動く。
検査官の一人が、タブレットを操作しながら言った。
「桐生英司、α登録番号A-03。デザイン個体ですね」
「……はい」
「反応ログは取得できているので、後ほど採血のみ行います」
克巳が息を呑む。
「デザイン……って」
英司は静かに頷いた。
「ええ。人為的に設計されたαです。遺伝子改変を施された、デザインα。
——生まれたときから、バース性研究のために作られた存在」
沈黙が落ちる。
冷たい蛍光灯の光が、彼の横顔を照らしていた。
それはまるで、神が描いた理想図のように美しく、そして痛ましかった。
克巳は言葉を失う。
英司の優しさも、体温も、その言葉すら、設計されたものなのかもしれない。
——そう考えてしまう、自分が嫌になる。
英司はその視線に気づいたように、ゆっくりと微笑む。
「……あなたへの気持ちは本物です。信じて」
優しい声だった。
まるで自身の体は本物ではないかのような口ぶりに、克巳は返す言葉を見つけられないまま、視線を落とした。
そのとき、監察官が低い声で検査結果を読み上げた。
「お二人の遺伝子検査の結果、適合性が非常に高いです。推奨度の範囲内ですので、番登録を進めます」
克巳の喉がひくりと動いた。
「ちょっと待って、適合性?番登録って、なんですか」
「……ぼくたちが番うことを許可してくれる、ってことみたいです」
静かな、しかし怒りを含んだ声音に、思わず振り返る。
「いまさら人間扱いしろとは言いませんが……強引すぎませんか?」
肩に置かれた英司の手に力が入る。
体温を通して彼の憤りが伝わる。
白衣の研究員が淡々と説明を始める。
「番とは、αとΩのパートナー関係を指します。
発情や情動の不安定を緩和し、繁殖機能を安定化させる効果が認められています。
番のいないΩは、フェロモンの過剰分泌によって周囲のαやβを無差別に誘引し、情動の不安定化と身体的な消耗を引き起こします。性交に至れなかった場合、飢餓反応が全身に波及し、心停止やショック死に至るケースもあります」
克巳の胸の奥が冷たくなる。
「……死ぬ、ってことですか」
「可能性の話です。ただし、過去のデータでは無視できない割合で発生しています」
克巳は思わず、密室での息の詰まる熱を思い出した。
あの嵐の最中で、英司がいなかったら――自分はどうなっていたのだろう。
「城谷さんは今回の誘導発情によって、今後は自然発情が起こる可能性が高い。
桐生さんと番登録を行うことで、発情状態を安定させることができるでしょう」
英司がゆっくりと首を振る。
「……ぼくは、彼が望まないことはしたくありません」
「しかし適合率は——」
「番だけは、数値で決めたくない」
静かに言い切るその声が、部屋の空気を震わせた。
監察官は無言で視線を落とし、端末に記録を残す。
「……あなたの意志として記録します。ただし、桐生英司。
研究管理下のαが命令を拒否した記録は、すべて中央へ報告されます」
「構いません」
英司の表情は変わらなかった。
説明が続く。
「今後、城谷さんの抑制治療は中断されます。
発情周期を自然に戻し、今後の経過を観察します」
克巳の背筋が強張る。
「また治療をすれば、今まで通り過ごせるんじゃないんですか……?」
「薬剤によって長く抑制されてきたあなたの体が、Ωとして機能し始めてしまった。
薬の効力は不安定です。抑制治療を継続することはできません。
今後自然発情が起こったときには、ご注意ください」
ご注意ください?
注意すれば、あの灼熱がどうにかなるとでも思っているのか。
自分の意思ではどうにもならない体を抱えて、どうやって。
英司がゆっくりと横目を向けた。
「……克巳さん、行きましょう」
「でも、まだ——」
「もう充分です。これ以上、何も得るものはない」
研究所を出ると、夜の空気が胸を刺した。
人工照明の白が、曇った空に反射している。
英司は着ていたジャケットを、克巳の肩にかける。
「寒くないですか」
「……だいじょうぶ」
並んで歩く舗道の上、水たまりを避けて歩く。
「克巳さんは怖いですか。これからのこと」
「……そりゃあ。でも、昨日より少しだけ、自分がどういう生き物か分かった気がする」
「……あなたは立派ですよ」
「立派なもんか。生きるためにどうしたらいいか、ずっと分からないままだ」
「ぼくも同じです。設計図に生き方までは書かれていませんでしたから」
英司は少しだけ笑った。
それは、冗談のようで、どこか哀しい声だった。
やがて、研究所前に停まったタクシーが二人を分ける。
「明日、また会えますか」
「ああ。遅刻せず出勤しろよ」
英司は頷き、克巳の顔をまっすぐ見た。
「英司さん、無理しないでくださいね」
「お前のせいでくたくただよ」
差し出され続ける優しさに根負けし、克巳はふっと笑った。
扉が閉まり、車が動き出す。
英司の姿が遠ざかる。
克巳は手首のブレスレットを見つめた。
安定値を示す緑の光が、車の揺れに合わせて瞬いた。
——明日から、どう生きればいい。
誰にも支配されていない自分の体が、ひどく頼りない。
窓の外から、雨上がりの匂いがする。
冷たい夜の空気の中で、英司の残り香を追うように深く息を吸った。
ともだちにシェアしよう!

