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一日目・ジク「客人」
「おはよう、リム」
勝手口から庭に出ると一角獣のリムが、森の奥から姿を見せた。
「よしよし。ブラッシングしてやろう」
朝の早い時間、真っ白な毛並みの一角獣は、気まぐれに姿を現す。
丹念に背中をブラシで擦れば、気持ち良さそうに角をなすりつけてきた。
「リム、もう十年だよ。君とこの森で会うようになって。私はこの森に来る前、どこにいたんだろうね。いつまで経っても思い出せそうにないよ」
リムは私を気遣うように、身体を寄せてくる。
「思い出せないんじゃなくて、昔の記憶は全て消え失せてしまったんだろうね。だとしたら、思い出すことは二度とない。リム、もしかして君は、昔の私のことも知っているのかい?」
ブラッシングに満足したリムは、湖へと歩いてゆき、美味しそうに水を飲む。
そして一度だけ振り向き、朝もやの中、森の奥へと帰っていった。
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湖も煙る霧雨の昨日から一転、今日は快晴だ。
客人用のシーツや部屋着を洗濯し、湖の見える庭へ干した。この天気なら、昼過ぎには気持ち良く乾くだろう。
私は黒く長い髪を無造作に結い、動きやすいダボっと裾の広がった下衣と長袖の上衣を身に纏って、客人を迎え入れる準備に励んでいる。
二階の客室の窓を開けて空気を入れ替え、床を箒で掃いていると、戸口先から元気の良い声が聴こえた。
「おはよう!ジク」
「おはよう。今行きます」
大きな声で挨拶を返してから階段を降り、リビングへと向かう。
戸口を入ってすぐのダイニングテーブルで、木靴を脱いだ少年が食材を並べていた。
「えーと。卵、牛乳、パン、チーズ。それからベーコン」
「ご苦労様、ダリ。はい、代金です。それとこれを持って帰ってください。シチューに入れたらおいしいですよ」
配達の少年ダリに、先日のいただき物のお礼を渡す。
「うわぁ、ありがとう。ジクの作る乾燥キノコは香りが絶品だって、母さんが言ってたよ」
「そうですか。美味しく食べてくれるなら、なによりです」
「ねぇ、この前の大きな身体のおじさんは、もう帰ったの?」
「えぇ、元気になって帰っていきました。あのときは臨時の配達をしてもらい、助かりましたよ」
ダリは「へへへ」と誇らしげに胸を張る。
「ジクは、しばらくお休みするの?」
「いいえ。今日からまた新しい客人がやってきます」
「今度はどんな人?」
「さぁ。来てみないと分かりません」
私は首を横に振る。
ダリは「また三日後ね」と手を振り、大きなリアカーを引いて湖の畔の道を進んでいった。
これからまだ森の奥へ、何軒かの配達があるのだろう。
一昨日まで滞在した客人は、特に「食欲」に飢えていた。
好きな料理を聞き出し、キッチンで調理をし食べさせた。始めの頃は、食べ物の味が全く分かっていない様子だったが、美しい湖を見てゆっくりと過ごすことで、味覚を取り戻すことができた。
それからは一日五食を腹に入れ、ほとんどの時間を窓から湖が見えるダイニングテーブルで過ごした。食欲が満たされると、彼はみるみる元気を取り戻す。
途中からは自分で料理を作りたいと言いだし、彼にキッチンを譲った。ダリが三日に一度の配達に来たときに、臨時の注文を入れ食材を追加し、彼は料理を楽しんだ。
私は食事を振る舞う側から、作ってもらう側になり数日を過ごした。
その前に来た客人は、「怠惰欲」に溺れたいと訴えてきた。
規律の厳しい軍での生活に疲れ果てたらしい。私は彼に全てのことをしてあげた。身の回りの世話はもちろん、風呂に入れば頭も身体も洗ってやった。歯だって磨いてやり、食事は口まで運んであげた。
そんな生活を数日続け、より怠惰になるような者は、そもそも我が国の軍に所属していない。
彼は徐々に私の手助けを拒むようになり、自立し立ち直っていった。
この館にきた客人は、どんな我が儘も許される。
ここは、疲れた騎士や兵士が精神の回復の為に送り込まれてくる場所だから。
回復の為なら、私はできる限りの我が儘を聞き入れる。
ただ、軍で起きたこと、街で起きたこと、隣国との関係は話題にしないと、定められている。
「承認欲」で、武勇伝を語りたがる者もいるが、それは聞いてあげられない。
私が聞くのは、子どもの頃の思い出話くらいだ。野山で山羊と走り回った話や、熊を倒した話ならば、相槌を打ちながら何度でも聞いてやる。
客人の本当の名前も、年齢も階級も所属も、あえて知らないまま接するのが、この「癒し処」の決まりなのだ。
私は現在、国が、街が、どういう状態なのか、把握していない。この湖の畔の、世間とは切り離された場所で、軍に所属する者を癒すことのみを任されている。
抱いてくれと言われれば抱くし、抱かせてほしいと言われれば抱かれる。
それが私の仕事だ。
騎士がこの館に辿り着いたときのぐったりした表情と、帰るときの清々しい表情を見比べれば、やりがいのようなものも感じている。
—
午後。カラッと乾いたシーツや部屋着を取り込んでいると、湖の畔の道を一人の青年が歩いてくるのが見えた。
あの男が、今回の客人だろうか。
手足が長く、姿勢よく森を歩く姿は美しく絵になっている。
ここに送り込まれるということは、疲弊し軍隊を離脱したはずなのに、気高い誇りを感じさせる歩き方だった。
常日頃、馬に乗り移動している騎士たちは、森の入り口で、馬から降ろされるはずだ。武器類もすべて没収され、丸腰でこの森へ踏み込む。
武器をはずした時点で、自分を支えていた最後の柱を失い、フラフラとした足取りでここまで歩いて来るのがよくあるパターンだった。
この男のように堂々と胸を張った姿で現れるのはめずらしく、何者だろうとその出自に興味を持ちそうになってしまった。
「こんにちは」
詮索を巡らせる前に、こちらから声を掛けてみる。
男は声の主を探すように、辺りを見渡していた。
片手を上げて「こちらです」と指し示せば、庭にいる私を見つけ、軽く頷いて歩みを進めてくる。
彼が身につけているのは、他の騎士と同じ深緑色の軍服だ。階級を示すバッジは規定通り取り外されており、所属等も分からないが、よく手入れされている綺麗な状態の軍服だった。
同じく深緑色のスカーフは首元に美しく結ばれ、髪型も短く整えられていて清潔感がある。
「オマエか。湖の癒し処を任されているジクというのは」
私を品定めするように、綺麗な顔が不躾に見つめてくる。
随分と横柄な態度をとる騎士だと感じた。出自が良く階級が高いのかもしれないが、私には等しく同じ客人である。
「はい。私がジクです。ようこそ、いらっしゃいました」
「あぁ、世話になる」
庭から戸口へ案内しながら、説明をする。
「まずはその軍服をお脱ぎください。お帰りになる日まで、この部屋着でお過ごしいただきます」
洗濯物として取り込んだばかりの部屋着を掲げて見せる。
私が着用しているものと同じ、簡素だけれど過ごしやすい上衣と下衣が、暑くも寒くもないこの季節、最も快適なのだ。
「これを俺が?」
「えぇ。お寛ぎいただくためには、軍服のままという訳にはいきませんので」
続いて戸口で靴を脱ぐよう伝えると、不満げな顔を更に歪める。
「大丈夫ですよ。室内はしっかりと掃除してありますから」
私は先に裸足になって見せ、階段を上がる。躊躇いながらも靴を脱いだ彼を二階の客室へと案内する。
「この部屋をお使いください。お茶を用意しておきますので、着替えたら下へお越しください」
彼は不貞腐れたような顔でコクリと頷いた。
上着だけでも預かろうと、着替え出すのを待っていたが、なかなか脱ごうとしないので、諦めて部屋を出る。
彼なりに、スカーフを解き軍服を脱ぐというのは、覚悟がいるのかもしれない。
彼が着替えている間にお湯を沸かし、庭に出てカモミールの花を摘む。陶器のポットに白と黄色の花を入れ、熱々の湯を注げば、爽やかな香りがキッチンに漂う。
お茶の準備ができた頃、階段をペタペタと裸足で降りてくる足音が聞こえた。
部屋着を身につけた彼は、軍服姿よりぐっと幼く感じる。二十代半ばくらいだろうか。年齢を問うことはないので正確には分からないが、私より十歳ほど年下だろう。
ただ幼くても、造形としてとても美しかった。夕方の太陽のようなオレンジの髪色に、赤みの強い瞳。身に纏うものが簡素になったことで、より素体の良さが引き立ったのだろう。
一瞬見惚れそうになった気持ちを引き締める。個人的な感情は持つべきではないから。
ダイニングテーブルにカップを置き、ポットからカモミールティーを注ぐ。
「どうぞ」と椅子を指させば、彼はストンと腰を下ろし、フーと深いため息をついた。シャンと伸びていた背筋も、心なしか丸まっている。
馬や武器を手放しても保ち続けた騎士としての誇りは、軍服と靴を脱いだことで、ようやく剥がれ落ち始めたようだ。
「なんとお呼びしましょうか?」
「え?俺には名前など……」
「えぇ。ここでは本当のお名前は必要ありません。ご希望を伺い、その名前でお呼びします」
彼は首を傾げ考える。
「名前……。うーん。では、アロ、アロがいい」
皆、なんらかの思いが籠った名前を告げるものだ。彼もきっとこの名前に思い入れがあるのだろう。
「では、アロ。冷めないうちにお茶を召し上がれ」
フーフーと冷ましながら、カップに口をつける仕草が可愛いらしい。
熱いお茶を味わうように飲んでから、「美味い」と小さな声を出した。
「そうでしょう。摘みたての花を使っていますから」
「何というお茶だ?」
「お飲みになったこと、ありませんか?カモミールティーですよ」
「なんとなく懐かしい味だ……」
「幼い頃に飲んだことが、あるのかもしれませんね。けれど軍では口にする機会がなかったのでしょう」
気に入ったようで、一口一口味わって飲んでいる姿が、堪らなく愛らしく見えた
客人に対してこんな気持ちになるなんて、私も少し疲れているのかもしれない。そろそろ休みを申請しなくては……。
気を取り直し、彼の目の前の椅子に腰掛ける。
「アロは、ここで過ごす間、特に癒したいことはありますか?」
「癒したいこと?」
彼は、カップを両手で持ったまま首を傾げる。
「皆さん色々おっしゃいます。童心に帰って湖で遊びたいとか、フカフカのベッドでひたすら眠りたいとか、甘い物だけを腹いっぱい食べたいとか、性欲を発散させたいとか」
「せ、性欲?」
「ええ、なんでもいいんです。アロのしたいことをしてさしあげます」
「ジクが?」
「はい。ここには私しかおりませんので。秘密は厳守いたしますよ」
「俺は、別に。別になにもない」
どうやらもう少し、時間がかかりそうだ。
「そうですか……。では、夕飯にはまだ時間があります。ここまでの道中、疲れたでしょう。少し昼寝をしたらいかがですか?」
「そうする」
「日が沈みきったら夕食ですから」
アロはカモミールティーを飲み干し、素直に二階の客室へと、階段を上がっていった。
—
窓の外は段々と日が暮れてきた。
キッチンでは、キノコのシチューが出来上がって、食欲をそそる匂いが立ち込めている。
私は鍋の火を一旦止め、戸口から外に出た。この時間の湖を眺めるのが日課なのだ。
かなり傾いたオレンジ色の太陽は、もうすぐ湖の向こう側に吸い込まれていくはずだ。空は赤く染まり、鳥は列を作って巣へと帰ってゆく。
毎日、毎日眺める夕陽の中でも、今日の日の入りは特別に綺麗だった。邪魔する雲もなく、気象条件がいいのだろう。
ふと、アロにも見せてやりたいと思った。まだ、癒されるための心の準備もできていない彼に。
どうせまだ昼寝から目覚めていないだろう、と思いながら、二階の窓を見上げる。
思いもよらずバルコニーに出ていたアロと目が合った。ずっとそこにいたのだろうか?
「起きていましたか。夕陽が綺麗なので、ここへきて一緒に見ませんか?」
大きな声で呼びかけると、アロは何も言わずにバルコニーから居なくなり、しばらくして戸口から姿を見せた。
「ほら、綺麗でしょう?」
太陽が沈む景色を、黙って二人で眺める。
「太陽が湖に沈むと、今度は森から満月が昇りますよ」
「満月……」
再び沈黙していると、彼が途中で鼻を啜った。更に手のひらで涙を拭ったのが分かったけれど、私は真っ直ぐ前を向き、気がつかないふりをした。
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